108 outlaws
流転
二
病です。
富安(ふうあん)はそう言った。
高衙内はあの日以来、鬱々として心が晴れなかった。
目を閉じれば瞼の裏に、ある顔が浮かんでくる。五嶽楼で見つけた、林冲の妻である。
澄んだ目もと。柔らかく弧を描く眉。ほどよく膨らんだ、艶やかな唇。たおやかな体つき。白魚のような指先。嫌がって怒った表情もまた美しかった。
気晴らしに女遊びをしてみたが、かえって違いを痛感するばかりだった。飯も喉に通らず、日がな溜息ばかりつくようになった。
それを見た太鼓持ちの富安は、高衙内の心中を看破した。
「若さま、それが恋の病という奴でございます。よっぽど美しい女性なのでしょうな」
「おい乾鳥頭(かんちょうとう)、これが恋だというのか」
「そうです。その方を想うだけで、胸が痛みましょう」
「その通りだ。どうすれば治るのだろうか」
胸の辺りを押さえる高衙内。
「それがしに良い考えがございます」
富安は下卑た笑いを浮かべ、手を揉んだ。
林冲は友人と飲んでいた。
虞候(ぐこう)を務める陸謙(りくけん)という男で、兄弟のような間柄だった。
陸謙はここしばらくふさぎ込んでいた林冲を樊楼(はんろう)に誘った。
二階に上がり、酒を飲む。
二人は四方山話に花を咲かせていたが、酒が進むと林冲の言葉数が減り、溜息をつくようになった。
「どうしたのだ。しばらく姿を見ないと思ったから誘ったのだが、何かあったのか」
「うむ」
と、林冲は一気に杯を干すとおもむろに語り出した。
先日の五嶽楼での件である。そして、どうしたものか、とひときわ大きな溜息をついた。
「高(こう)の若さまも、お前の女房だと知らなかったのさ。もう済んだ事だ、さあ飲もう」
陸謙の酌を受け、それを飲む。
すると突然、旦那さま、と呼ぶ声がする。窓の外を見ると、錦児が血相を変えた様子で立っていた。
「旦那さま、探しましたよ。奥様が、奥様が」
錦児の言葉に、林冲は外へ飛び出す。
「妻はどこだ」
「陸謙さまの」
家に、という言葉を待たずに林冲は駆けだした。
最初、陸謙は自分の家で飲もうと誘ってきた。だから妻も錦児もそう思っていたのだ。だが、途中で場所を樊楼に変えた。はじめから仕組まれていた事だったのか。
陸謙の家に着き、破らんばかりの勢いで戸を叩く。
「開けろ、開けるんだ」
林冲はついに戸を破り、中へ飛び込む。人の気配が二階からする。梯子段を一足飛びに駆け上がると、その勢いで部屋の戸を開けた。
「あなた」
力なく床に座り込んだ妻がいた。他には誰もいない。
林冲は妻の肩を抱き寄せる。
「梅雪(ばいせつ)、大丈夫か。奴は、どこへ行った」
ゆるゆると窓を指す梅雪。
窓が開いている。どうやらそこから逃げ出したようだ。
「すまなかった」
貞操は奪われなかったというが、林冲の怒りは心頭に達していた。
近くにあった棒のようなものを手にすると、部屋の調度などあらゆるものを力任せに破壊した。近隣の者も、関わり合いになるのを怖れて戸口を閉めている。
追いついた錦児に妻を任せ、林冲はそのまま樊楼へと戻った。
すでに陸謙の姿はなかった。
「陸謙、覚えておけ」
そう叫ぶ林冲の目は獣のようなそれだった。
本当に胸が痛い。
林冲が倒れたと偽り、陸謙の家までおびき出したまでは良かった。だが、あの女はどんなに優しくしても、どんなになだめすかしても、決してなびこうとはしなかった。
堪忍袋の緒が切れ、ついに実力行使に及ぼうとした時、あの男が現われた。
獣のような目。
五嶽楼で見たあの目が、高衙内を怯えさせていた。
高衙内はますますやつれ、部屋からも出てこなくなってしまった。
「どうするのだ、富安」
「陸謙どの。若さまにこれ以上何かあれば、わしもあんたもただではすまんぞ」
「お前がうまくゆくと言ったから、俺は友を裏切ってまでこんな事をしたのだ。あれから外を歩く事もできん」
「ふん、金と地位に目がくらんだくせにいまさら何を言う」
相談する二人の元へ報せが届いた。
高俅の執事が、高衙内の見舞いに来るというのだ。
こうなれば隠す事はできない。
毒を食らわば皿まで、だ。高俅の力で何とかしてもらうしかない。
富安は、見舞いを終えた執事を待ち伏せた。
「執事どの、若さまの件でお話がございます」
「おお、若君は一体どうしたのだ。あんなにやつれられて」
「医者には治せぬ病にございます。しかし、たった一つだけ治す方法がございます」
富安からの方法を聞いた執事は、高俅の元へ向かった。
「どうだった、息子の様子は」
眉に皺を寄せ、深刻な顔をする執事。
「あまり芳(かんば)しくございません」
なんだと、と言いかける高俅を制し、執事は続けた。
「太尉さま、禁軍教頭の林冲という男をご存知ですか」
ぴくりと高俅の眉が動いた。
また禁軍教頭か。王進という男といい、どうにも自分とは奇縁があるようだ。
息子と武官ひとりとどちらを取るのか、考えるまでもなかった。
高俅は不敵な笑みを浮かべていた。