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流転

「林冲どのは濡れ衣を着せられたのです。彼を救ってやるべきです」

 孔目の孫定(そんてい)は憤慨していた。

 この孫定、孔目(こうもく)いわゆる文書係を務めており、善を好み剛直な性格でよく人助けをしていた。そのため仏の孫さん、孫仏児(そんふつじ)と慕われていた。

 府尹(ふいん)は困っていた。

「林冲の罪はすでに指定されておるのだ。凶器所持の上、不法侵入。さらに高太尉の殺害未遂。ゆえに死罪にせよ、とな」

「この開封府は太尉の私物なのですか」

う、と言葉に詰まる府尹。

 府尹も、高俅が権力を振りかざし、好き放題している事は腹に据えかねるところではあった。あご髭を捻りつつ孫定に尋ねる。

「ならばこの一件、どう決着をつけるのだ」

 孫定は、得たりという顔をする。

「ありがとうございます、府尹さま」

 林冲は死罪から免れることができた。

 しかし、謀られたとはいえ、帯刀したまま白虎節堂に立ち入った事は揺るがない事実である。その点を林冲に認めさせた。だが、あくまでも誤って、という事を考慮し、棒打ち二十回の上、流罪という判決になった。

 屋敷で報告を受けた高俅も承知するしかなかった。

 今回は分が悪かった。普段から品行方正な林冲には、孫定をはじめとして味方が多くいた。

 だが、あの男は殺しておかなくてはならない。何としても、だ。

 あの目、今にも襲いかかってきそうな目。あれから幾度夢に見た事か。

 高俅は目を開けると、陸謙を呼べ、と命じた。

 

 流罪先は滄州(そうしゅう)と決まった。

 北京大名府から北東、渤海(ぼっかい)の近くにある州だ。

 董超(とうちょう)と薛覇(せっぱ)、二人の護送役人が林冲を連れている。大きな首枷をはめられていた。

 妻がいる。舅(しゅうと)の張教頭がいる。錦児がいた。近隣の親しい者たちも心配して駆け付けてくれたようだ。

「婿どの、大事ないか」

 張教頭が優しげな目で言う。妻、梅雪の父である。

「孫孔目のおかげで罪が軽くなりました。棒打ちも大したことはありません」

 林冲は一度、目を伏せると義父に告げた。

「義父上(ちちうえ)、この度は思いもよらぬ災難に会い、滄州へと流される事となりました。この先どうなる事か生死もおぼつかない次第。妻の若い身空を想うと、あまりに不憫。つきましては離縁のお赦しをいただきたい」

「な、馬鹿な事を申すな。わしらはお主が無実だと知っておる。ひとまず災厄が通り過ぎるのを待ち、戻ったら再び娘と添い遂げるのだ。天は決してお見捨てにはならんさ」

 林冲の胸に熱いものが込み上げる。

 本当にありがたい、だが己も決めたのだ。

「不安なのです。会う事ができないものを、互いに徒(いたずら)に待ち続ける事になりそうで。どうか私の願いを聞いてください。そうすれば安心して目もつむれましょう」

 張教頭も知っていた。自分も頑固だが、林冲もそれに輪をかけて頑固なのだ。

 お互い武の道を進む者。口にした事を曲げはしない。

「そこまで言うのなら、わかった。娘は錦児と共にわしが引き取ろう。あとの事は心配せず、安心して行きなさい」

「あなた」

 梅雪は錦児に支えられ、大粒の涙を隠そうともしない。

「良い相手を見つけるのだぞ」

 離縁状を書き上げ、押印し張教頭に手渡す。

「確かに受け取った。だが、安心しろ。娘はどこにもやらん。お主ほどの男が他にいてたまるか」

「ずっとお待ちしております。道中のご無事をお祈りしております」

 ふいに梅雪の顔が土気色になりよろめく。錦児が慌てて支えた。

 林冲は駆け寄りたかったが、二人の護送役人に阻まれた。

 早くしろ、と急かされる。

 林冲は一同を振り返ると、深々と頭を下げた。

 必ず帰ってくる。

 梅雪のためにも、義父(ちち)のためにも。

 信じてくれている人々のためにも。

 そして自分を陥れた高俅に会うため。

 復讐のために。

 長い旅になりそうだ。

 林冲はゆっくりと、その一歩を踏み出した。

 

 董超と薛覇は目を合わせ、何かを確認するようにうなずいた。

 前日の事である。一人の男が、彼らの元にやって来た。

 黒ずくめの恰好で、頭巾をかぶり目元のみが見えていた。男は二人を酒食でもてなした後、おもむろに切り出した。

 林冲を殺してほしい、と。

 顔を見合わせる董超と薛覇。男は高太尉の密命だ、と続けた。

 さらにうまくいけば報酬も出るという。二人には一生かかっても手に入れられないほどの金額であった。

 枷をつけているとはいえ、林冲は武芸の達人。かたや董超と薛覇は素人同然。下手はできぬ、と方法を考えあぐねていた。

 滄州までおよそ千二百里。長い旅だ。

 さすがの林冲も刑罰で受けた傷が痛みだし、足を引きずるようになった。夏の暑さもじりじりと林冲の体力を奪っていった。

 ある夜、宿屋での事である。

 薛覇がたらいにお湯を張って持ってきた。

「長旅で疲れているだろう。俺が足の汚れを落としてやるよ」

「いえいえ、そんな事させられません」

「なに、遠慮する事はないさ。俺たちは旅の道連れじゃないか」

 では、と足を伸ばした林冲。

 激痛が走る。

 お湯は煮えたぎるほどの熱湯だったのだ。薛覇が足を、董超は肩を掴み林冲を押さえる。

 何とか足を抜いた時には、すでに真っ赤に腫れあがっており、皮膚が脈打つのが分かった。あっという間に水ぶくれができ、唸る林冲。

「なんだ、せっかく好意でやったのに、文句があるのか」

 文句を言う薛覇に林冲は、いえ、と言うしかなかった。

 翌朝、董超が新しい草鞋(わらじ)をくれた。

「前のはかなりくたびれていたろう。これを使うと良い」

 礼は言ったものの、ぴんと突き出た麻がひと足ごとに刺さる。

 水ぶくれがつぶれ、血が流れ出る。

「どうだ新しい草鞋は良いだろう」

 董超はいやらしい笑いを浮かべる。

 歯を食いしばり歩こうとするが、足が出ない。痛みは増してゆき、まるで足を炭火の中に突っ込んでいるようだ。

 薛覇はふらふらと歩く林冲の手をとった。

「辛そうだな。手を貸してやるよ」

 そう言って、無理矢理に歩かせる。

 気を失いそうだ。血まみれの足が見えるが、もはや感覚もなくなった。自分の足ではないようだ。それでも耐えなければならない。

 絶対に帰るのだ。梅雪よ。

 ぶつぶつとうわごとを言いだした林冲を見て、二人は顔を見合わせた。

 頃合いか。

 道の先に林が見えてきた。煙と霧に閉ざされた、鬱蒼と茂る野猪林(やちょりん)。

 東京と滄州間の第一の難関であった。

 

「ちょっと疲れたな。ここでひと眠りしてゆこう」

 林へ入ると、董超はそう言って荷を下ろした。 

 薛覇が林冲を見ながら言う。

「こいつが逃げ出さないか心配だな」

「何をおっしゃいます。この林冲、逃げも隠れもしませんよ」

 痩せても枯れても禁軍教頭の誇りは持っている。

 そうかい、と薛覇は続ける。

「だが、縄をかけさせてくれれば安心できるのだがな」

「お好きなように」

 董超が縄を取り出し、林冲を近くの木に縛りつける。

 すまんな、と言い二人が水火棍(すいかこん)を手にする。

「おい林冲、俺たちを恨むなよ」

「俺たちは高太尉の命令で、仕方なくやるんだからな」

 董超と薛覇がじりじりと近づく。

 すでに高俅の手が回っていたのだ。彼らの責任ではない。彼らが高俅の命令に逆らえるわけがないのだ。

「董どの、薛どの。私たちは何の恨みつらみも無い者同士。命を拾い上げてはくださらぬか。一生の恩に着ましょう」

 うう、と董超が呻く。薛覇も渋い顔をしている。

「すまんな林冲、あんたに恨みはないのだ。頼むから化けて出るなよ」

 薛覇が水火棍を勢いよく振り下ろす。狙いは林冲の脳天だ。

 もはやこれまで、と林冲は目を閉じた。

 次の瞬間、激しい音と共に水火棍が弾き飛ばされた。

「危ない所だったな」

 はっと目を開く林冲。

 紛(まご)うことなきその声は魯智深のものだった。

 二人は木の後ろから現われた大入道を見て驚く。

「なんだ、この坊主は」

「お前らの企みは全部聞いていたぞ」

 禅杖を大きく振りかぶり、董超と薛覇に狙いを定める。

「待ってくれ、魯の兄貴」

 む、と魯智深が手を止める。

「彼らは高俅の命令に従ったまでの事。勘弁してやってくれないか」

「林冲よ、優しすぎるぜ。だが、そこが気に入ってるんだがな」

 魯智深は董超と薛覇に向かって吼える。

「兄弟の取り成しがなかったら、お前ら今ごろこうなっているところだ、林冲の兄弟に感謝するんだな」

 そう言って、近くの大木を禅杖の一撃で叩き折ってしまった。

 二人は声も出せずに固まった。

 魯智深は縄をほどき、林冲を解放する。

 林冲が投獄され、魯智深は救う手立てを探っていたという。そして高俅の屋敷から出てきた黒ずくめの男の後を追い、居酒屋に入った。そしてそこで暗殺計画を聞いた。決行するならばこの野猪林だろうとふんで、先回りしていたのだという。

 魯智深には感謝してもしきれぬほどだ。思わず目頭が熱くなる。

 ふと、気が遠くなりかけた。魯智深に救われた安心から、これまでの疲労がどっと押し寄せたのだろう。

 魯智深は董超と薛覇に命じて、交代で林冲を背負わせることにした。そうして滄州への旅が再開された。

 まるで俺たちがあの坊主に護送されているみたいだ。董超はそう考えるも、魯智深の監視の目は厳しく、気の休まる暇もない。

 薛覇と董超は思い当たった。近頃、大相国寺の菜園に魯智深というとんでもない坊主が来たと聞いた。もしやこの坊主がそうなのではないのか。

 あの時、林冲も魯の兄貴と叫んでいたようだ。だとすればますます逆らう事などできはしない。

 二人は高俅にありのまま報告する事に決めた。金も返そう。命あっての物種だ。

 そうして旅をするうち、林冲の火傷も体力もすっかり回復したようだ。

 魯智深が林冲を護衛して半月少し、滄州まであと七十里あまりとなった。人家が目立ちはじめ、林冲に手を出せそうな場所はもう無さそうだ。すでに手を出す気は無くなっているようだったが。

「ここらで良いだろう。あとは二人とも下手な考えを起こすのではないぞ」

「滅相もございません」

 二人は震えるばかりだ。

 林冲は枷をしたまま拱手する。

「本当に何と礼を言ったら良いのか。魯の兄貴、高俅の手の者が兄貴を狙うかもしれん。十分気をつけてくれ」

「そんな目に遇ってもわしの心配をするのか。まったく敵わぬな」

 がはは、と笑って魯智深は立ち去った。

 大きな背中を見て、林冲は心中で感謝していた。

「林冲どの、あの方はもしかして」

 董超が恐る恐る聞いてきた。

 そう彼こそ花和尚の魯智深だ、と答えた林冲はどこか誇らしい気持ちになった。

 

 滄州の郊外にたどり着いた三人は、路傍の居酒屋に入った。

 魯智深の監視から解放され、董超と薛覇は久しぶりに落ち着いた気持ちになった。

 店内では給仕が忙しそうに走り回っているが、一向に注文を取りに来ない。いらいらした林冲は、俺が罪人だから高をくくっているのか、と考えたが実情は違った。

 店主の話では、この横海群(おうかいぐん)に、とある大金持ちがいるのだという。

 彼は武芸を好み、あちこちから流れてくる好漢たちの面倒を見ているのだという。だから罪人などが店に来たら屋敷へ行かせるようにしているのだ。酒など飲んでいたら、金に不自由していないと思われ相手にされないだろうから、という店主の好意だったのだ。

 その男の名は柴進(さいしん)。土地の者は柴大官人とも呼んでいる。

 東京にいた頃、林冲もその名を耳にした事があった。これも何かの縁、と三人は屋敷を訪ねる事にした。

 二、三里先にさっそく大きな屋敷が見えてきた。

 四方を川が取り巻き、両岸に垂柳(しだれやなぎ)が茂っている。まるで柳林の中に屋敷があるようだ。

 石橋を渡り、下男に柴進への取り次ぎを頼む。だが、折悪しく柴進は朝から狩りに出かけて留守だというのだ。

 酒食にあずかろうと目論んでいた董超と薛覇は、あからさまにがっかりした顔を見せる。

 仕方あるまい、ともと来た道を戻ると、遠くの林から人馬の一隊が駆けてきた。

 刺叉(さすまた)を持った男たちが駆けており、足元に猟犬を連れている。馬上の人々は一様に矢を背負い、弓を肩から掛けている。

 そしてその中央に、守られるようにして馬を駆っている男がいた。

 年の頃は三十四、五だろうか。瀟洒な衣装に身を包み、宝玉を散りばめた帯をしている。端正な顔立ちで、遠目にも高貴な雰囲気が漂っているのが見てとれる。

 この人物が柴進なのだろうか。

 一団が近づいて、林冲に声をかけてきた。

「どうやらお困りのようですね。私は柴進と申します。あなたの名は」

 やはり、この馬上の男が柴進だった。

「もと東京禁軍教頭、名は林冲と申します」

 おおあなたが、と柴進がにこやかに微笑んだ。

 傍らで、小さなつむじ風が巻き起こっていた。

 

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