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虎穴

 西日に照らされた百丈(ひゃくじょう)村。そのはずれに小さな家がある。

 ここで李逵は生まれ育った。

 李逵が覗くと、寝台の上に一人の老婆が座って念仏を唱えていた。

「誰だい、そこにいるのは」

「おっ母(かあ)、おいらだよ、鉄牛だよ。元気にしてたかい」

 李逵の母は覗き込むように首を突き出した。

「本当にお前なのかい。いや、その声は確かにお前だね、鉄牛や」

 おっ母、と李逵が駆け寄ったが、母の顔は李逵に向いておらず、迎えるために広げた腕もあらぬ方向を向いていた。

 おっ母、と側へ寄った李逵は驚いた。

 母の瞳が白く濁ったようになっていたのだ。

「年のせいか、泣きはらし続けたせいか、目が見えなくなっちまったよ。ところでお前はこれまでどこにいたんだね、心配したよ」

 すまねぇ、と李逵は涙をぬぐい鼻をすすった。そして精一杯明るい声で言った。

「でもよ、おいら今度役人になったんだ。だからおっ母に楽してもらおうと、迎えに来たんだ」

「本当かい。まあ、お前が役人になるなんて」

 母の見えない目に涙が浮かんでいた。それを見て李逵もまた涙ぐんでしまった。

 役人になったというのは、嘘ではない。

 人を殴り殺してしまい江州へ逃げた。そしてそこで戴宗に拾われ、下っ端ではあるが、牢役人の仕事をもらったのだ。

 今はそれも過去の話となってしまったのだが、李逵は母を安心させたい一心だったのだろう。

「そうだねぇ、でもお前の兄さんがそろそろ帰って来るから、相談してからにしようかねぇ」

 兄さんとは、李達(りたつ)という李逵の兄のことだ。町に年季奉公に出ており不在だったが、戻ってくれば反対されるに決まっている。

 李逵は、大丈夫大丈夫、と母親を背負い半ば強引に連れて行こうとした。

 そこへその李達が帰ってきた。李逵の兄とは思えない、どこにでもいる普通の男であった。

 李逵は、にこりとしてお辞儀をすると兄に挨拶をした。

「お久しぶりです、兄貴」

「お久しぶりだと、この野郎」

 対して李達は弟を見るなり、ものすごい剣幕で怒りだした。

「お前が逃げたから、俺がどれほど酷い目にあわされたか分かるか。今頃のこのこ戻ってきやがって」

 罰を受けそうになった李達だったが、李達の奉公先の旦那が役所に口利きをしてくれたおかげで、なんとか事なきを得たというのだ。

「まあまあ、鉄牛はお役人になったんで私たちを迎えに来たんだよ」

 しかし、李達は母の言葉をも一蹴した。

「おっ母(か)さん、騙されるなよ。こいつは、いま梁山泊に加わってお尋ね者になってるんだ。懸賞金を三千貫も懸けられて、よくここまで生きて顔を出せたもんだ」

「そう怒るなよ、兄貴。一緒に梁山泊に行って、楽しく暮らそうや」

 李達は李逵を睨みつけた。

 この沂州に住む李達の耳にも、梁山泊の噂は届いていた。

 曰(いわ)く、官軍さえも寄せ付けぬ難攻不落の寨で、頭領たちは酒も金も事欠かない毎日を送っていると。

 しかし李達にも恩があった。奉公先の旦那への恩を捨ててまで、山賊になろうとは思わなかった。李達は強く拳を握りしめた。

 くそ、と李達は壁を殴るとどこかへ行ってしまった。さすがに兄とはいえ、李逵を殴る事はできなかったようだ。

 鉄牛や、と李逵の背で母が悲しそうな声を出した。

 李逵は兄が捕り手たちを引き連れてくるかもしれないと考え、母を背負ったままそそくさと立ち去った。

 数刻後、李達は店の下男たちを連れて戻ってきた。そこで李達が見たのは寝台の上に光る、見た事もないほどの大きさの錠銀だった。五十両ほどはあるだろうか。

「李逵はどこへ」

 続いて駆けこんできた下男たちに見えないよう、李達は懐に錠銀を隠した。

「あの野郎、おっ母(か)さんを連れて逃げやがった。この辺は路が狭くてややこしい。どこへ行ったのやら見当もつかぬ」

 そう言って、落ちていた籠(かご)を蹴とばしてみせた。

 下男たちもそれでは仕方ない、と三々五々戻って行った。

 李達は峠の方角を見つめながら、鉄牛よ、と呟いていた。

 懐の錠銀が、とても重く感じた。

 

 日がとっぷりと暮れてしまった。

 李逵は母を背負ったまま山道を歩き続けていた。

 母が囁くように言った。

「喉が渇いたねぇ。どこかに水はないかねぇ」

 確かに李逵も喉が渇いていた。昼から二人とも水を飲んでいなかった。しかしここ沂嶺(きれい)を越えなければ人家もないのだ。

「待っててくれ、おっ母。天辺(てっぺん)まで登ったら探してあげるから、もうちょっとだけ辛抱しておくれ」

 やがて嶺の上までたどり着くと、李逵は母を大きな松の側に下ろした。側に青石があったのでそこへ腰掛けさせ、傍らに朴刀を突き立てた。

「すぐ戻って来るから待ってておくれよ、おっ母」

 李逵はそう言うと、飛ぶように駆けだした。

 星明かりを頼りに探していると、遠くで水の流れる音を聞いた。

 李逵が喜び勇んで行って見ると、そこには清らかな谷川が流れていた。

 両手で水を救って李逵はそれを口にした。

 李逵は喉を鳴らして水を飲む。渇いた喉が一気に潤されるのが分かった。

「うまく見つかったもんだ。しかし、どうやって水を運ぶかだが」

 早く母にも飲ませてやりたい。しかし水筒なども持ち合わせていなかったのだ。

 李逵は目を凝らし、きょろきょろとあたりを見回した。向こうに見える山の頂に寺の庵のようなものが見えた。何かあるかもしれない。

 李逵は崖のような斜面を、藤蔓などを頼りに何とかよじ登ると庵の扉を押し開けた。

 正面に神の塑像が据えられ、その前に石の香炉があった。

「丁度良い物があったわい」

 その香炉は台座と一体になっていたのだが、李逵は台座ごと引っ張り出すと石段にぶつけて香炉を無理やりに剥ぎ取ったのだ。まさに神をも恐れぬ力技だ。

 満足そうな顔で李逵は丁寧に香炉を洗うと水を汲み、母の元へと急いだ。

 母の喜ぶ顔が見たい、そう思うと足も軽くなった。

 しかしそこに母の姿はなかった。

 松の木のそばには、突き立てられた朴刀があるだけで、母はいなかった。

「おっ母、どこだ。おっ母」

 李逵の声が山中にこだました。

 どこだ。待ちきれなくて、自分で水を探しに行ったのだろうか。

 いや、母は目が見えないのだ、それは難しいだろう。

 どこへ行ったのだ。

 おっ母、おっ母と何度も呼ぶが、返ってくるのは山彦のみだ。

 おっ母、と肩を落とした李逵が草むらを見た。その草むらは何か濡れたようになっていた。

 顔を近づける李逵。

 それは血のようだった。

 李逵はさらに気づいた。地面に人間以外の足跡があったのだ。

 李逵は朱貴の言葉を思い出した。

 裏道は危険だと言っていた。

 追い剝ぎがいた。黒旋風を騙(かた)った、李鬼だ。

 そして、この足跡は、虎のものだ。

 まさか。

 李逵は朴刀を引き抜き、血の跡をたどった。

 おっ母。

 少し行くと、洞窟が現れた。

 何かいる。木の陰からそっと覗いて見る。

 虎だった。二匹の子虎がいた。

 二匹が何かを争うようにして喰らっていた。

 それは人の腿(もも)だった。

 李逵が何かを叫んだ。

 黒いつむじ風が、吹き荒れた。

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