108 outlaws
処刑
三
全身に冷や汗をかきながら、蔡得章が部屋で震えていた。
横には同じように震える黄文炳もいた。
「なんなのだ、あの黒い牛のような男は。処刑が滅茶苦茶になってしまったではないか。しかも危うくあの男に」
と、蔡得章は思い出したようにもう一度ぶるっと震えると手巾で汗を拭った。
「確か、黒旋風と呼ばれる李逵とか言う男ですな。処刑される予定だった戴宗の部下だったと思います」
「何だと、あの男が牢役人だったというのか」
「恐るべきは宋江でございます。処刑場にあれほどの賊どもを乱入させるとは。奴らはおそらく梁山泊の連中、蔡得章さまの機転が無ければあやうくこの江州が乗っ取られていた事でしょう。ぜひ兵を増やし、警備を強化して、しばらくは城門もお開けなさらぬよう」
「うむ。まあ宋江の謀反を最小限に抑える事ができたのもお前のおかげだな。この件は父上に連絡を入れておく。黄(こう)よ、お前は無為軍に戻っておるが良い。落ち着き次第、良い報告が届く事であろう」
「ははあ、もったいないお言葉」
体を地面に投げ出す勢いで平伏した黄文炳。だがその顔には歪んだ笑みが貼りついており、謙遜など欠片も見る事ができなかった。
好漢は好漢を知る。
晁蓋を筆頭とする梁山泊の面々と李俊、穆弘を筆頭とする潯陽江の面々はすぐに意気投合し、杯を合わせていた。
迫り来る槍部隊の指揮官を花栄の矢が倒し、その勢いで彼らは江州まで駆けた。しかし城門はぴたりと閉めきられてしまったのだ。
戴宗が、城門を打ち破ろうとする李逵を止め、一同は引き上げた。白竜神廟で様子を見ていたが、何日たっても門が開け放たれる様子がなかった。
このままここにいても埒(らち)が明かない、と彼らは穆太公の屋敷へと来ていたのだ。
牛をまるまる一頭と豚や羊、鶏などを使った珍しい料理が振る舞われ、一同は舌鼓を打った。
梁山泊の麓で居酒屋を営む朱貴などは、同業の李立にひとつひとつ調理法を聞いているようだった。そのうち面倒になったのか李立は穆家の料理人にその役を無理やり引き継がせてしまったようだが。
ここでも話題になるのはやはり李逵だった。
劉唐が改めて言った。
「しかし我々が刑場を突破し、白竜神廟で穆弘どのたちに会えたというのも、この李逵が斬り進んでくれたからこそだな」
「おいらはただ人がたくさんいる所をめがけて行っただけさ。そしたらこの連中が呼んでもいないのに来ただけさ」
指を油で光らせて腿肉にかぶりつきながら言う李逵に、一同はどっと笑った。
大した男だ、と晁蓋が顔をほころばせた。
宋江が、すと立ち上がり拱手をした。場が静かになり、宋江の言葉を待つ。
「晁蓋の兄貴、李俊、穆弘どのをはじめとする皆さまの尽力のおかげで、不肖わたしの命も永らえる事ができました」
宋江は続ける。
「元はと言えば、わたしが酔って書いてしまった詩が原因。戴(たい)院長や李逵まで巻き込んでしまい申し訳ない気持ちです。他に言葉が見つかりませんが、皆さま本当にありがとうございます」
言い終え、深々と頭を下げた。
「誰もそんな恩着せがましい事を思っちゃいないさ、宋江。そんなお前だからこそ、みんなが動いたのさ」
花栄の言葉に、そうだそうだと声があがった。
宋江はにっこりと微笑むと、ありがとうと小さくつぶやいた。
「そもそもは蔡得章に取り入ろうとする黄文炳という男が、謀反の詩だと言いがかりをつけたのだ」
あの蜂野郎め、と珍しく戴宗が声を荒げた。
李俊も黄文炳の話をした。元は通判で、強い者の腰巾着をしては権力と金をむさぼるいわゆる奸臣だというのだ。今回の件も黄文炳が返り咲こうとした結果なのだろう、という結論に達した。
晁蓋が顎をさすりながら言う。
「ここら一帯は防備も固められている。一旦、梁山泊へ引き上げ、こちらも大軍を率いて仕返しをした方が良いのではないか。今度は軍師どのや公孫勝、林冲も連れてくれば必ず勝てよう」
「しかし晁蓋どの、また打って出るには江州は遠すぎるし、次はもっと軍備も強化されているだろう。戦いには勢いに乗ることも必要だ」
言った燕順は持っていた酒を一気に飲み干すと、宋江に向きなおった。
「この件の一番の被害者はあんただ。宋江どの、どうしますか」
二十七人の目が一斉に宋江に向いた。李逵だけが関係ないとばかりにひたすら羊の肉にかぶりついていた。
宋江は一人一人の目を確かめるように見ていった。
晁蓋、花栄と目が合ってゆく。
全員と目が合い、やがて宋江が絞り出すように言った。
「すぐに、黄文炳に報いを」
宋江は目を閉じ、鼻から息を深くゆっくりと吐きだした。
目を開けると、李俊と目が合った。
李俊がにやりと微笑んでいた。
少しだけ、宋江は心が軽くなった気がした。
人を陥れてばかりいると、いつか自分の身に災いが降りかかるぞ。
黄文燁(こうぶんよう)は弟の黄文炳にそう言っていたのだが、一向に聞く耳を持つことはなかった。
先日も謀反の詩を書いた宋某(なにがし)とかいう男を死罪にしてやると息巻いていたが、聞けばその男、及時雨と呼ばれる義士ではないか。
黄文燁は誠意を持って、そんな事はやめろと忠告したのだが、やはり聞き入れられはしなかった。さらには牢役人の戴院長にまで罪を着せる始末。
陰で黄蜂刺と渾名されていようと、血を分けた弟だ。黄文燁は蔡得章とも話をしようと江州に何度も赴いたのだが、ついにそれは叶わなかった。
しかし及時雨と戴院長は処刑を免れたという。処刑当日に梁山泊の一群が乱入して、暴れまわった挙句に彼らをさらっていったのだ。蔡知府も弟も危ない所だったと聞いた。
言った通りではないか。戻ってきたら今度こそ、充分に釘を刺さねば。
そう考えながら無為軍の通りを歩いていた黄文燁は、人だかりができているのに気付いた。
興味を引かれ覗き込むと、そこには槍棒を舞わせる薬売りがいた。時に豪快な唸りを上げ、時に精緻な技で観衆を魅了する。最後に棒を置くと、薬売りが拳を握り、構えた。風を切って舞う拳に黄文燁は目を見張った。そこにまるで虎がいるように感じたからだ。
一連の演武を終え、薬売りが拱手をする。
黄文燁は我先に喝采を送り、薬売りの元へと駆け寄った。
「いやあ、素晴らしいものを拝見いたしました。名のある方とお見受けしましたが」
「いえ武門の出ですが、いまは落ちぶれ、しがない薬売りをやっております」
「いえいえご謙遜めさるな。世の中にはやむなく埋もれている人物もいらっしゃる。ぜひ拙宅でお話を聞かせていただけないでしょうか」
「ありがとうございます。それではお邪魔させていただきます」
薬売りの薛永はそう言うと荷物をまとめた。
簡素な家だった。
黄仏子(こうぶつし)と呼ばれる黄文燁は噂に違わず清貧な男のようだ。
薛永は黄文燁と酒を酌み交わし、各地の珍しい話を聞かせた。
黄文燁は感心し、相槌を打ち、また笑いながら実に楽しそうだった。
特に山東や河北の話に関心を示し、景陽岡で素手で大虎を退治した男の話などは身を乗り出し手に汗握って聞いていたようだ。
また薛永が賊に襲われ何とか危機を脱した話に及び、黄文燁は顔を曇らせた。
梁山泊のある山東をはじめ河北にも賊たちが集まり出し、反乱の兆しがある。この江南にも不穏な動きがあり、反乱の火種が燻っているのだ、と黄文燁は心配そうに言った。
先日の江州での刑場荒らしがその発端にならなければ良いが。
黄文燁はそう呟いて杯を空けた。
薛永は何も知らない風を装い、同じく杯を空けた。
そこへ小間使いが現れ、黄文燁に来客だと告げた。
しばらく待たされた薛永の元へ、黄文燁はその客を伴ってきた。
その客は薛永の顔を見るなり、あっと声を上げ、抱えていた反物を落としてしまった。
「おや、この方と知りあいなのかね、侯健(こうけん)どの」
黄文燁が驚いたように尋ねた。
薛永は思わず顔をほころばせていた。
江州へ来たのは、本当はこの男に会うためでもあったのだ。
侯健は顔を輝かせて笑っていた。
「はい、この薛永どのは、私の武芸の師匠なのです」
「なんと、それは素晴らしい。なんという奇縁があったものだ」
黄文燁は嬉しそうに、侯健の分の酒を用意するように言いつけた。
侯健も嬉しそうに微笑むと、落した反物を拾い上げた。
袖から伸びるそれは、手長猿のように長い腕だった。
まったく趣味が悪い。
布に飾りを縫いつけながら、侯健がぶつぶつと独り言を垂れていた。
通臂猿(つうひえん)すなわち手長猿と渾名されるような、体躯には不釣り合いな長い腕と指を器用に使って、縫い上げてゆく。
やがて仕立て上がった服を両手で広げ、仔細に眺める。裏返し、縫い目の一つ一つを確かめる。
ため息をつく侯健。
何でもかんでもごてごてと飾り立てればよいのではない。成金趣味のお手本のようなものだ。
口ではそう言いながらも、実に早く実に見事な、悪趣味かどうかは別として、衣服を完成させていた。
さて、と長い両手を天に上げ、背を伸ばす。
服を丁寧に畳み、箱に入れる。そして先にできていたもう一つの箱に重ねると、侯健は外へと向かった。
近々出世の栄誉に預かるのだ、と息を巻いていた黄文炳に依頼されていた衣服であった。金に糸目はつけぬ、その代わりせいぜい豪華な装飾を頼む、と言われたのだ。
侯健は内心では眉をしかめたが、顔では笑みを浮かべて快諾したふりをした。断る訳にはいかない。収入の多くを黄文炳に頼っているのだから。
金に糸目はつけない、黄文炳はそう言った。ならば、と侯健は余分に反物を仕入れ、それで黄文燁の分も作ることにした。彼には、精神的な意味でも日頃から世話になっているのだ。せめてものお返しという訳だ。
肝心の黄文炳はまだ江州から戻っておらず、侯健は先に黄文燁に会いに行くことにした。そしてそこでかつての師である薛永との再会を果たしたのだった。
「江州に行ったのだが、ここで仕事をしていると聞いてな」
「お元気でしたか、お師匠さま」
薛永も探していたのだ。
宋江のために、この侯健という弟子を探していたのだ。
昔、洪都を訪れた際に、弟子にしてくれと言ってきた。仕立屋をやっているが武芸にも興味があるのだ、と何度も頭を下げられた。
根負けした薛永は侯健に棒を教え始めた。侯健も懸命に取り組み、いつしかその長い腕を器用に使いこなし、薛永を唸らせるまでになったのだ。
薛永は目的が達せられた事と、弟子との久方ぶりの再会に自然と笑顔になっていた。