top of page

流転

 病です。

 富安(ふうあん)はそう言った。

 高衙内はあの日以来、鬱々として心が晴れなかった。

 目を閉じれば瞼の裏に、ある顔が浮かんでくる。五嶽楼で見つけた、林冲の妻である。

 澄んだ目もと。柔らかく弧を描く眉。ほどよく膨らんだ、艶やかな唇。たおやかな体つき。白魚のような指先。嫌がって怒った表情もまた美しかった。

 気晴らしに女遊びをしてみたが、かえって違いを痛感するばかりだった。飯も喉に通らず、日がな溜息ばかりつくようになった。

 それを見た太鼓持ちの富安は、高衙内の心中を看破した。

「若さま、それが恋の病という奴でございます。よっぽど美しい女性なのでしょうな」

「おい乾鳥頭(かんちょうとう)、これが恋だというのか」

「そうです。その方を想うだけで、胸が痛みましょう」

「その通りだ。どうすれば治るのだろうか」

 胸の辺りを押さえる高衙内。

「それがしに良い考えがございます」

 富安は下卑た笑いを浮かべ、手を揉んだ。

 

 林冲は友人と飲んでいた。

 虞候(ぐこう)を務める陸謙(りくけん)という男で、兄弟のような間柄だった。

 陸謙はここしばらくふさぎ込んでいた林冲を樊楼(はんろう)に誘った。

 二階に上がり、酒を飲む。

 二人は四方山話に花を咲かせていたが、酒が進むと林冲の言葉数が減り、溜息をつくようになった。

「どうしたのだ。しばらく姿を見ないと思ったから誘ったのだが、何かあったのか」

「うむ」

 と、林冲は一気に杯を干すとおもむろに語り出した。

 先日の五嶽楼での件である。そして、どうしたものか、とひときわ大きな溜息をついた。

「高(こう)の若さまも、お前の女房だと知らなかったのさ。もう済んだ事だ、さあ飲もう」

 陸謙の酌を受け、それを飲む。

 すると突然、旦那さま、と呼ぶ声がする。窓の外を見ると、錦児が血相を変えた様子で立っていた。

「旦那さま、探しましたよ。奥様が、奥様が」

 錦児の言葉に、林冲は外へ飛び出す。

「妻はどこだ」

「陸謙さまの」

 家に、という言葉を待たずに林冲は駆けだした。

 最初、陸謙は自分の家で飲もうと誘ってきた。だから妻も錦児もそう思っていたのだ。だが、途中で場所を樊楼に変えた。はじめから仕組まれていた事だったのか。

 陸謙の家に着き、破らんばかりの勢いで戸を叩く。

「開けろ、開けるんだ」

 林冲はついに戸を破り、中へ飛び込む。人の気配が二階からする。梯子段を一足飛びに駆け上がると、その勢いで部屋の戸を開けた。

「あなた」

 力なく床に座り込んだ妻がいた。他には誰もいない。

 林冲は妻の肩を抱き寄せる。

「梅雪(ばいせつ)、大丈夫か。奴は、どこへ行った」

 ゆるゆると窓を指す梅雪。

 窓が開いている。どうやらそこから逃げ出したようだ。

「すまなかった」

 貞操は奪われなかったというが、林冲の怒りは心頭に達していた。

 近くにあった棒のようなものを手にすると、部屋の調度などあらゆるものを力任せに破壊した。近隣の者も、関わり合いになるのを怖れて戸口を閉めている。

 追いついた錦児に妻を任せ、林冲はそのまま樊楼へと戻った。

 すでに陸謙の姿はなかった。

「陸謙、覚えておけ」

 そう叫ぶ林冲の目は獣のようなそれだった。

 

 本当に胸が痛い。

 林冲が倒れたと偽り、陸謙の家までおびき出したまでは良かった。だが、あの女はどんなに優しくしても、どんなになだめすかしても、決してなびこうとはしなかった。

 堪忍袋の緒が切れ、ついに実力行使に及ぼうとした時、あの男が現われた。

 獣のような目。

 五嶽楼で見たあの目が、高衙内を怯えさせていた。

 高衙内はますますやつれ、部屋からも出てこなくなってしまった。

「どうするのだ、富安」

「陸謙どの。若さまにこれ以上何かあれば、わしもあんたもただではすまんぞ」

「お前がうまくゆくと言ったから、俺は友を裏切ってまでこんな事をしたのだ。あれから外を歩く事もできん」

「ふん、金と地位に目がくらんだくせにいまさら何を言う」

 相談する二人の元へ報せが届いた。

 高俅の執事が、高衙内の見舞いに来るというのだ。

 こうなれば隠す事はできない。

 毒を食らわば皿まで、だ。高俅の力で何とかしてもらうしかない。

 富安は、見舞いを終えた執事を待ち伏せた。

「執事どの、若さまの件でお話がございます」

「おお、若君は一体どうしたのだ。あんなにやつれられて」

「医者には治せぬ病にございます。しかし、たった一つだけ治す方法がございます」

 富安からの方法を聞いた執事は、高俅の元へ向かった。

「どうだった、息子の様子は」

 眉に皺を寄せ、深刻な顔をする執事。

「あまり芳(かんば)しくございません」

 なんだと、と言いかける高俅を制し、執事は続けた。

「太尉さま、禁軍教頭の林冲という男をご存知ですか」

 ぴくりと高俅の眉が動いた。

 また禁軍教頭か。王進という男といい、どうにも自分とは奇縁があるようだ。

 息子と武官ひとりとどちらを取るのか、考えるまでもなかった。

 高俅は不敵な笑みを浮かべていた。

bottom of page