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玄女

 宋家村は常にない物々しい雰囲気だった。

 江州での一件、梁山泊の軍勢が暴れまわり宋江と戴宗(たいそう)を救い出した事はすでにこの鄆城にも知れ渡っていたからだ。

「だから、俺たちが言った通りだったじゃねぇか」

 趙能と趙得の兄弟はそう言って、時文彬に噛みついた。朱仝と雷横の代理で都頭をしていたごろつき上がりの兄弟だが、今はほとんど正規の都頭のような扱いとなってしまった。

 東京から戻ってきた朱仝は牢詰めの役職になってしまったし、雷横はいまだ出張先から戻ってきていなかったからだ。

 時文彬とて宋江の人となりは知っているつもりではあった。しかしまさか、江州で謀反を起こそうと画策し、あまつさえ梁山泊入りしてしまうとは。ここに到り、時文彬も宋江をかばいきれなくなり、言葉を濁すことしかできないでいたのだ。

 趙能と趙得は部下に武器を持たせ、昼間でも鄆城中を見回らせていた。特に宋太公と宋清の住む屋敷を重点的に、である。

「奴は、宋江は必ずここへ顔を出すだろう。梁山泊の賊になっちまったとはいえ、親兄弟の事を心配しない男ではないからな」

「さすがは兄貴。これでまた宋江を捕まえられれば、俺たちの将来は安泰って事だね」

 ふふふ、と趙能は酒を飲みながら笑った。

 宋家村近くの林に身を潜めていた宋江は焦りを覚えていた。

 すでにここまでお触れが回っていたようだ。とはいえ、ここまで来て戻る訳には行くまい。宋江はじっと林で、屋敷に近づく機会を待った。

 夜も深まり、見張りがあくびをすると眠そうな目をこすりながら、村の外へと歩き出した。交代の時間なのだろうか。

 絶好の機会と見た宋江は、闇にまぎれながら移動すると、屋敷の裏へと回った。

 裏木戸を慎重に叩くと中から反応があった。

 そこに覗いた顔は弟の宋清のものだった。

「兄さん、今度は一体なにをやらかしたんだい。まあ、とにかく中へ」

「すまない」

 宋江は客間へ行き、宋清は宋太公を連れてきた。

 宋江は父の顔を見るなり椅子から飛び降り、平伏した。

「父上そして清(せい)、本当にすまない。私のせいでこんな事に巻き込んでしまって」

「江(こう)よ、向こうで一体何が起きたのか、今さら問い詰めるつもりはない。お前なりの考えがあってのことなのだろう。籍を抜いたとはいえ、わしらは家族だ。もとより覚悟はできておったよ」

 優しげな目で父が見つめる。思わず宋江の目頭が熱くなった。

「本当に迷惑ばかりかけて申し訳ありません。実は父上と清、そしてその家族を迎えに来たのです」

 しかし、宋江ははたときづいた。どうやってここから連れ出そうというのか。宋江は、晁蓋に止められ気が急(せ)くあまり、思わず独りで来てしまったのだが、ここまで警戒の目が厳しいとは考えていなかったのだ。

 趙能と趙得は息巻いて、毎日のように見回りに精を出し、しかも江州からの公文書が届き次第、父と宋清を捕縛する手筈になっているのだという。

「今ごろ、梁山泊では兄さんがいなくなった事に気付いているはず。おっつけ彼らがここへ来てくれるのでは」

 宋清はそう言ったが、はたして本当に迎えに来てくれる保証がある訳ではない。それにそれを待つほどのんびりもしていられないではないか。

 こうなれば一旦、梁山泊へ戻り力を借りるのに頭を下げるほかないだろう。

 父、宋太公は何も言わず固く唇を結んでいる。

「ちょうど今は見回りも睡魔と戦っている時間帯です。もし戻るのなら」

 今がよいでしょう、という宋清の言葉を頼りに宋江は再び屋敷の外へと出た。

 幸いにも月は雲に隠れている。

 闇に紛れるため、なるべく暗い色の着物を身にまとい、物陰から物陰へと移動を繰り返した。見つかるまいとする緊張からか少しの移動で相当に疲れてしまう。背中には汗をびっしりとかいてしまった。

 結構な距離を進んだだろう。宋江が安堵しかけたその時である。

 二里ほど後ろに赤い光がちらちらと揺れているのが見えた。

 どうやら松明の光のようだ。

 見つかってしまったのか。

 晁蓋と呉用の言う事を聞いていれば、と思うも後の祭りだ。宋江は必死に足を速めるしかなかった。

 その時、ふと一陣の風が吹いた。

 その風で雲が払われ、月の光が辺りを明るく照らし出した。

 宋江は近くにあった碑を見て、思わず声を上げていた。

 環道村(かんどうそん)。

 そこは周囲を峻嶺に取り囲まれ、道はただひとつしかない村であったのだ。しかし引き返す事もできず、宋江はそこへ足を踏み入れるしかなかった。

「いたぞ」

 という声が聞こえたような気がした。

 宋江は身を隠すため、林へと飛び込んだ。そしてそこには古い廟があった。宋江はきしむ扉を開け、廟へと踏み込んだ。

 床には埃が積もり、天井には蜘蛛の巣が張り巡らされていた。参拝者もなく、打ち捨てられた古廟のようであった。

 祭壇の奥には床と同じくらい埃の積もった神の塑像が据えられていた。

 宋江は祭壇の裏から隅まで隠れられそうな場所を探した。祭壇にある小さな厨子(ずし)ぐらいしかめぼしい所は見つからなかった。

 追っ手の足音と声が近づいてきた。すでに環道村へと入ったようだ。

「確かにこっちへ来たんだな」

 聞き覚えのある声だった。確か、趙能だったか。

「この村へ入ったからには袋の鼠だな」

 続いて弟の趙得の声が聞こえた。

 追っ手たちが村中に散開し、探し始めたようだ。

 もはやこれまでか。

 宋江は厨子の扉を開け、何とか宋江は潜り込むと体を小さく丸めた。

 しかしここで大丈夫なのだろうか。

 自分が捕まってしまえば、父が弟が、その妻と幼い子にまで累が及んでしまう。

「私はどうなっても構わない、どうか」

 宋江は祈った。何に祈ったかは分からなかった。ただ必死に祈った事だけは確かだ。

 すでに何人かの追っ手が廟の外にいた。

 宋江は祈ることしかできなかった。

 その時である。

 塑像の口元が優しく微笑んだように見えた。

 しかし厨子の中の宋江は、その光景に気付く事はなかった。

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