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流転

 誰か訪ねてきた。

 林冲は手に得物を握り、身構えた。

 魯智深だと錦児が告げた。

 ふう、と溜息をひとつつき、肩の力を抜く。

 友に裏切られたあの日から、どうも過敏になっているようだ。気にしないようにと妻の梅雪はなだめるが、怒りはふつふつと胸の内で煮えたぎるばかりだった。

「どうした林冲。しばらく顔を見せなかったではないか」

「申し訳ありません。少し仕事でごたごたが続きまして」

 二人は居酒屋に場所を移した。

 魯智深に迷惑をかけてはならない。そう林冲は決めていた。

 だが酒が進み、目も座ってくると、つい愚痴が口をついて出る。

「どうして今の世は文官ばかりが威張り散らしておるのだ。国を荒らす賊どもや、辺境の異民族を制しているのは、我ら武官ではないか。堤轄だった兄貴なら分かるだろう、この思いが」

「おいおいどうした、今日は荒れておるではないか」

 質問を肯定するでもなく、魯智深は林冲に酒を注(つ)いだ。

 宋以前の王朝では、有力な軍人が皇帝に取って代わることが何度も行われてきた。宋を興した趙匡胤(ちょうきょういん)はそれを嫌い、軍人の権限を削ぐ事に注力した。かくしてそれは成功した。

 役人登用試験である科挙(かきょ)の重要性が一段と増し、採用された文官の地位が向上する事となった。特に高官の権力は留まることを知らず、積極的に身内を登用したり、賄賂の横行が暗黙の了解となり、やがて政治は腐敗を極めた。

 彼らの気に入らない者は、誰であれ首が飛ぶ。禁軍の教頭であった王進が、まさにそれであった。陸謙もまた、高俅の権力に負け、林冲を裏切った。

 この国は腐っている、と林冲が乱暴に杯を置いた。

 林冲の身に何か起きているのか。魯智深は自分の杯に酒を注ぎながら静かに言う。

「わしはお主の味方だ。何が起きようと、どんな時でもな」

 ぐい、と飲み干すと

「いずれ綻びは繕われるのが定め。国も、人も、それが世の常だろうよ。おっと、坊主のような事を言ってしまったか」

 がはは、と笑う魯智深につられ林冲も笑う。

 曇天の雲間から、陽光が差し込んだ気がした。

 林冲は魯智深と別れ、帰路へついた。帰り道、刀を目の前に置き、ぶつぶつと言っている大男を見た。

 刀には札がつけられており、売り物として置いているようだ。男は汚れた戦袍を着ており、どうやら武官のようだった。

「この東京(とうけい)に目利きはおらんのか。この刀はむざむざ埋もれてしまうのか」

 林冲の心が動いた。武芸に関わる者で武器に興味のない者などいない。特に林冲は名剣、名刀の類を自らも収集するほどだった。あまりの熱中ぶりに、新婚時は妻に呆れられたほどだ。

 しばらく封印していた気持ちが首をもたげる。

 大男は林冲の視線に気づくと、ゆっくりと刀を鞘から抜いて見せた。

 林冲の背筋に冷気が走る。

 覗いた刀身からは気が立ち昇るようだ。林冲の視線は刀に釘付けとなった。まぎれもない業物(わざもの)である。

「いくらだ」

 思わず口走っていた。

「三千貫、と言いたいが、二千貫にしておこう」

 高い。だがそこまでの価値はある名刀には違いない。

 欲しい。林冲は悩んだ。

「確かに二千貫の値打ちはあるな。だがわしもそこまでは出せぬ。どうだろう、一千までなら出せるのだが」

「なんだと、古(いにしえ)の名剣、太阿巨闕(たいあきょけつ)、莫邪干将(ばくやかんしょう)とまではいかんが、この先祖伝来の宝刀を一千と申すのか」

 男は刀身を鞘に収め、じっとしている。しばらくぶつぶつと何やら呟いていたが、林冲を見ると、仕方ない、と言った。

 平静を装ってはいるが、心中では飛び上がるほど嬉しい林冲。

 男を待たせ、家から銭を持ってくると、刀と交換した。両手で感じる刀の重みに、おお、と感嘆の声を漏らしてしまう。

 先祖の名は言えないという。落ちぶれて金に困って売るのだ、恥はさらしたくないとの理由だった。

 家に帰ると部屋にこもり、ずっと眺めていた。

 見れば見るほど名刀だ。刃の鍛え方、刀身の素晴らしさ。柄や鞘の造形に至るまで見蕩れるしかなかった。

 すっかり、林冲は刀の虜となってしまった。

 夜明け前に起き出し、飽きることなく眺めている林冲に、梅雪は呆れるばかりだった。

 だがそんな子供っぽい夫を見て、梅雪は思わず微笑むのだった。

 

 翌日の事である。

 高俅の使いと称する者たちがやって来た。

 高俅が自分の持つ宝刀と、林冲の手に入れた宝刀とを比べたいので屋敷に来るように、という通達だった。

 どこぞのお喋りが高俅の耳に入れたのか。高衙内の一件もあり、あまり気が進まない林冲ではあったが、大尉の命令であれば仕方あるまい。林冲は正装し、高俅の屋敷へと向かった。

 大きな屋敷だった。その大きさは高俅の持つ権力の大きさそのものなのだろう。

 奥の間にいる、と使いの男は言った。屋敷の奥へ入り、さらに二つ三つ、部屋を抜けてゆく。どれだけ部屋や広間があるのだろうか。

 取り次ぐのでここで待つようにと言い、使いたちが奥へ消えた。

 白虎節堂(びゃっこせつどう)、と書かれた額が見えた。周りは全て翠の欄干である。

 待てと言われたが、使いも戻って来ず、高俅も現われない。

 ふと、林冲は気付いた。ここは軍の大事(だいじ)を評議する場所だ。いくら高俅に呼ばれたからとはいえ居るべきではない。

 と、堂の外へ出ようとした時である。

 高らかな靴音と共に高俅が堂に現われた。

 林冲は近づき、礼をする。高俅の顔がこわばった。

「貴様、何故この白虎節堂におるのだ。ここは評議時以外立ち入ることは赦されておらんのだぞ。法度(はっと)を知らぬのか、林冲よ」

「お言葉ですが、太尉どの。私は使いの者に呼ばれ、太尉どのが刀比べをご所望とお聞きして参上した次第」

 林冲は持ってきた刀を高俅に見せる。

「刀だと。む、貴様その刀でわしを斬ろうというのか。謀反を起こす気だな、この林冲を捕えよ」

 白虎節堂の脇から二十人ほどの兵が飛び出し、林冲を囲む。

 悲しいかな、これが武芸者の性(さが)か。林冲は身の危険を察し、手にしていた宝刀を思わず抜いてしまった。

「見ろ、刀を抜いたぞ。やはり謀反だ。わしを殺す気なのだ」

 しまった、と刀を鞘へ戻すが時すでに遅し。林冲は取り押さえられ、床に這いつくばる。

「違う、濡れ衣です。私はあなたに呼ばれて」

「わしはそのような申し出をした覚えはない。第一、その使いの者とやらはどこにいるのというのだ」

「その者たちは、この白虎節堂の奥へと入って」

「馬鹿を言うな。この奥へは、わしのような高官のみが立ち入れる場所。使いのような者など入れる訳がなかろう」

 しかし確かに、と林冲は続けようとするが、兵たちに抑えつけられ声も出せなくなった。

 どうしてこんな事を。なにかの間違いだ。説明すれば、分かってもらえる。

 高俅が近づいてくる。顔をそっと林冲の耳元に寄せ、彼だけに囁いた。

「林冲よ、お主が悪いのだぞ。女房の事など目をつむっておけば良かったものを」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。

 花花太歳か。息子のためか。

 全てが仕組まれた事だったのか。

 どこまで非道なのだ。どこまで非情なのだ。

 赦さぬ、赦さぬぞ、高俅。

 歯を食いしばり、歯の根元から血が滲みだしている。充血し、手負いの獣よりも凶暴な目が高俅を睨みつけている。

 拘束している兵たちに恐怖と焦りが見える。

 恐ろしいほどの力を感じる。唸り声を上げながら立ちあがろうとする林冲。

 二十人の力を押し返している。ついに腹が床から離れた。

 どこからこんな力が。

 あり得ない光景を目の当たりに、高俅は驚愕した。

 兵たちも食いしばる。だがこれ以上、押さえることはできない。

 その時、林冲は再び頭に衝撃を感じた。今度は本物の鈍器だった。

 林冲は小さく呻くと気を失った。支えを失った兵たちが林冲の体を押しつぶした。

 高俅は命令を出し、林冲を役所へと送った。

 冷や汗をぬぐいながら、安堵の息を吐く。

 しかしこの時見た獣の目に長い間悩まされる事になろうとは、高俅はまだ知る由もなかった。

 

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