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血族

 この声は顧大嫂のものだ、間違いない。

 一人の女が牢を訪れて来た。その女が扉の前で牢城の向こうへ声をかけた。

「ご苦労様です。差し入れに参ったものです」

 それで、内側にいた楽和は瞬時に悟った。 

 おととい十里牌の店へ行き、顧大嫂と孫新に会い、解珍と解宝の危機を伝えた。楽和は彼らに礼を言われ、そのまま帰された。

 あの後、一体どのような事が話し合われたのだろう。解兄弟を救い出す良い方策が見つかったのだろうか。その事を楽和は一切知らされていなかった。

 だが今、顧大嫂の声がした。解珍と解宝を救い出しに来たのだ、と楽和は確信に近いものを感じた。。

 楽和は微笑みを隠すようにすると、静かに門を開け、女を招き入れた。

 やはり顧大嫂だった。

「こんな遅くに申し訳ございません。私の弟たちにひと目会いたくて、無理を承知で参りました」

「うむ、少し待っていなさい」

 声は確かに顧大嫂だった。しかしあの時、居酒屋で見た顧大嫂とはすっかり違っていた。つぎはぎだらけの服を着て、背を丸めている。顔も煤(すす)けたようで、あの快活さは微塵も無かった。

 役者だ、と楽和は思った。

 しかし、それを面(おもて)に出すことなく上役に取り次ぐ楽和も充分に役者だった。

「待て、その女は何者だ。お前が入れたのか」

 牢番頭の包吉が叫んだ。

 楽和は謝ると、女がどうしても弟に会いたというからと言い訳めいたことを言った。そしてさりげなく、包吉に袖の下を渡した。

「ふむ。まあ、そういうことならば仕方あるまい」

 包吉は周りを見ながら咳ばらいをした。

「だが、差し入れならばお前が取り次ぐのだ、楽和。その女はここで待たせておくように」

「さすがは包節級さま、お心が広い。あなたも、良かったですね」

「本当に、ありがたやありがたや」

 そう言って拝む顧大嫂の目が包吉を睨みつけていたのを、当人は知る由もなかった。

 

 解珍と解宝は、同時に目を開けた。

 ぎい、と牢が開けられる音が聞こえ、誰かが入って来た。牢の中に灯りはなかった。

「久しぶりだな、楽和」

「さすがですね、お二人とも」

 解珍の言葉に、楽和は笑って答えた。そして顧大嫂からの差し入れの弁当を脇に置いた。

「姉さんだな。懐かしい匂いだ」

 解宝が訊ねた。楽和は軽く頷くと、二人に近づいた。

 解珍と解宝は木の寝台のような刑具に寝かされ、手足と首を鉄の枷で縛り付けられていた。二人の凶暴さを毛太公から聞かされた包吉がそうさせたのだ。

 かちり、と錠(じょう)の外れる音がした。

「お二人とも、お待たせしました。さあ、とり急ぎ腹ごしらえを」

 ありがたい、と二人が同時に答えた。

 にやり、と凶暴そうな笑みを浮かべた虎が、いま檻から解き放たれた。

 

 番小屋では、包吉がいぶかしんでいた。

 門の外に堤轄の孫立が来ていて、中に入れろと叫んでいると部下から報告があったのだ。

 孫堤轄だと。あの男が一体、この牢に何の用だというのだ。

 なにか釈然としないものを感じた包吉は、堤轄であろうと決して入れるな、と部下に命じた。ふと見ると先ほどの女がきょろきょろとしていた。

「なんだ女、まだいたのか。用は済んだだろう、とっとと帰るのだ」

「いいえ、まだです節級さま。私の用はまだ済んでおりません」

 その女、顧大嫂は両手を懐(ふところ)に刺し込むと、中から二本の匕首(あいくち)を取り出した。そして鞘から抜き、ぎらぎらする刃を包吉に突きつけた。

「私はあんたに用があるんだよ」

 ひい、と思わず悲鳴を上げた包吉。楯にしようとした部下の方が先に逃げてしまい、顧大嫂は近づいてくる。

 勝てない。そう感じた包吉は、なりふり構わず逃げ出した。

 しかし包吉は、ひいっとさらに大きな悲鳴を上げた。

 目の前に解珍と解宝の姿があったのだ。

「包吉」

 解宝が怒りの叫びと共に振り下された腕が、包吉の頭を砕いた。その腕には包吉自身が嵌(は)めた、鉄の枷があった。

「無事だったかい、あんた達」

 顧大嫂が駆け寄って来て二人を抱きしめた。大きくなったね、と顧大嫂が涙ぐんでいるようだった。

「く、苦しいってば、姉さん」

「ああ、ごめんごめん。さ、行くよ」

「行くよ、ってどこへだい」

「決まってるじゃないか。事の元凶、毛太公の所さ」

 おお、と解兄弟が吼え、牢番相手に暴れ出した。

 そこへ楽和が追いついた。二人の武器を取りに行っていたのだ。

 解珍、解宝を先導し匕首を閃かせる顧大嫂は、まさに母大虫と呼ぶにふさわしい姿だった。

 

 本当にこれで良かったのか。他に手はあったのではないか。

 弟を、孫新を説得して思いとどまらせ、もっと上手い作戦を考えだす事も出来たのではないか。

 しかし、もう遅かった。牢破りは始まってしまったのだ。

 孫立は思う。いつも事が始まってから後悔するような所が、自分にはあると。そして今回も、やはりそのようだ。孫立は目を閉じ、大きく息を吸った。そして決意したように目を開け、力強い一歩を踏み出した。

 孫立を見て、二人の男が役所の脇から出てきた。孫立と目で合図を交わし、少し後ろを歩く。鄒淵と鄒潤だった。

 威圧感に何も言えない門番を尻目に、三人は役所内へ消えた。

「何事だ、騒がしい。裁きの最中(さなか)なのだぞ」

 注進に来た部下に、王正は露骨に嫌そうな顔をしていた。

「ですが孫堤轄どのが、火急の用があるのだと」

「一体なんだというのだ。知府さまもおられるのだぞ」

 そう言って登州知府の顔色をうかがう王正だったが、ぴたりと動きを止めた。知府も同じく、座ったまま身を乗り出し、目を見張った。

 そこに孫立が入ってきたのだ。

 手には節くれ立った鞭(べん)を握っていた。孫立が得意とする、竹節虎眼鞭だ。さらに孫立の後ろには見慣れぬ二人がいた。二人の手にも得物が握られ、不穏な空気をこれでもかと漂わせていた。

「孫堤轄、知府さまの御前であるぞ」

「わかっている、王正」

 孫立は恭しく拱手する。

「知府さま、お騒がせして誠に申し訳ございません。これより、とある者たちの濡れ衣を晴らしてごらんにいれます」

「とある者とは、一体誰だ」

「この王正に陥れられた、兄弟にございます」

「王孔目に、だと」

 王正の顔色が変わった。咄嗟に悟ったのだろう。孫立は解珍と解宝の兄弟の事を言っているのだ。しかし何故あの二人の事を、と王正は思ったがそんな場合ではなかった。

「知府さま、戯言(ざれごと)です。私が誰かを陥れようなどとお思いですか。お前ら、こいつらを追い出すのだ。ここは神聖な裁きの場ぞ」

 王正は唾を飛ばし、兵たちに命じた。

 広間に居並ぶ兵たちが水火根を構えた。しかし、その誰もが孫立の実力のほどは知っている。さらに後に控える二人の眼つきも、何やら尋常ではない様子だった。まるで山賊のような。

「やめておけ」

 小さく、しかし鋭く、鄒淵が言った。

 うわあ、と焦った兵が飛び出した。水火根を、鄒潤めがけて力いっぱい振りおろした。

 ばぎっ、と嫌な音がした。水火根が中ほどから折れた。兵は目を白黒させていたが、鄒潤の方は涼しい顔をしていた。

「痒いなぁ」

 太い指で、頭の瘤の辺りをぽりぽりと掻いていた。武器にもなる自慢の瘤が、水火根を破壊したのだ。頑丈な水火根を頭に受けて、鄒潤はまるで蚊に刺されたかのようだった。

「化け物め」

 王正はそう叫ぶと背を見せ、逃げ出した。

 しかし、ばん、という破裂音が響き、王正は思わず足を竦ませた。おそるおそる振り向く王正。くっきりと深々と、裁きの間に細長い跡が残されていた。石でできたこの床に、孫立が鞭を打ち込んだのだ。

 王正も、そして知府も息を飲んだ。床にははっきりと鞭の形が残されていたが、周りは破壊されていなかった。いったいどれほどの速度で打ち込んだというのか。

 これが人の体だったらと思うとぞっとした。

 孫立が王正を見ていた。怒っている風ではなかった。しかし王正は悟った。この場から、孫立たちから逃げだす事はできないのだと。

 朴刀を突きつけながら、鄒淵が近づいてきた。

「さて、孔目でありながら無実の者に罪を着せるとはいかなる料簡(りょうけん)か、王正」

 王正は歯噛みをするだけで何も言えない。

「王正、一体どういう事なのだ。詳しく申してみよ」

「へへ、さすがは知府どのだぜ。ほら、言ってみなよ」

 鄒潤が知府の言葉を引き合いに、脅すように言った。しかし王正は、普段の弁舌さなどどこへ行ったのか、もごもごと唸るばかりで何も言えなかった。

「おい、舌を失くしちまったのか」

 ひたり、と鄒淵の刀が王正の首に触れた。

 ひい、と叫び、跳び上がらんばかりの王正。

「なんだ、しっかりとあるじゃねぇか」

 鄒淵が邪悪な笑みを浮かべた。

「知府さま、王正はあくまでも白(しら)を切るようです。ところで、近ごろ登州界隈を騒がしていた虎の件を覚えておいでですか」

 うむ、と知府が椅子に深く座りなおした。

 孫立は語った。件の虎は毛太公親子ではなく、解珍と解宝という兄弟が捕らえた事。毛太公は自分の庭に虎が落ちたのを良い事に、自分の手柄にしようとしたこと。そして屋敷に侵入したとして、解兄弟を捕らえさせたこと。

「本当なのか、王正よ。そう言えばお主は毛太公の縁戚であったか」

「も、申し訳ありません、知府さま。私ごときがあの毛太公に逆らえるはずもなく、仕方なしにやった事なのでございます。どうか、どうかお許しを」

 ふいに王正の顎が掴まれ、口が閉じられた。鄒淵である。王正は舌を出したまま、なにやら唸るばかりであった。

「お聞きですか、知府さま。解兄弟は無実、どうか二人の罪を取り消していただきたい」

「うむ、ううむ。わかった、考えてみるから、どうか落ち着くのだ」

 ありがとうございます、と孫立は頭を下げると裁きの間を出て行った。

「公正な知府どのを、お前がたぶらかしやがって。そんな嘘つきの舌はいらねぇよな」

 動けない王正は目をこれ以上ない位に開き、叫ぶように唸った。

 ぎらりと刀が光り、振り下ろされた。

「先に行ってるぜ、叔父さん」

 鄒潤が、ばたばたと出て行ってしまった。

「すまんな、俺は孫堤轄みたいに腕が良くないんだ」

 すまなそうに鄒淵が詫び、床から何かを拾い上げた。

「舌だけ切り取るなんて芸当は、無理なんでな」

 鄒淵が拾ったのは首だった。

 目を見開き、自分の舌を凝視したままの、王正の首だった。

 

 孫新が門を叩いていた。

「開けろ、私だ、堤轄の孫だ。危急の用があるのだ、開けてくれ」

「孫堤轄なのですか。どうして、ここに。ちょっとお待ちを」

 しかししばらく後、戻ってきた牢役人は門を開ける事はなかった。包吉の命令で、開ける訳にはいかないというのだ。

 孫新は舌打ちをした。兄の孫立を騙(かた)り、門を開けさせようとした。すこしくぐもった声で呼びかければ騙されると思ったのだが、さすがにそんなに甘くはないか。

 王正の元へと向かった孫立たちはまだ合流してこない。こうなれば、力づくで破ろうか。

 む、と孫新は耳をすませた。門の向こう、牢内の方で叫び声が聞こえた気がした。

 目を閉じ、耳を門に当てる。すぐに孫新が、にんまりと笑った。

「上手くいったようだな」

 孫新は門から離れ、鉄鞭を構えた。

 そして大きく門が内側から開け放たれた。先頭で跳び出したのは解珍と解宝。そして顧大嫂、楽和が続いて飛び出してきた。

「遅ぇじゃねえか」

「言うねぇ。こっちも苦労したんだよ」

 孫新と顧大嫂が悪態をつきながら、微笑んでいた。

「孫新どの、お力を貸していただき本当にありがとうございます」

「お前らが解珍と解宝だな。なに、あいつがどうしても、って言うもんだからな」

 そう言って親指で顧大嫂を指す。

「それに礼なら、生きて登州を出られたら聞いてやるよ」

 はい、と解兄弟は嬉しそうに笑った。

 そこへ孫立、鄒淵と鄒潤が合流してきた。鄒淵が手に、王正の首をぶら下げていた。

「待たせたな、新」

「ちょうど良いところだったぜ、兄貴」

 登州の街を駆け抜ける一同。しかし一般の人々はもちろん、役人や兵たちさえも彼らを追う事はなかった。

 孫立が鞭を構え、

「命のいらぬ者だけ追ってくるが良い」

 などと啖呵を切ったのだ。

 追う事など、誰もできるはずがなかった。

 

 背の高い竹に囲まれた庭で、笑い声がしていた。

 大きな卓には二人の男。周りには給仕たちが忙しそうにしていた。

「また一つ年を重ねる事ができました、父さん」

「すっかり立派になったな、仲義よ。何度も言うが、この前の虎の件は、お前の手柄だったな。まったくあの解兄弟を出し抜くなど、頼りになる息子を持ってわしも幸せだ」

「やめてくださいよ、父さん」

 と言って酒を飲み、毛太公と毛仲義が高らかに笑った。

「もっと酒を持ってこい、今日は仲義の誕生祝いなのだぞ」

 さっそく給仕がやって来て、酒を注ぐ。その給仕がぼそりと呟いた。

「せっかくの誕生祝いに、俺たちを呼ばないのかい」

 毛仲義がいぶかしそうに、その給仕を見た。しかし毛仲義は何度も目を瞬(しばた)かせ、信じられないという顔をした。そして数瞬遅れて、腰を抜かしたように椅子から転げ落ちた。

「うわあああ、お、お、お前は」

 毛太公も同じだった。毛太公は言葉すら出てこない有様だ。

 そこには酒を持った解珍と解宝がいた。そしてその後ろにも知らない顔があったが、どれも恐ろしい顔つきをしていた。

 解宝が近づいてゆく。

「おっと、俺の酒が飲めないってのかい。お前の誕生祝いなんだろ、俺たちにも祝わせてくれよ」

 だが毛仲義は頬をひくつかせ、尻を地面に付けたまま後ずさりするばかりだ。必死な形相で、辺りを見回し何か探しているようだ。

 気付いた顧大嫂が、忘れ物を思い出したかのような気軽さで言った。

「そうそう、護衛の連中は片付けてきたから、邪魔は入らないよ。楽しもうじゃないのさ」

 笑う顧大嫂の手には、ぎらりと刃が光る匕首が二丁。

 ひい、と毛親子が悲鳴を上げた。

 

 一行は西南に向けて道を選んだ。

 これからどうするのだ、と聞くと鄒潤が自慢げに言った。

「梁山泊さ」

 鄒淵も登雲山を仕切っていただけの事はあり、裏の世界では顔が広いようだ。何人かその道では有名な者と好(よしみ)を通じており、彼らが今は山東の梁山泊にいるというのだ。

 鄒淵と鄒潤は手下たちを丸ごと連れて、登雲山を出た。

 包吉、王正、毛親子を殺したのだ。登雲山に追っ手が来るのは火を見るより明らかだった。なによりその梁山泊にいる人間は、鄒淵しか顔を知らないのだ。

「なに、登雲山を出てみるのも潤のためさ」

 鄒淵はしずかに微笑んだ。

 孫立は感謝をしていた。作戦の前、仇以外は誰も殺さない、と約束をした。半ば破られることを想定していたのだが、約束は守られた。

 特にこの鄒淵と鄒潤は山賊だ。だからという訳ではないが、一番危惧していたのである。

 信じきれなかった孫立は、自分を恥じた。

 そんな孫立の心中など知る由もなく、鄒潤が頭の瘤の自慢を楽和にしていた。

 十里牌の店で楽和の姉、楽大娘子を拾い、登州を離れた。

 解兄弟救出の計画を聞き、気が狂わんばかりに泣き叫んでいたが、今は何とか落ち着いたように見えた。

 牢破りより何より、妻を説得する事が一番の肝だったのだ、と孫立は思っていた。顧大嫂などと違い、切った張ったの世界とは無縁で、これまで過ごしてきたのだ。

 しかし、

「私が何を言っても聞かないのでしょう。私もあなたの妻です。弟もいる事ですから、こうなれば覚悟を決めました」

 などと言うのを聞き、孫立は妻の別な一面を垣間見た気がした。

 登雲山の手下たちに引かせた車の上で、顧大嫂と楽しげに笑っている妻がいた。

 孫立は、やはり女は強い、と敬服するのだった。

 道はまだ遠い。目指す梁山泊は彼方だ。

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