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流転

 林冲(りんちゅう)は、奇っ怪な男を見た。

 妻と嶽廟(がくびょう)参りの途中だった。

 通りかかった菜園の中から、轟(ごう)と渦巻く風の唸り声を聞いた。妻と女中を先に行かせ、足を止め中を覗いた。

 禿頭(とくとう)の巨漢が上半身を露わにし、巨大な水磨禅杖を振り回していた。背中には牡丹の刺青。

 ここは大相国寺が管轄しているはずだ。とすれば、あの男は僧なのか。

 見物しているならず者たちが、花和尚(かおしょう)、花和尚、と囃したてている。

 やはり僧らしい。

 それにしても何という怪力だ。禅杖が木でできているのではないかと思わせるほど、軽々と操っている。力だけではない、確かな腕前も持ち合わせているのが分かる。

 取り巻きの一人がこちらへやって来て、中に招かれた。

 林冲が拱手して言う。

「申し訳ない。あまりの腕前に見蕩れてしまい、失礼をしました」

「いえいえ、ほんの手慰みです」

 林冲と魯智深は互いに名乗り合った。

 魯智深は若い頃、東京にいた事があり、堤轄をしていた林冲の父の事を知っているという。なんという巡り合わせだ。

 林冲は禁軍で槍棒(そうぼう)術の教頭をしていた。愛用の得物は蛇矛(だぼう)。

 凛とした風貌とは裏腹に、こと戦いに関しては獣のような面も見せることから、同輩や部下たちから豹子頭(ひょうしとう)と呼ばれていた。同じく蛇茅を得意とした、かの張飛(ちょうひ)を想起させた。

 魯智深と林冲、彼らが意気投合するのは必然で、すぐに義兄弟の杯を交わした。歳の順で林冲が弟だ。

 強さを求めることに貪欲で、また腕のある者との交流を願っていた林冲にとって、この出会いは至福の喜びとなった。

「旦那さま、奥様が」

 女中の錦児(きんじ)が息を切らせて駆けこんで来た。

 慌てて嶽廟に駆けつけた林冲は妻を探した。

 五嶽楼(ごがくろう)の欄干(らんかん)に数人のごろつき達がいた。めいめい物騒な物を持っている。その向こうに妻がいた。そして向かい合う若い男が引きとめている。

「なあ、良いだろう、話をするだけだ。ちょっとあそこの二階まで一緒に行こう」

 言い寄る男に林冲の妻は毅然と言い放つ。

「やめてください。私は夫のある身です。恥を知りなさい」

「怒った顔もまた綺麗だなぁ。嫌よ嫌よも、なんだろう」

 若い男は、まだ雀斑(そばかす)の残る顔をにやつかせ、手を伸ばす。

「貴様。人の女房に手を出すとは」

 林冲が飛び込み拳を振り上げ、男を睨む。

「お前は」

 その顔に見覚えがあった。

 東京の太尉である高俅(こうきゅう)の養子であった。

 林冲の拳は行き場を失い、震えていた。

 

 花花太歳(かかたいさい)の高衙内(こうがない)、そう呼ばれていた。女たらしの疫病神という意味だ。

 子の無かった高俅は叔父の子を養子とした。それが高衙内だった。

 高俅は彼を甘やかし、また高衙内も養父の権勢を笠に着て、やりたい放題だった。誰もが高俅を怖れており、火中の栗を進んで拾う者などいなかったのだ。

 高衙内はますます増長し、ついには他人の妻にまで手を出すようになっていたのである。

 禁軍教頭の林冲ではないか。この女は、こいつの女房だったのか。知っていれば手を出さずにいたものの、時すでに遅し。

 だが林冲は自分を殴れなかった。高衙内はにやりと笑う。

 心中、冷や汗をかきながらそれをおくびにも出さず、林冲に指を突き付けた。

「林冲ではないか。なんだその手は」

 林冲は口を固く結び、睨みつけている。その目は獣のようだった。

「ちょっと声をかけていただけではないか。もういい、興ざめだ。行くぞ」

 体の震えを何とか抑え込み、体面を保つ高衙内。そんな事だけは一流だった。

 手下どもを連れ、その場を去る高衙内。林冲はその背中を睨んだままだ。

 あなた、と妻が傍へ寄る。

「私は大丈夫です。気になさらぬよう」

「すまない」

 気丈な妻だ。誇らしく思う。

 その後、助太刀に駆けつけた魯智深をなだめ、嶽廟を後にした。

 林冲はじっと拳を見る。

 殴ろうとした。

 殴りたかった。だが殴れなかった。

 負けた。青白い若造ひとりに、負けた。

 高衙内の背後にある、権力というものに負けた。

「官を怖れず、ただ管を怖れる、か」

 林冲は王進の事を思い出していた。

 禁軍最強とも讃えられた王進も、高俅から逃れるため都を去った。

 林冲はゆっくりと拳を開くと歩きだした。

 妻が心配そうな顔で見つめている。

 俺は妻を守ったのだ。そう言い聞かせるしかなかった。

 今夜は飲もう。

 我を忘れるくらい飲もうと、林冲は決めた。

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