108 outlaws
流転
三
誰か訪ねてきた。
林冲は手に得物を握り、身構えた。
魯智深だと錦児が告げた。
ふう、と溜息をひとつつき、肩の力を抜く。
友に裏切られたあの日から、どうも過敏になっているようだ。気にしないようにと妻の梅雪はなだめるが、怒りはふつふつと胸の内で煮えたぎるばかりだった。
「どうした林冲。しばらく顔を見せなかったではないか」
「申し訳ありません。少し仕事でごたごたが続きまして」
二人は居酒屋に場所を移した。
魯智深に迷惑をかけてはならない。そう林冲は決めていた。
だが酒が進み、目も座ってくると、つい愚痴が口をついて出る。
「どうして今の世は文官ばかりが威張り散らしておるのだ。国を荒らす賊どもや、辺境の異民族を制しているのは、我ら武官ではないか。堤轄だった兄貴なら分かるだろう、この思いが」
「おいおいどうした、今日は荒れておるではないか」
質問を肯定するでもなく、魯智深は林冲に酒を注(つ)いだ。
宋以前の王朝では、有力な軍人が皇帝に取って代わることが何度も行われてきた。宋を興した趙匡胤(ちょうきょういん)はそれを嫌い、軍人の権限を削ぐ事に注力した。かくしてそれは成功した。
役人登用試験である科挙(かきょ)の重要性が一段と増し、採用された文官の地位が向上する事となった。特に高官の権力は留まることを知らず、積極的に身内を登用したり、賄賂の横行が暗黙の了解となり、やがて政治は腐敗を極めた。
彼らの気に入らない者は、誰であれ首が飛ぶ。禁軍の教頭であった王進が、まさにそれであった。陸謙もまた、高俅の権力に負け、林冲を裏切った。
この国は腐っている、と林冲が乱暴に杯を置いた。
林冲の身に何か起きているのか。魯智深は自分の杯に酒を注ぎながら静かに言う。
「わしはお主の味方だ。何が起きようと、どんな時でもな」
ぐい、と飲み干すと
「いずれ綻びは繕われるのが定め。国も、人も、それが世の常だろうよ。おっと、坊主のような事を言ってしまったか」
がはは、と笑う魯智深につられ林冲も笑う。
曇天の雲間から、陽光が差し込んだ気がした。
林冲は魯智深と別れ、帰路へついた。帰り道、刀を目の前に置き、ぶつぶつと言っている大男を見た。
刀には札がつけられており、売り物として置いているようだ。男は汚れた戦袍を着ており、どうやら武官のようだった。
「この東京(とうけい)に目利きはおらんのか。この刀はむざむざ埋もれてしまうのか」
林冲の心が動いた。武芸に関わる者で武器に興味のない者などいない。特に林冲は名剣、名刀の類を自らも収集するほどだった。あまりの熱中ぶりに、新婚時は妻に呆れられたほどだ。
しばらく封印していた気持ちが首をもたげる。
大男は林冲の視線に気づくと、ゆっくりと刀を鞘から抜いて見せた。
林冲の背筋に冷気が走る。
覗いた刀身からは気が立ち昇るようだ。林冲の視線は刀に釘付けとなった。まぎれもない業物(わざもの)である。
「いくらだ」
思わず口走っていた。
「三千貫、と言いたいが、二千貫にしておこう」
高い。だがそこまでの価値はある名刀には違いない。
欲しい。林冲は悩んだ。
「確かに二千貫の値打ちはあるな。だがわしもそこまでは出せぬ。どうだろう、一千までなら出せるのだが」
「なんだと、古(いにしえ)の名剣、太阿巨闕(たいあきょけつ)、莫邪干将(ばくやかんしょう)とまではいかんが、この先祖伝来の宝刀を一千と申すのか」
男は刀身を鞘に収め、じっとしている。しばらくぶつぶつと何やら呟いていたが、林冲を見ると、仕方ない、と言った。
平静を装ってはいるが、心中では飛び上がるほど嬉しい林冲。
男を待たせ、家から銭を持ってくると、刀と交換した。両手で感じる刀の重みに、おお、と感嘆の声を漏らしてしまう。
先祖の名は言えないという。落ちぶれて金に困って売るのだ、恥はさらしたくないとの理由だった。
家に帰ると部屋にこもり、ずっと眺めていた。
見れば見るほど名刀だ。刃の鍛え方、刀身の素晴らしさ。柄や鞘の造形に至るまで見蕩れるしかなかった。
すっかり、林冲は刀の虜となってしまった。
夜明け前に起き出し、飽きることなく眺めている林冲に、梅雪は呆れるばかりだった。
だがそんな子供っぽい夫を見て、梅雪は思わず微笑むのだった。
翌日の事である。
高俅の使いと称する者たちがやって来た。
高俅が自分の持つ宝刀と、林冲の手に入れた宝刀とを比べたいので屋敷に来るように、という通達だった。
どこぞのお喋りが高俅の耳に入れたのか。高衙内の一件もあり、あまり気が進まない林冲ではあったが、大尉の命令であれば仕方あるまい。林冲は正装し、高俅の屋敷へと向かった。
大きな屋敷だった。その大きさは高俅の持つ権力の大きさそのものなのだろう。
奥の間にいる、と使いの男は言った。屋敷の奥へ入り、さらに二つ三つ、部屋を抜けてゆく。どれだけ部屋や広間があるのだろうか。
取り次ぐのでここで待つようにと言い、使いたちが奥へ消えた。
白虎節堂(びゃっこせつどう)、と書かれた額が見えた。周りは全て翠の欄干である。
待てと言われたが、使いも戻って来ず、高俅も現われない。
ふと、林冲は気付いた。ここは軍の大事(だいじ)を評議する場所だ。いくら高俅に呼ばれたからとはいえ居るべきではない。
と、堂の外へ出ようとした時である。
高らかな靴音と共に高俅が堂に現われた。
林冲は近づき、礼をする。高俅の顔がこわばった。
「貴様、何故この白虎節堂におるのだ。ここは評議時以外立ち入ることは赦されておらんのだぞ。法度(はっと)を知らぬのか、林冲よ」
「お言葉ですが、太尉どの。私は使いの者に呼ばれ、太尉どのが刀比べをご所望とお聞きして参上した次第」
林冲は持ってきた刀を高俅に見せる。
「刀だと。む、貴様その刀でわしを斬ろうというのか。謀反を起こす気だな、この林冲を捕えよ」
白虎節堂の脇から二十人ほどの兵が飛び出し、林冲を囲む。
悲しいかな、これが武芸者の性(さが)か。林冲は身の危険を察し、手にしていた宝刀を思わず抜いてしまった。
「見ろ、刀を抜いたぞ。やはり謀反だ。わしを殺す気なのだ」
しまった、と刀を鞘へ戻すが時すでに遅し。林冲は取り押さえられ、床に這いつくばる。
「違う、濡れ衣です。私はあなたに呼ばれて」
「わしはそのような申し出をした覚えはない。第一、その使いの者とやらはどこにいるのというのだ」
「その者たちは、この白虎節堂の奥へと入って」
「馬鹿を言うな。この奥へは、わしのような高官のみが立ち入れる場所。使いのような者など入れる訳がなかろう」
しかし確かに、と林冲は続けようとするが、兵たちに抑えつけられ声も出せなくなった。
どうしてこんな事を。なにかの間違いだ。説明すれば、分かってもらえる。
高俅が近づいてくる。顔をそっと林冲の耳元に寄せ、彼だけに囁いた。
「林冲よ、お主が悪いのだぞ。女房の事など目をつむっておけば良かったものを」
頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。
花花太歳か。息子のためか。
全てが仕組まれた事だったのか。
どこまで非道なのだ。どこまで非情なのだ。
赦さぬ、赦さぬぞ、高俅。
歯を食いしばり、歯の根元から血が滲みだしている。充血し、手負いの獣よりも凶暴な目が高俅を睨みつけている。
拘束している兵たちに恐怖と焦りが見える。
恐ろしいほどの力を感じる。唸り声を上げながら立ちあがろうとする林冲。
二十人の力を押し返している。ついに腹が床から離れた。
どこからこんな力が。
あり得ない光景を目の当たりに、高俅は驚愕した。
兵たちも食いしばる。だがこれ以上、押さえることはできない。
その時、林冲は再び頭に衝撃を感じた。今度は本物の鈍器だった。
林冲は小さく呻くと気を失った。支えを失った兵たちが林冲の体を押しつぶした。
高俅は命令を出し、林冲を役所へと送った。
冷や汗をぬぐいながら、安堵の息を吐く。
しかしこの時見た獣の目に長い間悩まされる事になろうとは、高俅はまだ知る由もなかった。