108 outlaws
血族
二
牢番頭(がしら)の包吉(ほうきつ)が部下たちに話していた。
「今度入った囚人は危険な奴らだ。なにせ毛太公が仕留めた虎を、自分たちの手柄にしようと屋敷に押し入り、そいつを奪おうとしたばかりか、太公やご子息の毛仲義どの、さらに屋敷の調度まで破壊し尽くしたのだ。お前たちのためだ、むやみに近づいたり声をかけるんじゃないぞ、奴らの面倒は俺が見てやる」
それを聞いた牢番の楽和(がくわ)は、かえって興味を持った。仲間からは、やめておけ、と言われたが、楽和はその囚人が投獄された牢へと向かった。
見た事のある顔だったのだ。牢城に連れられてきたその二人を見て、楽和はそう思ったのだ。
楽和が牢に近づく。覗くと薄暗いが、屈強な体つきと顔をしている事が分かった。
やはりあの二人だ、と楽和は思い当たり、声をひそめた。
「あんた達、もしかして孫堤轄のご親戚じゃありませんか」
呼ばれた解兄弟は目だけを動かし、楽和を見た。少しの沈黙の後、低く解珍(かいちん)が答えた。
「孫堤轄なら俺たちの母方のいとこだが、そういうあんたは」
「これは失礼、私は楽和と言います。姉が孫堤轄の元に嫁いでいて、義理の弟になります」
「おお、あんたが楽和か。こんな所で会うとはな」
解宝(かいほう)が皮肉っぽい笑みを浮かべた。
楽和は解兄弟から入牢までの経緯を聞いた。やはりというか、牢番頭の包吉から聞いていたものとは、大分異なるようだ。
だが解珍が、心配ないさ、と笑った。
「王正(おうせい)って孔目が言ってくれたんだ。とりあえずあの場で認めておけば、後で助ける算段をつけてくれるってな」
知府の前に引き出され、棒打ちを受ける解珍と解宝の耳元で、王正がそう囁いたというのだ。今は罪を認めて棒をやり過ごし、後で私が助けます、と。
楽和は険しい顔になった。
「お二人、そいつはまずい事をしましたね。王正は、実は毛太公の女婿なのです」
解珍と解宝は笑みを消し、言葉を失った。
「牢番頭の包吉も毛太公の息がかかっているでしょう。恐らく奴らはつるんでいて、お二人を牢内で亡き者にしてしまおうという算段でしょう」
くそ、と解宝が地面を殴りつけた。拳の形にそこが抉(えぐ)れた。
「こんな事が許されてよいはずがありません。どうにかしてお二人の命を救いたいのですが、味方をしてくれる者もいないだろうし、一体どうしたら」
楽和が悲痛な面持ちで歯嚙みした。そこへ、少しためらうように解珍が言った。
「もし、あんたが助けてくれるというなら、ひとつ頼まれてくれないか。無理にとは言わない。俺たちに手を貸した事がばれれば、あんたもただじゃ済まなくなるんだ」
楽和は無言で首肯し、先を促す。その目はしっかりと解珍を見据えていた。
「あんたが孫堤轄の義弟(おとうと)と聞いて思い出したんだ。俺たちの父の方の親戚が、孫堤轄の弟に嫁いでるんだ。あの顧大嫂(こだいそう)姉さんなら、なんとかしてくれるはずだ」
解宝が驚いた顔をする。
「姉さんに頼るってのか、母大虫(ぼたいちゅう)の」
「ああ、その母大虫さ」
顧大嫂は、母大虫(ぼたいちゅう)と渾名されていた。
母大虫という渾名のその意味は、雌の虎であった。
楽和は歌が好きだった。
幼い頃から好きで、一度聞いた歌は諳(そら)んじられるほどだった。また楽和は歌う事も好きだった。そして、さらに歌が上手かった。楽和はいつからか、鉄叫子(てっきょうし)と呼ばれた。
そんな楽和だったが、歌の道へは進まず牢役人となった。
「上手いと言ってくれるのは、本当に嬉しいですよ。でも私は好き勝手に歌っているだけですから。私の歌で金を取ろうだなんてとても」
一度、人に聞かれた時に楽和はそう答えたという。
才能を鼻にかけない、その対応がまた鉄叫子の名に箔をつけたというのは皮肉なものだった。
楽和は音楽を聞いた。
その店は賑わっており、十ほどある卓は全て埋まっていた。それらの卓では徳利と杯とが、茶碗や皿と箸とが、かちゃかちゃと音をたて、客の話し声や笑い声とが相まってひとつの曲を奏でているようであった。
解珍と解宝を救うため、この十里牌(じゅうりはい)にやってきた。そしてここに居酒屋を構える顧大嫂に会いに来たのだ。
楽和は思わず微笑んでいた。
こんな素敵な音楽を感じられる店の主とは、どんな人なのだろうか。楽和は微笑みを浮かべたまま、店の奥へと向かった。
そこに、顧大嫂がいた。
いや、楽和は初めて会うのだが、それが顧大嫂であると、ひと目で分かった。
陽気な酔客を相手に、どの客よりも大きな声で話し、笑っていた。肉付きの良い体つきで、盆を持つ腕も太かった。腕に覚えのある男たちが十人束になっても敵わない、と解兄弟は言っていたが、当人を前にするとそれを嘘だと一笑に付す事ができなくなった。
顧大嫂は笑いながら客の背中を思い切り掌で張った。ひいっ、という声を上げ、その客が跳び上がった。それを見て顧大嫂が笑い、また店は笑いに包まれた。
「ああ、すまないねぇ。見ての通り、どこも席は埋まっちまってるんだ。また今度来とくれないかい」
楽和を見とめた顧大嫂がすまなそうな顔で近付いてきた。
楽和が丁寧にお辞儀をした。それを見た顧大嫂は、珍しい宝石でも見たような顔をした。
「私は孫堤轄の妻の弟で、楽和と申します。お初にお目にかかりますよね、ご挨拶が遅くなり申し訳ございません」
目を見開いたままだった顧大嫂は、思い出したように言った。
「あんたが楽和かい。なんだお義姉(ねえ)さんそっくりじゃないのさ」
そして顧大嫂は大きな口をにっこりとさせると、何かを得心したように頷いた。さらに顧大嫂は楽和に背を向けると、これもまた大きな掌をぱんぱんと叩いた。
「あんた達、ちょっとすまないねぇ。飲んでもらってるとこ悪いんだけど、今日はこれで店じまいだよ。さあさ、立った、立った」
そう言って卓を回りながら、客を帰らせ始めた。出直しますから、とそれを止めようとした楽和だったが、顧大嫂の勢いにその言葉が出てこなかった。
ぶつくさと文句を言いながらも客たちは、また来るよ、と笑って店を出ていった。
先ほどまでの喧噪が嘘のように消えた。卓の上に残された飲みかけの杯や食べかけの皿が、片付けられるのを待っているだけだった。
楽和が立ち尽くしていると、客と入れ替えに一人の男が入ってきた。
「おいおい、一体何があったんだ。まだこんな時間なのに、みんな帰っていきやがって」
「あたしが帰らせたんだよ。何たって特別なお客さまが来たんだからね」
それを聞いた男は、側にいた楽和を見た。
「む、こいつは誰だ。こいつが特別な客なのかい」
「こいつ、はないでしょう、あんた。この人はお義姉さんの弟さんの、楽和さんですよ」
すかさず楽和が頭を下げた。顧大嫂が、あんた、と言っていた相手、この男が義兄(あに)の弟である孫新(そんしん)なのだろう。
「申し訳ありません。私のせいでお客さまを帰させてしまいました」
孫新は、少しだけ顧大嫂の顔を見た。微笑む顧大嫂を見て、ふむ、と言った孫新は楽和を椅子に座らせ、改めて挨拶をかわした。
「別に気にしないでくだせぇ、楽和さん。俺たちも気にしちゃいないんで。それに、はじめましてじゃないですか。水臭い事は言いっこ無しですよ」
「そうですか、すみません。水臭いとおっしゃるならば、その、楽和さんと言うのをやめてもらっても良いですか。何だかくすぐったくて」
爽やかな笑みを浮かべ、頬をほんのり赤らめた楽和が、首の辺りを掻(か)いていた。
静かになっていた店に、再び笑い声が響いた。
孫新はまばらに生えている不精髯(ぶしょうひげ)を擦(さす)りながら唸っていた。
楽和から解珍と解宝の一件を聞いたからである。楽和には二人への差し入れを渡し、安心しろと言ってもらうように言伝(ことづて)て、牢城へと戻ってもらった。
いま店には孫新と、妻の顧大嫂の二人だけである。
「早く助けに行かなくちゃ。のんびりしてる暇はないんだよ、あんた」
「待て待て。お前はいつも体が先に動くから、何かと厄介に巻き込まれるんじゃないか」
「何言ってんのさ。あんただって、あの時は考えなしに飛び込んで来てくれたじゃないか」
「まあまあ、あの時はあの時さ」
孫新は笑って顧大嫂を見た。気が強く、腕っ節も強く、男勝りの彼女も、孫新が時折見せる優しげな眼の前には借りてきた猫になってしまうようであった。
顧大嫂はもう少し若かった頃、別の場所で居酒屋を開いていた。正しく言えば、顧大嫂の親が開いていた店を継いだのだ。
顧大嫂の客扱いは今と少しも変わらないものだった。どんな客にも気さくに話しかけ、時にはきつい冗談を言って怒らせる寸前に笑いに変えてしまう。いつも楽しげな笑いに包まれている店には、この十里牌の店でもそうだが、常連たちが長居する事が多くなった。
のちに夫となる孫新も、その一人だった。
この頃、孫新は特に定職には就いておらず、時おり博打か何かで儲けては、友人たちと飲み歩いていた。この顧大嫂の店にもたまたま立ち寄ったのだが、何度か来るうちに居心地が良くなったのだ。
卓には孫新ともう二人がいた。孫新の斜め向かいに座る男が言った。
「へへ、さすが孫新どのと叔父さんは強いなぁ。いつもご馳走になって悪いね」
「ふふ、今日はついてたのさ。あまり当てにされても困るってもんだ」
そう言いながらも満更ではない様子の孫新。口元を緩め、杯を口に運んでいた。
「そうだぞ、潤。いつもわしらに頼りおって。悪いとは言わんが、お前も少しは勝つ努力をしなければ。なあ孫新」
「はは、まあ良いじゃないか、鄒淵(すうえん)の旦那。こいつも充分わかってるさ、なあ鄒潤(すうじゅん)」
へへ、と愛想笑いを浮かべながら鄒潤は頭を撫でた。その頭には、角のような瘤が盛り上がっていた。鄒潤はぐいっと一気に酒を呷った。
「悪いと思ってるさ。だから俺は山賊家業の方を頑張って」
「潤」
「あ。す、すまねぇ」
声を小さくした鄒潤はおずおずと叔父、鄒淵に酌をした。そんな二人を見て、孫新はただ笑みを浮かべていた。
鄒淵とその甥にあたる鄒潤は山賊であった。鄒淵が役人といざこざを起こし、その役人に大けがを負わせてしまった。その仕返しに来た役人たちを鄒潤と共に蹴散らすと、そのまま登雲山(とうんざん)に上り、山賊となったのだ。
気が荒く冷酷な鄒淵は出林竜(しゅつりんりゅう)と称された。そして鄒潤は、その頭の瘤から独角竜(どっかくりゅう)と呼ばれた。鄒潤の瘤は時には武器ともなり、その頭突きは大木をもへし折ってしまうほどなのだという。鄒淵も、山賊となってからも時折こうして下山しては大衆の前で、堂々と飲んでいるのだから、その豪胆さがうかがえるというものだ。
もともと鄒淵の友人だった孫新も登雲山に誘われたが、断った。定職についてないとはいえ、孫新の兄は登州の堤轄なのである。
兄は真面目な男で、先ごろ妻を迎えたばかりだった。祝いの席に呼ばれはしたが、孫新は遠慮する事にした。兄はともかく、妻の家族からは良い顔をされないだろうからだ。
何より堅苦しい場が苦手なのだ。こうして鄒淵たち、気の置けない連中と飲んでいる方が孫新にとっては居心地が良かったのだ。
突然、皿の割れる音が店に響いた。一枚ではない。二枚、三枚、卓に乗っている食器がすべて落ちたような激しい音だった。
「さっきから何だお前(めえ)は、馬鹿にしてるのか」
十人ほどが立ち上がり、その中の一人が大声でがなっていた。その前には腰に手を当て、うんざりした表情の顧大嫂が立っていた。
「まったく、なに本気にしてんだい。冗談も分からない石頭なのかい、あんたらは」
「なんだと」
とさらに男が凄んだ。それでも顧大嫂はどこか余裕すら感じさせた。
吼える男を制するように、後ろにいた男が言った。どうやら親分格の男のようだ。
「まあ、そう吼えるな。こんな田舎の店だ、店の者もがさつな奴ばかりで当り前だろうて」
「ふん、言うねぇ。じゃあ、その田舎者の店に来るあんた達もやっぱり田舎者って事になるねぇ。まあ、あたしも口が悪い事は認めるよ。すまなかったね。ただし壊した皿は弁償してもらうからね」
顧大嫂は腰に当てていた手を、胸の前で組んだ。腕がさらに太く見えた。
「そいつは筋が通らねぇな、女将(おかみ)。俺たちは侮辱されたって感じたんだ。皿は壊したが、それでお互いさまってことじゃねぇかい」
「筋が通らないのは、あんた達じゃないか。この店が気に入らないなら、出ていけば良いだけの話さ。何も因縁つける事はないだろう」
顧大嫂はそのまま親分格に一歩近づいた。心なしか、親分格が半歩だけ下がった気がした。
顧大嫂が鼻で笑った。それに親分格が豹変した。
「なに笑ってやがる。お前ら、店ごと叩き壊しちまえ」
おう、と手下たちが応じ、朴刀を閃かせ、手近な椅子を蹴倒しだした。
周りの客たちが逃げ出し始める。
「ふん、後悔するんじゃないよ」
顧大嫂は腕をまくり、拳を握った。
思わず親分格は後ずさってしまった。母大虫と呼ばれる顧大嫂の本気を垣間見たからだ。しかしすぐに口元を歪めると、腰にあった朴刀を顧大嫂に突きつけた。朴刀の切っ先が顧大嫂の鼻先に、触れるか触れないかの所にあった。
「動くんじゃねぇ。動くと終わりだぞ」
だがそれでも顧大嫂は動じることなく、刀越しに親分格を見据えていた。
さらに、顧大嫂はそこから前に出ようとした。
「ば、馬鹿な」
親分格が見たのは、やはり怒れる雌の虎だった。
きぃん、という音を顧大嫂は聞いた。
目の前にあったはずの刃(やいば)が無くなっていた。親分格は刃の無くなった刀の柄を握り、何が起きたのか見当もつかない顔をしていた。
そして顧大嫂とその親分格の間に、孫新がいた。孫新はその手に、やや長い棒のようなものを持っていた。
竹節虎眼の鉄鞭。孫新は刃をその節くれだった鉄鞭で叩き折ったのだ。
「危ねぇもん振り回すんじゃねぇよ」
す、と孫新が鉄鞭を親分格に向けた。
ここでやっと何が起きたのかを理解したようで、しどろもどろになりながらも孫新に襲いかかろうとした。
「どっちの方が危ないんだか」
顧大嫂が踏み出していた。
放(はな)った拳が唸りを上げ、正確に親分格の顔面にめり込んだ。
すでに意識を飛ばしている親分格が、卓や椅子などを巻き込んでふっ飛んで行った。
激しい音が店内に響き渡った。
「さあ、次はどいつだい」
顧大嫂がさらに一歩踏み出し、袖をまくりあげた。
悲鳴を上げ、手下たちが逃げて行った。親分格の男は鼻と口から夥(おびただ)しい量の血を流していた。
「ああ、こりゃ、顔の形変わっちまうんじゃねぇのかい」
それを覗き込んだ鄒潤が言い、鄒淵も、そうかもなと苦笑いしていた。
「おい、忘れもんだぜ。あんたらの親分」
「あんたら、忘れ物だよ。こいつは持ってっておくれ」
孫新と顧大嫂が同時に言って、二人は顔を見合わせた。
少しの沈黙があって、二人は同時に笑った。