108 outlaws
玄女
四
空が白みだしてきた。
昨晩の出来事がまるで嘘であったかのように、静かに朝はやってきた。
天書を腹の中に隠し、そっと外へ出た。
近くの地面で、雀たちが呑気に朝飯を啄(ついば)んでいた。
「助けてくれ」
突如、叫びが聞こえた。
雀たちが慌てて飛び去り、何者かがよろよろと駆けてきた。
趙能ではないか。見つかってはまずい、と宋江は松の陰に隠れて様子を見る事にした。
趙能は何かに怯えるように、必死の形相で村の奥へと駆けて行く。宋江の事など、頭の片隅にもない様子だった。
何が起きたというのだ。
その答えはすぐに出た。
趙能の後方から、二丁の板斧を持った、色の黒い大男が吠えながらやって来たのだ。
黒旋風の李逵である。
李逵が猛りながら、趙能を追っていたのだ。
「待て、この野郎。兄貴をどこへ隠した」
「知らねぇよ、こっちも探してんだ」
李逵を止めねば。
宋江が飛び出そうとした時である。趙能が木の根に足を取られ、転んでしまった。
間に合わなかった。李逵はそのまま板斧を趙能に振り下ろした。趙能は悲鳴を上げる間もなく、斧の餌食となった。
李逵、と宋江が姿を現した。
「おお兄貴、無事でしたかい。この李逵が来たからには、もう安心ですぜ」
嬉しそうに駆け寄って来る李逵。親に会った子供のように、本当に無邪気な笑顔だった。
宋江は趙能の亡骸に目をやり、ありがとうと礼を言った。
「宋江どの、ここにおられましたか」
そこへ二人の男がやってきた。
宋江は少し考え、思い出した。
欧鵬と陶宗旺、黄門山で出会った二人である。
梁山泊への誘いに良い反応を示していたものの、いずれという話になっていたはずだった。
「捕り手たちはあらかた片付けただ。他のみんながあっちで待ってるだ」
陶宗旺がそう言って背を向けた。ついて来い、ということだろう。
環道村の入り口に向かう途中で劉唐、石勇、李立と合流した。
「やっぱり宋江どのは運が強い」
石勇はそう言って笑った。
道には捕り手たち、趙兄弟の手下たちが転がっていた。宋江はそれを見て、表情を曇らせた。
がさり、と脇の草むらから音と共に何かが飛び出してきた。
「よくも兄貴を」
それは趙得だった。手にした朴刀が宋江を狙っていた。
劉唐も李逵も手の届く位置ではなかった。必死に間に入ろうとするがそれは叶わず、宋江に向かって刃が振り下ろされた。
だが趙得が何かに弾き飛ばされたかのように、あらぬ方向に飛んだ。
趙得は何度か地面を転がり、止まった。その目は見開いたままであった。
「油断大敵だぞ、宋江」
ぱっと宋江が声の方を向いた。
そこに弓を構えた花栄の姿があった。
李立が趙得を確かめ、感嘆の声を上げた。趙得のこめかみを、矢が正確に貫いていたのだ。
「一人で行くなど、無茶にも程があるぞ、宋江」
晁蓋だった。
弁解の余地もない。日を待って、梁山泊から軍勢を出して鄆城に出向く。晁蓋と呉用はそう言ってくれたのだ。しかし焦った自分は、その厚意を受けずに先走ってしまったのだ。
あまつさえ命を救われるという結果に、またなってしまった。
「まあ、そこがお前らしいのだがな、宋江」
という晁蓋の言葉もかえって宋江の耳には痛いものだった。
「良いじゃねぇか。宋江の兄貴が無事だったんだから」
李逵が吠え、一同は違いない、と笑った。
宋太公と宋清もすでに梁山泊へ向かっているという。
はからずも宋清が言った通りになってしまった。弟ながら不思議な男だ、といつも宋江は思ってしまう。
宋江は一度、玄女廟の方角を振り返った。
あの宮殿で嗅いだ香(こう)が、確かに香(かお)っていた。
宋太公と宋清に梁山泊で再会した。
宋清の家族も無事であった。宋江は父と抱き合い、互いの無事を喜んだ。
宋江がいない事に気づいた晁蓋と呉用は、戴宗を鄆城へと急がせた。
鄆城では、やはりというか厳戒態勢が敷かれており、戴宗もおいそれと近づく事はできなかった。物陰に隠れ、何とか得た情報により宋江の危機を知った。
戴宗が急いで梁山泊へ戻ると、晁蓋は救出部隊を派遣したのだ。
宋家村へは杜撰、宋万、王英、鄭天寿らが出向いた。
しかし彼らが到着した時にはすでに捕り手の粗方が片付いており、そこには蔣敬と馬麟が待っていた。さらに黄門山の軍勢が宋太公の屋敷を囲むようにして守っていたのだという。
では黄門山は。
宋江の疑念に気づいた呂方が言った。悔しそうな表情だった。
「黄門山は、陥(お)ちました」
王英、鄭天寿も悔しそうだった。彼らも清風山を、やむなく手放したのだ。その気持ちは痛いほど分かるのだろう。
江州からの援軍が晁蓋一行を追ってきた。それを黄門山軍が追い返すため出陣した。
黄門山の頭目の一人である蔣敬と、梁山泊の呂方は同じ潭州出身であり、友人でもあった。呂方は馬首をとって返し、郭盛と共に黄門山の援護に戻った。
欧鵬をはじめとする頭目たちと屈強な黄門山の精鋭、さらに方天画戟の使い手である呂方と郭盛が加わる。
問題はあるまい、と晁蓋も思っていた。
追ってきた官軍の将は若い男だった、という。
欧鵬らも官軍とは交戦していたし、所詮は官軍と高をくくっていたところもあった。
兵数はほぼ同数。しかしその将は巧みに軍を動かし、つかず離れず攻撃を繰り返した。
どちらかというと黄門山も一気に決着をつける戦が多かったのだろう。援軍に駆けつけてくれた呂方と郭盛も存分の働きをしていた。しかし馬麟や蔣敬に次第に苛立ちが見え始めた。
このままではまずい。そう思い、一旦退却の銅鑼を欧鵬が鳴らそうとした時である。
先に官軍が退却を始めたのだ。
「追撃だ。奴らを逃がすな」
馬麟と郭盛が官軍を追い、飛び出した。
違う。あまりにも絶妙過ぎる、と欧鵬が止める間も無く官軍は向きを転じ、二人に襲いかかった。
多くの部下を失った。
互いに退却の銅鑼が鳴らされ、命からがら馬麟と郭盛が帰投した。
「くそ、姑息な手を」
郭盛が唾を吐く。
「戦に姑息も、姑息じゃないもあるもんか」
呂方はそう言ったが、まったくその通りだった。
暮れなずむ戦場の彼方、その若い将を遠目で欧鵬は見ていた。
今日は相手の勝利と言えた。しかし、それをおくびにも出さない、真剣な目で黄門山を見据えていた。そして何かを確信するかのように頷くと、自陣へと戻って行った。
欧鵬は思い返す。あの時に、負けていたのだ。
二日、同じような戦いが続いた。
官軍は無理な突撃などをしてこず、黄門山はちくちくと何度も針で刺されるような攻撃を受け続けた。
兵たちが疲弊してゆくのが如実に分かった。
肉体的にではない、精神的に疲弊していったのだ。
そこを突かれた。
官軍は一転、猛攻に出た。
黄門山軍は簡単に崩れた。
総員、黄門山から撤退。
欧鵬は部下たちを逃がし、殿(しんがり)を守った。
「すまない。援軍に駆けつけておきながら」
呂方が馬を駆けさせながらそう言った。やはり疲れた顔をしていた。
横を駆ける郭盛の白い軍装が、泥と埃で汚れていた。
官軍は必要以上に追ってこなかった。
欧鵬は手綱を引き、馬の向きを変えた。敵将はじっとこちらを見ていると思ったら、ただ一騎で進み出た。
「我が名は韓世忠(かんせいちゅう)。よく覚えておくが良い」
そう名乗った将の背後には、韓と書かれた旗が堂々と翻(ひるがえ)っていた。
韓世忠か。欧鵬はその顔を頭に刻み込み、仲間の後を追った。
「あんな将がいたのかよ」
馬麟が悔しそうにつぶやいた。蔣敬も陶宗旺も同じようだった。
将としての格の違いを見せつけられた気がした。
欧鵬も元は軍人だが、所詮は地方の守備隊であった。
だが打ちひしがれている場合ではなかった。あの時、怒りに任せ上官を手にかけた時とは違うのだ。あの時、助けてくれた部下たちを、欧鵬は置いて逃げた。
だがいまは違う。頼れる仲間が、部下たちがまだいるのだ。
黄門山一行が向かうは梁山泊。
国と戦う。晁蓋はそう言っていた。
黄門山は身をもってそれを経験した事になる。しかも負けたのだ。
欧鵬は馬麟、蔣敬、陶宗旺を順に見た。
「何か俺の顔についてるのかい」
蔣敬の言葉に、ふふと欧鵬が微笑んだ。
「鄆城で偵察している時に、丁度欧鵬たちと会ったって訳なのさ」
戴宗が嬉しそうに言った。
そして戴宗が梁山泊へ戻っている間に宋家村に乗り込み、宋江の家族を救ったという訳だった。
晁蓋が笑顔で杯を上げた。
「黄門山が陥ちたのは残念だが、そなたたちは宋江の恩人だ。梁山泊は、喜んで歓迎しよう」
「まったく、おいらが兄貴のお父上を助け出すはずだったのによう」
李逵が頬を膨らませている。
「ありがとう、李逵。お前は趙能を倒してくれたではないか。お手柄だよ」
「本当かい。やっぱり宋江の兄貴は分かってるなあ」
宋江の言葉に嬉しそうにはしゃぐ李逵。
「こら、すぐに調子に乗るのがお前の悪い癖だぞ」
「戴宗の兄貴は、すぐに怒るんだから」
聚義庁に笑い声が響いた。
夜、宋江は部屋に一人でいた。
ひとつだけ灯りをともし、戸締りをしてある。
耳をすまし、物音がないのを確認すると引出しからゆっくりと何かを取り出した。
それは三冊の書物。鄆城県環道村、夢の中で手に入れた玄女の天書であった。
救出されてから祝宴が続いており、いままで中身を確認する事ができなかったのだ。
宋江は口をすぼめ、ゆっくりと息を吐き出すとおもむろに表紙をめくった。
宋江は目を見張った。
そこには何も書かれていなかったのだ。
次をめくっても、その次も。紙の上には染みひとつない、真っ白なままだった。
「どういう事なのだ」
宋江は再び一枚めに戻った。
む、とそこで宋江は目を凝らした。
紙の上に、なにかが浮かび上がってきた。
はじめは薄かったが、やがてはっきりとそれは文字になった。
宿に遇うは重々の喜び
高に逢うは凶ならず
外なる夷(えびす)に内なる寇(あだ)
幾処か奇功を見(あら)わさん
天書にはそれ以上、なにも浮かび上がっては来なかった。
宋江は句の意味を何度も考えたが、さっぱりわからなかった。
玄女は他言するなと言っていた。
いや、そうだ。天機の星以外には見せるな、と言っていたか。
だが、天機の星とはいったい誰なのだ。
天は自分に何をさせようというのか。
宋江は深く息を吐くと天書を閉じ、引き出しの奥へとそれをしまった。
久方ぶりに花栄と飲もうか、と宋江は部屋を出た。
頭上には無数の星たちが、競い合うようにして瞬(またた)いていた。