108 outlaws
血族
三
つっ、と孫立(そんりつ)が顔をしかめた。
顎を上げ鏡を覗き込むと、血が垂れていた。孫立は右手に持っている剃刀(かみそり)を不吉な物でも見るように睨むと、妻から手拭いをもらった。
「すみません、よく研がれてなかったのですね」
「いや、お前のせいではないさ」
そう言って妻を安心させると、孫立は冷たい水で顔を洗い、肌を引き締めた。
どうも朝から胸騒ぎがしてならなかった。
天気も良く、すがすがしい朝だというのに、何故か胸が高鳴った。手拭いに滲んだ血の跡をじっと見る。
考え過ぎか。こういう日もあるか。
「行って来る」
孫立は整ったあご髯を擦り、仕事へと向かった。
「おはようございます、病尉遅(びょううつち)さま」
「やめてくれ、その渾名は」
「また、ご謙遜なさって。ではごゆっくり、孫堤轄さま」
「うむ」
午前の職務の後、茶屋で一休みしている時だ。亭主がそう言って笑った。
病尉遅か。孫立は湯呑みを持ったまま、溜息をついた。
唐の武将で鉄鞭の使い手である尉遅恭(うつちきょう)になぞらえて、兄弟揃ってつけられた渾名だった。弟の名は孫新で小尉遅(しょううつち)、そして兄の自分が病尉遅である。
孫立はその渾名の通り鉄鞭を得意とした。無論、希代の将軍に例えられて嬉しくないはずがない。
しかしである。余人には知る由(よし)もなかったが、孫立には素直に喜べない理由があった。孫立は眉に皺を寄せ、じっと湯呑の中を見た。自分の目が映っていた。
「あなた、ここにいたのですか。大変です」
妻だった。侍女も使わずに自分を探していたらしい。一体何が起きたというのか。
急いで勘定を卓に放り、妻と共に家に戻る。役所へは、店の者に伝言してもらうよう頼む事にした。
「何事だ、そんなに急いで」
「弟さんの、弟さんの奥さまが重体だと。急いであなたに来て欲しいと、連絡があって」
「新の、妻が、だと」
朝からの胸騒ぎはこれだったのか。
家に着くと車を手配し、そちらに妻を乗せた。孫立は馬に乗り、それを駆る。
十里牌には程なく着くだろう。
しかし孫立には、何か別な胸騒ぎがしてならなかった。
馬に揺られながら、その脳裏には弟の、孫新の不敵な笑みが浮かんで仕方がなかった。
孫新と顧大嫂の居酒屋が見えてきた。
入口に孫新の姿があった。顔をややうつむけて、表情は良く見えない。
「聞いたぞ、新。義妹(いもうと)が重体だと、何があったのだ」
孫立は飛ぶように馬を下り、早足で孫新の元へと向かった。
「わざわざすまんね、兄貴」
「何を言う。家族ではないか」
「あいつは寝室にいる。会ってやってくれないか。俺は義姉(ねえ)さんの車を」
ああ、と孫立は奥へと向かった。ふと振り向くと、もう孫新がいなかった。
夕どき前だというのに、店の中は薄暗かった。明かりが一つも灯されていないようだ。
孫立は思わず腰の鉄鞭に手を添えていた。それに気付いた孫立は苦笑いをした。ここは戦場などではないというのに。
寝室の入り口で軽く咳をすると、顧大嫂に声をかけた。
「どうぞ」
それは、聞きなれたあの大きな声とは違う、弱々しいものだった。
よっぽど重病なのかもしれない。険しい顔をした孫立が、失礼、と部屋へと入った。
寝室には蝋燭の灯が揺らめいており、そこに顧大嫂がいた。
いや、いると言われていたから、それは当たり前なのだ。そうなのだが、孫立は驚いた。顧大嫂は寝台に伏せているでもなく、部屋の真ん中に平服で立っていたのだ。
「お忙しいところ、申し訳ございません、義兄(にい)さん」
まるで、顧大嫂は孫立を待っていたかのように、立っていたのだ。
孫立は目を見開いた。
そう言えば孫新もまた、居酒屋の入り口で立っていたではないか。
妻からは、顧大嫂が重体だ、としか聞いてはいない。孫新が来てくれと言っていた、とは聞いていなかった。
蝋燭の芯が、じりりと音を立てた。
「重体だと聞いて飛んできたのだが、一体何の病気かね。見た所、変わりないように見えるのだが」
「わたくし、弟たちを助けたい病気に罹(かか)ったのです」
顧大嫂の声は、か細いままだった。
え、と孫立の背後で声がした。妻が驚いた顔をしていた。
孫立の横を孫新が通り、顧大嫂の横に並んだ。
そして寝室の外に目つきの悪い二人の大男が、腕を組んで立った。まるで孫立と妻を部屋から出さないようにするかのように。
「すまんね、兄貴。こいつは病気なんだ。兄貴なら来てくれると思っていたよ。助けてやってくれないか」
やはり孫新と顧大嫂は、孫立を待っていたのだ。
孫新がにやりと不敵な笑みを浮かべていた。その顔は、孫立が出立の前に思い浮かべたのと全く同じものであった。
いやな予感は、やはり当たるものだ。
顧大嫂の言う弟とは、解珍と解宝という猟師の兄弟だった。
顧大嫂の親戚筋にあたり、幼い頃から弟扱いをして可愛がっていたというのだ。その解兄弟が、地元の有力者である毛太公にはめられて牢に入れられているという。
孫立は卓に肘をついたまま両手を顎の下で組み、眉間に皺を寄せていた。
確かに、先ごろ毛太公の屋敷で暴れた者が入牢したと聞いていた。それが解兄弟だったとは。
助けだしたい気持ちは分かる。しかし、だ。堤轄である自分だから言えるが、無理だ。警備が厳重な牢内から城外まで、どうやって抜け出そうというのか。だが孫立はさらに驚く事になる。
この情報を顧大嫂に伝えてくれと頼まれた男がいた。それは妻の弟である楽和(がくわ)だったのだ。
「まさか」
楽大娘子(がくだいじょうし)と呼ばれる孫立の妻は顔色を変えた。
「すまんが本当のことなんだ、義姉(ねえ)さん」
二の句が告げず、楽大娘子が額を袖でおさえた。顔が真っ白になっていた。
「すまない、寝台を貸してくれ、新」
妻を横にさせ、孫立が再び卓についた。
「お義兄(にい)さんの力がどうしても必要なんです。どうか、お願いします」
顧大嫂が頭を下げた。横で孫新が、孫立を覗き込むようにしている。その目をにらみ返して孫立が言う。
「なぜ巻き込むのだ」
「家族だからさ。兄貴だから、こうして計画を打ち明けているのさ。力を貸す、貸さないは兄貴の自由だ。どちらにせよ、俺たちは決行する。それだけの事さ」
孫立は何か言い返そうとして、できなかった。
寝台で横になっている楽大娘子を見た。顧大嫂、鄒淵、鄒潤をゆっくりと見やる。最後に孫新と目が合った。
「もし義弟(おとうと)の楽和が同じ目にあっていたら、兄貴だってそうするだろ」
それは、と孫立が言い、すぐに口をつぐんだ。
家族、か。どうせ断る事はできないと分かっていて言っているのだろう。孫新が牢破りなどしてしまえば、兄である己など登州にいられる訳もないのだ。そう考えると、先に明かしてくれたというのは、孫新なりの優しさなのか。
孫立は背筋を伸ばし、深呼吸をした。薄目を開け、また妻を見た。
妻の弟の楽和も一枚噛んでいるという。確かに正義感の強い若者だ。もし解珍と解宝の冤罪を知ったならば、必ずや行動を起こすだろう。そして実際にそうしたのだ。
そしてもう一つ。この件に王正という孔目が関わっているという。この事が孫立の心を揺り動かしていた。
孫新たちは黙って孫立の答えを待っている。
目を閉じた孫立の耳には己の鼓動だけが聞こえていた。脳裏に様々な思いが目まぐるしく浮かんでは消えてゆく。
やがてゆっくりと、孫立が目を開けた。
「一つだけ、守ってもらいたい」
「一つと言わず、いくつだって聞くぜ。協力してくれるならね」
鄒淵と鄒潤も、それを聞こうと身を乗り出してきた。
「解珍と解宝を牢から救い出すのに手を貸す。その代わり、誰も傷つけないで欲しい。二人のいる牢城そして街には、俺が親しい者が少なからずいる。そいつらに罪はない。そいつらにも家族がいるのだ」
もう一度、孫立が一同を見まわす。
「約束できるか。特に鄒淵、鄒潤お前らだ」
「馬鹿にするんじゃねえぞ。誰も殺さずに、そのくらいできるさ。人を何だと思ってるんだ。まあ、山賊だけどよ」
と鄒潤が消え入りそうに言い、鄒淵も真顔でそれに続いた。
「ああ、約束しよう。わしと鄒潤は牢城と街の誰にも手をかけないと。お主も知っておるだろう、わしらの世界も約束は絶対だと」
孫立は孫新と顧大嫂を見た。
「ありがとうございます、お義兄さん。わたしも約束しますよ」
「やっぱり兄貴だな、礼を言うよ。よし、成功を祈って乾杯といこうじゃねぇか」
そうこなくっちゃ、と鄒潤が勝手知ったる他人の家とばかりに、酒と杯を取りに出て行った。
「約束だぞ、新」
孫新は微笑んで、分かってる、と言い、孫立の杯に酒を満たした。
孫新、顧大嫂、鄒淵、鄒潤そして孫立が同時に杯を空けた。
妻には帰ってからゆっくりと説明するしかあるまい。今から気が重いが。
先ほどまでの神妙な雰囲気はすでに無くなっていた。明日、牢破りをする連中とは思えない明るさだった。
家族、か。孫立は孫新の言葉をもう一度考えた。
楽和が同じ目にあっていたら、兄貴だってそうするだろ。
孫立は思う。
自分にはできない、だろう。
何だかんだと理由を考えては、無理だと言うのだろう。もし何か行動を起こすにしても、牢破りなどは絶対に思いつくまい。
それができるのだ。何の躊躇(ためら)いもなしに、孫新にはそれができるのだ。
尉遅敬徳に準(なぞら)えられ小尉遅と、孫立よりも以前から呼ばれていた孫新にはできるのだ。
孫立は酒を飲む孫新を眩しそうに見ていた。