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虎穴

 公孫勝が師の元へと戻った。

 故郷の薊州を出てから、すでに二年以上。師へ報告しなければならないのと、残してきた老いた母が心配でもあるからだという。

 そして何より、道術を今以上に極めなければならない、というのだ。

 薊州は遥か北に位置する州だ。現在は北方の異民族、遼国の支配下に置かれている燕雲十六州の一つでもあった。

「三月(みつき)ほどで必ず戻ります」

 晁蓋、呉用そして宋江にそう誓うと、公孫勝は旅立った。

 宋江は道術というものを見た事はなかったが、これからの戦いにおいて必要不可欠なものであるという事は呉用に聞かされていた。

 それに何より、自分は宋家村から父を連れて来たのだ。母を心配する公孫勝を止める事はできなかった。

 呉用は晁蓋、宋江に向けて話を続けた。

「黄門山の欧鵬らが加わってくれたおかげで、梁山泊も大分楽になります」

 欧鵬、馬麟は林冲や秦明、黄信らと共に兵の強化にあたる。

 陶宗旺は食料の増産に多大なる貢献をするだろう。さらに道路や石垣、水路の建造などにも通じており、九(尾亀の名にしおう多芸ぶりだという。

 蔣敬は呉用の元で会計や物資の管理などを一手に引き受ける事になった。これまではこれを呉用が何とか担ってきたのだが、これで解放された、と実のところほっとしているらしい。蔣敬は、呂方の店の番頭をやるはずが梁山泊の番頭をやるとはな、と冗談ぽく笑っていたという。

 梁山泊の要ともいえる水軍の増強も順調に進んでおり、騎兵、歩兵もそれに負けじと訓練に精を出している様子だ。

「さて、気になる情報があります」

 呉用は神妙な面持ちになった。

 白勝、石勇に戴宗が加わった事で、各地の情報収集がさらに迅速にできるようになった。彼らに周辺の様子を細かく探らせていたのだ。

「この梁山泊をはじめ、官軍と対抗しうる寨がいくつか存在しています、西は華州の少華山、東の青州には二竜山、桃花山などはいずれも好漢豪傑がそろっているとか」

 うむ、と頷きながら宋江は武松の事を思い出した。確か、二竜山へ行くと言っていた。

「さらに、まだどれほど大きくなるかは未知数ですが河北、淮西、江南にも叛乱の徒が集まりつつあるようです」

「ふむ、我ら梁山泊も負けてはいられないな」

 晁蓋が鼻息も荒く、腕まくりをした。

 そうですね、ですが、と呉用は眉をひそめた。

「我らを倒し、名声を得ようという輩(やから)がいるらしいのです」

 それはこの梁山泊の北に位置する、独竜岡にある集落なのだという。

 実際、偵察をしていた石勇の配下が囚われ、瀕死の状態で送り返されたという。梁山泊の者と分かっていての狼藉だったようだ。

「舐めた真似を。宣戦布告という訳だな」

「そう慌てないでください、晁蓋どの。いまはじっくりと基盤を固める時。ましてや公孫勝も不在とあっては」

 時期尚早である。宋江も晁蓋もそれには従わざるを得なかった。

 次に、と呉用が言いさした時、何者かが大股で聚義庁へと入ってきた。

 止めようとする杜遷、宋万などお構いなしに大声を張り上げた。

「おいらも村へ帰る。村へ帰って、ここにおっ母(かあ)を連れてくるんだ」

 李逵だ。李逵が涙まじりに叫んでいた。

「どうしたというのだ、李逵」

「公孫勝がふる里へ帰ったって聞いたぞ。それに兄貴だって自分の家族を梁山泊へ呼んだじゃないか。だからおいらもおっ母を連れてくるんだ」

 そういう訳か。これも公孫勝と同じく、宋江に止める手立てはなかった。

 しかし戴宗もおらず、李逵が言う事を聞くのは、ここでは宋江ぐらいである。晁蓋と呉用は、宋江に何とかするように視線を送るばかりであった。

 ううむ、と唸り宋江はやっと口を開いた。

「わかった、李逵。お前が親思いだという事は充分わかったよ。お母さんを迎えに行ってきなさい。ただし、これから言う三つの約束を守ると誓えるかな」

「この李逵、三つでも三十でも必ず守ります。さすがは宋江の兄貴だ」

 李逵は、ぱあっと顔色を明るくすると、厚い胸板を大きな拳固で、どんと叩いた。

 まだどんな約束かも言ってはいないのに、母親に会える子供の顔になった李逵を見て、宋江は思わず嬉しくなってしまった。

 

 ひとつ。道中は道草を食わず、酒を一滴も飲まないこと。

 ふたつ。道中は誰も同行しない。独りで迎えに行くこと。

 みっつ。いつも持っている板斧二挺は置いていくこと。

 宋江が李逵に出した三つの約束である。

「へへへ、こんな約束どうってことねぇや。宋江の兄貴も、このおいらを見くびってるな」

 意気込む李逵は、宋江らの心配に反し、しっかりと約束を守り、道中何事もなく沂州沂水県(きしゅうきすいけん)にまで着いた。

 見ると西門の外に人だかりができていた。人々は高札を見ているようだ。

 何が書いてあるのか気になった李逵は高札に近づいてゆく。だが李逵の帯を誰かが掴んだ。

「おや、張の兄貴。こんなところで会うなんて。こっちへおいでくださいよ」

 振り返ると、それは朱(しゅ)貴(き)だった。どうして、と言う李逵を制し高札から引き離した。

「危ない所だった。あれは宋江の兄貴、戴宗の兄貴そしてお前の事が書かれた手配書だったのだよ」

 朱貴が目を細め、深い息を吐いた。

 三人の手配書がここにまで回っていていたのだ。三人に懸けられた賞金はそれぞれ宋江が一万貫、戴宗が五千貫そして李逵が三千貫であった。

「そいつは助かった。でも、どうしてここにいるんだい、朱貴の旦那」

 朱貴はもう一度深く息を吐いた。

 宋江は李逵に独りで行くように、と言ったものの心配でならなかった。約束はさせたが何か厄介事を引き起こしそうな予感しかしなかったのだ。

「朱貴が同じ沂水県の生まれです。地理にも詳しいし、彼に頼んでみては」

 杜遷がそう言い、早速朱貴が呼ばれた。

 朱貴も弟が沂水県にいるのだという。朱貴は弟に久しく会っていなかった事もあり、任務を引き受けた。そして李逵が旅立った翌日に梁山泊を出たのだが、何故か李逵よりも先についてしまったという訳だった。

「酒を飲んじゃいけないというから、足が遅くなったんだ」

 李逵の言い訳に苦笑すると、朱貴はとある居酒屋へと案内した。

 奥の部屋をとり、やっと朱貴は安心したような顔を見せた。

「そういや、あんたもここの生まれなんだっけ。ここは知ってる店なのかい」

 李逵がきょろきょろと見回しながら言った。

 すると盆に酒徳利を乗せた男がやってきた。給仕のようではない。どうやら店の主人だと思われた。主人は人好きのする笑みを浮かべたまま、徳利と杯を卓に並べた。

「はじめまして。いつも兄がお世話になっております」

 驚いた顔の李逵に朱貴が言う。

「こいつは俺の弟で朱富(しゅふう)という。この店の主人でもあるんだ」

 朱富はにっこりと微笑んでいる。強面(こわもて)の朱貴とは対照的だった。

 挨拶を返した李逵が、まじまじと目の前の酒を見つめていた。

「どうしたね」

「いや、宋江の兄貴から酒を飲むなと言われてるんだが、もうここまで着いたし少し飲んでも構うまい」

 言うが早いか、李逵は手酌で杯を満たすと一気に呷った。

「うむ、こいつは美味い」

「そうだろう。弟は酒造りの名人でね」

 朱貴が嬉しそうに目を細めた。

 李逵は、美味い美味いと飲み続けている。

「美味そうに飲むお人だ。こっちまで嬉しくなりますねぇ。まだまだ、ありますよ」

 朱富が酒をとりに戻ると、朱貴が声をひそめた。

「ああ見えるが、あいつを怒らせない方がいいぞ。そうなったら、俺にも止められるかどうか」

 笑面虎(しょうめんこ)と呼ばれてるんだ、と笑いながら朱貴も杯を口に運んだ。

 久方ぶりの弟の酒は、やはりとても美味かった。

 

 李逵が朱富の店を出たのは、まだ日が昇るには早い時間だった。

 遠回りでも安全な本道を行け、という朱貴に逆らい裏道を選んだ。裏道を行けば早いが最近虎がよく出るらしく、また追い剝ぎも多いというのだ。

「虎でも追い剝ぎでも出るがいい。おいらは、そんなもの怖かないさ」

 李逵は鼻息を荒くし、腰に朴刀を手挟(たばさ)むと酒の勢いも手伝って意気揚々と歩きだした。

 十里ほど歩き、空も白みだした。

 草むらから飛び出した兎が、まるで道案内するかのように李逵の前を跳ねてゆく。

「こいつは助かるわい」

 兎は茂みへと消えた。

 見ると五十ばかりの大木が生えており、見事な紅葉(こうよう)であった。

「ほう、綺麗なもんだ」

 足を止めた李逵。

 突然、木立の陰から大男が飛び出してきた。

 大男は顔を墨で黒く塗っており、手には二挺の板斧を握っていた。

 大男が李逵に向かって叫んだ。

「血の巡りが良い奴ならば通り賃と荷物を置いてゆけ、そうすれば命だけは奪わないでやる」

「何だお前は」

「聞いて肝をつぶすな、俺は黒旋風だ」

 李逵は驚いて目を丸くした。

 驚いた顔をする李逵に大男は畳みかけるように言った。

「驚いたか。俺が、黒旋風の李逵さまだ」

 一瞬の間(ま)があり、すぐに笑い声が林の中に響いた。

 李逵が涙を流しながら、大笑していた。

「ははは、まったく面白い奴だなあ。よりによって俺さまの名を騙(かた)るとは」

 今度は李逵と名乗った大男が目を丸くする番だった。

「何を言っている。この黒旋風の李逵さまが怖くないのか。命が惜しくば」

 と、言い終わる前に、李逵は腰の朴刀を抜いて男に向けた。

「相手が悪かったな。俺さまが本物の李逵だ」

 ぎょっとする大男。

 まさか、そんな馬鹿な。本物の、黒旋風だというのか。

 大男は李逵を観察した。黒い肌、丸太のような腕、太ってはいるが筋肉質の体躯。

 たとえ本物の李逵ではないとしても敵わないと思えた。

 逃げた。李逵を名乗った大男はくるりと背を向け、走り出した。

 しかし李逵の刀が少しだけ速かった。大男はふくらはぎを斬りつけられ、もんどりうって地面に転がった。

 すかさず李逵が大男の胸を足で押さえつける。

「ひいい、命だけはご勘弁を」

「なんだ脅していた野郎が、今度は命乞いをするのか」

「すみません、俺は本当の黒旋風じゃないんです」

「分かってる。俺さまが本物の黒旋風の李逵だと言っているだろう。しかし俺さまの名を騙るとはいい度胸だったな。覚悟してもらうぜ」

 朴刀を構える李逵を見て、悲鳴を上げる大男。

「俺だって、俺だって本当はこんな事したくなかったんだ。やむなく強盗をしてたんだよ。もうしないから命だけは。俺が死んだら家にいるお袋が」

 お袋、その言葉に李逵は刀を止めた。大男の言葉に、自分の母を思い出したのだ。

「お前は母ためにやったというのか」

「はい。家に九十になるお袋がいるんです。他に養う者もおらず、やむなく黒旋風の名を借りて追い剝ぎをしておりました。ですが決して命まで奪うような真似はした事がありません」

 ふむ、と李逵は思案顔になる。

「本物の李逵さまに出会えたのも何かの徴(しるし)でしょう。金輪際、追い剝ぎなどやめて真っ当にお袋を養います。だからどうか」

「わかった」

 李逵はゆっくりと足をどかすと、そう言った。目には涙が滲んでいるようだ。

 大男の名は李鬼(りき)だという。なるほど似ている事もあり、李逵を名乗ることを思いついたのだろう。

 李逵は懐から錠銀を一枚出し、李鬼に渡した。

 李鬼は去り際、何度も振り返り何度も頭を下げた。そして何処かへと消えていった。

 これであいつも心を入れ替えるだろう。

 我ながら良い事をしたものだ。

 李逵はにんまりとすると、母の事を思い出した。

 

 歩き続けてすでに昼近く。李逵の腹の虫が騒がしくなってきた。

 朱貴の言う事を聞いていればよかったか。この辺りには酒屋はもちろん飯屋などもとんと見当たらない。

 だが見回すと、先に草葺きの家があった。

 飯にありつけるかもしれないと、李逵は飛ぶように駆けて行った。

 出て来たのは髪を束ね、白粉(おしろい)を塗った女だった。

「やあ、姐(あね)さん。おいらは旅の者なのだが、ここらには飯屋も酒屋もなくてね。一貫出すからどうか飯と酒を都合してくれませんかい」

 女はいぶかしんだが、李逵の面相を見て断るに断れなかった。酒はなかったが、飯を三升も炊く事になってしまった。

 当の李逵は礼を言うが早いか裏の山際へ小便をしに行ってしまった。

 まったくなんて奴だい。女はぶつくさ文句を言いながらも、裏木戸へ菜を取りに行った。そこへ一人の男が足を引きずりながら現れた。

「あんた、一体その足はどうしたんだい」

 その男は李鬼だった。

 李鬼は事の顛末を話すと、水で喉を潤した。

「もしかしたら、いま飯をくれと言ってきた男が、その黒旋風かも知れないねぇ。丁度良い、しびれ薬でも入れてやろうじゃないのさ」

 女が声を潜め笑った。

 李鬼も笑みを浮かべ、木戸を開けた時である。

 太い腕がぬっと現れ、李鬼の髪を掴んでしまった。李鬼は抗(あらが)う事もできず地面に押し倒されれた。そして悲鳴を上げる暇もなく、その首は胴体と別れを告げた。

「なんて野郎だ。親孝行だなんて、とんだ嘘をつきやがって。老いた母親などいないではないか」

 李鬼の首を持ち、李逵が嘆くように怒っていた。

 李逵が小便から戻ると、家の中での話し声が聞こえた。そこで隠れて聞き耳を立てていたという訳だ。

 女はすでにいなかった。恐れをなして逃げてしまったのだろう。

「この俺さまを騙そうとするからだ」

 李逵が大笑した。途端に空腹だったことを思い出した。

 かまどを見ると、ちょうど飯が炊けていた。

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