108 outlaws
流転
一
林冲(りんちゅう)は、奇っ怪な男を見た。
妻と嶽廟(がくびょう)参りの途中だった。
通りかかった菜園の中から、轟(ごう)と渦巻く風の唸り声を聞いた。妻と女中を先に行かせ、足を止め中を覗いた。
禿頭(とくとう)の巨漢が上半身を露わにし、巨大な水磨禅杖を振り回していた。背中には牡丹の刺青。
ここは大相国寺が管轄しているはずだ。とすれば、あの男は僧なのか。
見物しているならず者たちが、花和尚(かおしょう)、花和尚、と囃したてている。
やはり僧らしい。
それにしても何という怪力だ。禅杖が木でできているのではないかと思わせるほど、軽々と操っている。力だけではない、確かな腕前も持ち合わせているのが分かる。
取り巻きの一人がこちらへやって来て、中に招かれた。
林冲が拱手して言う。
「申し訳ない。あまりの腕前に見蕩れてしまい、失礼をしました」
「いえいえ、ほんの手慰みです」
林冲と魯智深は互いに名乗り合った。
魯智深は若い頃、東京にいた事があり、堤轄をしていた林冲の父の事を知っているという。なんという巡り合わせだ。
林冲は禁軍で槍棒(そうぼう)術の教頭をしていた。愛用の得物は蛇矛(だぼう)。
凛とした風貌とは裏腹に、こと戦いに関しては獣のような面も見せることから、同輩や部下たちから豹子頭(ひょうしとう)と呼ばれていた。同じく蛇茅を得意とした、かの張飛(ちょうひ)を想起させた。
魯智深と林冲、彼らが意気投合するのは必然で、すぐに義兄弟の杯を交わした。歳の順で林冲が弟だ。
強さを求めることに貪欲で、また腕のある者との交流を願っていた林冲にとって、この出会いは至福の喜びとなった。
「旦那さま、奥様が」
女中の錦児(きんじ)が息を切らせて駆けこんで来た。
慌てて嶽廟に駆けつけた林冲は妻を探した。
五嶽楼(ごがくろう)の欄干(らんかん)に数人のごろつき達がいた。めいめい物騒な物を持っている。その向こうに妻がいた。そして向かい合う若い男が引きとめている。
「なあ、良いだろう、話をするだけだ。ちょっとあそこの二階まで一緒に行こう」
言い寄る男に林冲の妻は毅然と言い放つ。
「やめてください。私は夫のある身です。恥を知りなさい」
「怒った顔もまた綺麗だなぁ。嫌よ嫌よも、なんだろう」
若い男は、まだ雀斑(そばかす)の残る顔をにやつかせ、手を伸ばす。
「貴様。人の女房に手を出すとは」
林冲が飛び込み拳を振り上げ、男を睨む。
「お前は」
その顔に見覚えがあった。
東京の太尉である高俅(こうきゅう)の養子であった。
林冲の拳は行き場を失い、震えていた。
花花太歳(かかたいさい)の高衙内(こうがない)、そう呼ばれていた。女たらしの疫病神という意味だ。
子の無かった高俅は叔父の子を養子とした。それが高衙内だった。
高俅は彼を甘やかし、また高衙内も養父の権勢を笠に着て、やりたい放題だった。誰もが高俅を怖れており、火中の栗を進んで拾う者などいなかったのだ。
高衙内はますます増長し、ついには他人の妻にまで手を出すようになっていたのである。
禁軍教頭の林冲ではないか。この女は、こいつの女房だったのか。知っていれば手を出さずにいたものの、時すでに遅し。
だが林冲は自分を殴れなかった。高衙内はにやりと笑う。
心中、冷や汗をかきながらそれをおくびにも出さず、林冲に指を突き付けた。
「林冲ではないか。なんだその手は」
林冲は口を固く結び、睨みつけている。その目は獣のようだった。
「ちょっと声をかけていただけではないか。もういい、興ざめだ。行くぞ」
体の震えを何とか抑え込み、体面を保つ高衙内。そんな事だけは一流だった。
手下どもを連れ、その場を去る高衙内。林冲はその背中を睨んだままだ。
あなた、と妻が傍へ寄る。
「私は大丈夫です。気になさらぬよう」
「すまない」
気丈な妻だ。誇らしく思う。
その後、助太刀に駆けつけた魯智深をなだめ、嶽廟を後にした。
林冲はじっと拳を見る。
殴ろうとした。
殴りたかった。だが殴れなかった。
負けた。青白い若造ひとりに、負けた。
高衙内の背後にある、権力というものに負けた。
「官を怖れず、ただ管を怖れる、か」
林冲は王進の事を思い出していた。
禁軍最強とも讃えられた王進も、高俅から逃れるため都を去った。
林冲はゆっくりと拳を開くと歩きだした。
妻が心配そうな顔で見つめている。
俺は妻を守ったのだ。そう言い聞かせるしかなかった。
今夜は飲もう。
我を忘れるくらい飲もうと、林冲は決めた。