108 outlaws
処刑
四
風の静かな涼しい夜だった。
側を流れる潯陽江に映った月がゆらゆらと揺れていた。
その月を切り裂くように舟が通って行った。
大小七艘ほどだろうか、船団は岸に近づくと静かに葦の茂みに隠れた。
そこへ一艘の舟が近づいてきた。
乗っているのは人相の悪い男だった。月の光で見えたその顔は童猛だった。
童猛が身振りで合図をすると、舟から次々と武装した者どもが下りてくる。梁山泊の兵たちだった。彼らはめいめい砂袋や葦の粗朶(そだ)を抱え、無為軍の城壁へと歩いてゆく。
静かな河畔に彼らの土を踏みしめる音だけが聞こえていた。
やがて城壁へと到着した彼らの後から晁蓋たちが現れた。
月明かりの下、どの顔も静かな怒りを滲ませていた。
李逵が吠えそうになるのを、戴宗がすんでの所で抑え、宋江が一歩城壁へと近づいた。
二更を告げる時太鼓が城内から聞こえる。早い者ならばもう寝ている時刻だ。
宋江が抱えていた籠の蓋を開けた。籠から飛び出したのは鳩だった。
その白鳩には鈴が付けられており、羽音と共に鈴の音が響いた。
鳩は上空を旋回すると、どこかへと飛んで行ってしまった。
少しの後、見上げている宋江たちの目に白い旗が飛び込んできた。城壁の上から差し出された竹竿の先に、白旗が下げられていたのだ。
晁蓋の合図で、梁山泊の兵たちが砂袋を積み上げてゆく。百近い袋はあっという間に城壁の上まで届くほどに積み上げられた。
宋江らはそれを上り、無為軍の城壁へと達した。
「お待ちしてましたぜ」
竹竿の下で白勝が待っていた。大きな前歯をのぞかせ、にやりと笑った。城門が閉まる前に忍び込んでいたのだ。
白勝の案内で、黄文炳の屋敷へと向かった。
黄文炳の屋敷前で薛永と侯健と落ち合った。黄文炳宅に住み込みで働いている侯健は無為軍および邸宅内に詳しい。彼が協力してくれたからこそ、この計画も実行できたようなものだ。
聞けば彼も黄文炳の横暴さを嫌悪しており、己の腕を認めてくれない狭量さに辟易していたというのだ。
かつて作り上げた服を目の前で、気に入らないという理由で引き裂かれた事があった。侯健は怒りで我を失い、飛びかかろうとしたが他の家人に取り押さえられた。生活のためだと割り切って今ではおとなしくしているのだが、その時の恨みはいまだ腹の底に溜まっているのだという。
晁蓋や宋江には分らない事だったが、およそ職人というものは自分の作品を子供のように思っているものだという。してみれば侯健にとっては目の前で子を引き裂かれたような思いだったのだろう。
梁山泊へ連れて行ってほしい。侯健の要望は頭領である晁蓋が確約した。何よりも確かな約定であった。
その侯健が裏木戸を開け、菜園へと晁蓋らを導いた。薛永らが手下が運んだ葦の粗朶を使い、屋敷のあちこちに火をつけて回る。それを受け、侯健が黄文炳の屋敷の門を叩き、叫んだ。
「大変です、隣が火事です。旦那さまにお知らせに来ました。早く門を開けてください」
何事かと家人たちが駆けてきて門を開けた。だが火事かどうかを確かめる前に、彼らは晁蓋らに一刀のもとに切り捨てられてしまった。
晁蓋の号令で配下たちが屋敷に突入する。そして黄文炳の一族を次々と斬ってゆく。
「晁蓋どの、やり過ぎだ。黄文炳だけを討てば良いではないか」
叫ぶ宋江を、返り血を浴びた晁蓋の目が睨んだ。
「甘いぞ宋江よ。恨みを晴らすならば一族もろとも絶やさねば、後(のち)に災いの種を残す事になるのだ。慈悲で逃した子がやがて己の命を奪いに来ることにもなりかねんのだ。世の中が綺麗事ですむのならば、わしもお前もこうして山賊になるような事もなかったろう」
「分かる。分かるが、しかし」
晁蓋は刀の血を振い落し、背を向けた。
「お前が決めた事なのだ、この復讐は。覚悟を決めるのだ」
宋江の肌が粟立った。晁蓋の背が大きく見えた。
これが千人からを束ねる、梁山泊の頭領である晁蓋なのだ。
宋江は、ごくりと唾を飲み込んだ。
黄文炳の邸宅に火の手が上がった。
それを見た石勇と杜遷は暗がりから飛び出すと、短刀を抜き放ち城門警備の兵を切り捨てた。
「俺たちは梁山泊のものだ。ここへは黄蜂刺こと黄文炳に恨みを晴らしに来たのだ。お前らにはかかわりのない事だ、巻き添えを喰らいたくなくば家に隠れていろ」
火消しに向かおうとする人々に杜遷が大声で叫んだ。
さらにそこへ二丁の板斧を振り回しながら李逵が突っ込んでいくと、人々は悲鳴を上げながら逃げ去ってしまった。
李逵がそのまま駆けてゆき、城門の鉄鎖を叩き斬った。
石勇と杜遷は残りの警備兵を倒すと、城門を開け放った。待ち構えていた手下たちが一斉に無為軍へとなだれ込んだ。
裏町の方でも警備兵が火消しに向かっていた。
突然、先頭を走る兵の胸に矢が突き立った。
「死にたい奴は、火を消しに来い」
炎を背に、花栄が弓を構えていた。
兵たちは喚(おめ)きながら逃げるしかなかった。
「ずいぶん派手にやったな」
阮小五が花栄の元へと駆けてきた。花栄がにやりと笑った。
黄文炳の屋敷が火に包まれている。
手下たちが無為軍の外へと家財を運び、合流した張横や童威、童猛の舟へと積み込んでゆく。
黄文炳の屋敷が崩れ始めた。晁蓋が一同に退却を命じた。
「あいつは捕まえたのかい」
阮小七が目を輝かせながら聞いてきた。
薛永は無言で首を横に振った。
宋江が複雑な表情でその横を駆けていた。
夏の世の静寂を破り、業火が燃え盛っていた。人々は梁山泊を怖れ、炎を消す事もできず家に隠れているしかなかった。
だが、その炎を見つめている者がいた。
口を真一文字に結び、じっと屋敷の側に立ち尽くしている。
「そこにいては危ない。家に隠れていてください」
侯健がその男に向かって叫んだ。黄文炳の兄、黄仏子と呼ばれる黄文燁だった。
黄文燁はゆっくりと振り返ると侯健を見とめた。
「いつかこうなるとは思っていたよ」
黄文燁は穏やかな口調でそう言った。
侯健は黄文炳に恨みはあったが、黄文燁には本当に世話になっていた。梁山泊の面々を無為軍に導いた事は、その彼に対して裏切りのような行為だった。
侯健は返す言葉が見つからず、黄文燁を見つめるしかなかった。
「行きなさい。お前にはお前の思うところがあるのだろう。だがせっかくのその腕、錆びつかせないでおくれ」
「ありがとうございます、黄文燁さま。お世話になりました」
侯健は頭を下げ、退却する一行の後に続いた。
いつまでも黄文燁の言葉が耳から離れなかった。
黄文燁はその後、炎が消えるまでずっとそこに居続けたという。
無為軍から上がる火の手が、潯陽江を赤々と照らしていた。
「急げ、急ぐのだ」
官船に乗った黄文炳が漕ぎ手を必死に急かしていた。
屋敷に火がつけられた時、黄文炳は江州の役所にいた。蔡得章との会議の最中であったのだ。
無為軍で大火だという報告を受け、蔡得章は急いで舟を用意させると黄文炳を送らせた。
火の手は北門のあたりだという。屋敷がある辺りではないか。まさか屋敷が燃えているのか。
黄文炳の頭には家族のことよりも、貯め込んだ財宝の事が浮かんでいた。
叛徒宋江と戴宗を捕え、将来の栄達の道が見えていた。しかしあろう事か梁山泊の賊どもが処刑場に乱入し、彼らを救い出してしまった。しかし蔡得章を言い含め、己の責任を回避したばかりか手柄にしてみせた。そうやってこれまで必死に貯めてきた財産だ。失ってたまるものか。
黄文炳は唾を飛ばし、さらに漕ぎ手を急かした。
無為軍の方から舟が二艘、こちらに向かってくるのを漕ぎ手が見つけた。火事から逃げて来たのだろうか。
そのうちの一艘が官船にまっすぐ向かってくる。
「おい、危ない。そこをどけ」
漕ぎ手の言葉が聞こえないのか、舟は舳先をこちらへ向けたままだ。
「江州へ注進に行くのだ。そっちこそ道を開けてくれ」
船上の大男が叫んだ。黄文炳が男に火事の様子を尋ねた。
「火元は黄通判の屋敷だ。いま梁山泊の連中が一族を皆殺しにして、家財一切を奪って逃げてゆくところだ」
何だと、と黄文炳が立ち上がった。
すると大男が手にした鈎棒を官船に引っ掛け、飛び移って来た。
漕ぎ手や配下たちは何事が起きたのか、動く事ができずにいたが黄文炳は違った。
己の得になる事に関して勘が働く分、危機に対してもそれは充分すぎるほどに働くのだ。だからこそこの歳になるまで、黄蜂刺と呼ばれながらも生き延びてきたのだ。
黄文炳は船尾へと逃げると、上着を脱ぎ捨て迷わず川の中へと飛び込んだ。
しかしそれと同時に川に誰かが飛び込む音がもうひとつ聞こえた。大男の乗っていたのとは別の舟からであった。
漕ぎ手は見ていた。白い大きな魚のような影が、あっという間に黄文炳の元にたどり着いたのだ。そしてその白い影に掴まれた黄文炳が、官船へと引きずりあげられたのだ。
ずぶ濡れの黄文炳は喘ぎながら、大男に縛りあげられてしまった。
「ふふ、お前がいて助かったよ、張順」
「いえいえ、見事な手際で、李俊の旦那」
まるで水中で立っているかのような張順が、軽く官船へと跳躍してきた。水などそこには無いかのような動きだった。
漕ぎ手たちは黄文炳が捕まった事よりも、張順がどんな泳ぎ方をしているかの方が気になっていたが、我に返ると一斉におののき出した。
李俊が手を上げてそれを静める。
「お前たちに危害は加えない。こいつさえ捕らえられれば良いのだ」
ずい、と李俊が漕ぎ手たちに顔を近づけ、凶悪そうな笑みを浮かべた。
「蔡得章に伝えておけ。貴様の首は預けておくが、いずれ頂戴に来るってな」
ひい、と一同は悲鳴を上げ、震えてひれ伏した。
頼んだぜ、張順がそう言って黄文炳を自分たちの舟へと移した。
漕ぎ手たちが顔を上げた時には、すでに二艘の船はいなくなっていた。
命を拾った事に安堵し、ほっと胸をなでおろす一同。
無為軍に見える火勢が衰えてきたようだ。
黄文炳の屋敷が燃え尽きたのだろうか。
柳の木に、黄文炳は縛り付けられていた。
穆家の屋敷にある大きな柳の木だった。
そこを中心に晁蓋、宋江をはじめとする三十人近い頭目たちが黄文炳をぐるりと取り囲んでいた。
「ふふふ、宋江よ。お前の詩を曲解して反詩にまでしたのは確かにわしだ。しかしそう思わせる何かが、言葉の端々に認められた。だからこそできたのだ。はからずも知府の前で、お前はそれを吐露してしまったのだがな」
縛られたままの黄文炳はなおも続ける。
「さらにこうして本当に梁山泊の連中まで呼び寄せてしまった。わしが言った事はあながち嘘ではなかったと、これで証明された。やはりお前は国に背く叛徒だったのだ。殺すが良い、とっとと殺すが良い逆賊どもめ」
晁蓋が一歩前に出た。
「なるほど、金と権力に溺れたただの老いぼれではなかったか。このような気概も意外と持ち合わせていようとは」
「ふん、賊に褒められても嬉しくなどないわ」
黄文炳は唾を地面に吐き捨てた。
「よし、おいらがこいつを引き裂いてやる」
李逵が子供のように笑いながら近づいてきた。手には匕首(あいくち)を持っている。
す、と何者かが李逵の手から匕首を奪った。
宋江の兄貴、と李逵が驚いていた。
匕首を握り、奥歯を噛みしめ、黄文炳に向かう。
国と戦をしている。晁蓋はそう考えていると聞いたが、宋江は違った。
国を倒すのではなく、国を害するものを取り除く。そうする事で国を、民を救えるかもしれない。詩を書き綴った時、蔡得章の前で啖呵を切った時、深く心にそれが刻み込まれたのだ。
梁山泊。
それが答えのひとつなのかもしれない。
宋江は思う。ならば叛徒にでも逆賊にでもなろう。
周りに流され優柔不断だった宋江は死んだ。ここ江州で死んだのだ。
これはその訣別の証なのだ。
宋江は手にした匕首を深々と黄文炳の太腿に突き立てた。
噴き上がった血が頬を濡らした。
庭に黄文炳の悲鳴が響き渡った。
脂汗をかき、歯を食いしばりながら絞り出すように言う。
「そ、宋江よ、梁山泊の者どもよ。お前ら、ごときにこの国が、変えられるものか。お前ら、は、知らんのだ。この国の、闇の深さ、を」
宋江は匕首を抜くと今度は胸に突き立てた。
「良いだろう。貴様の血肉を喰らい、鬼となっても成し遂げてみせよう。あの世で見ているがよい」
宋江はゆっくりと肉を抉(えぐ)ると、それを口に入れた。
奥歯で噛むと、血の味が口中に広がった。
これが民の苦しみの味なのだ。
そう言い聞かせて、宋江は何度も何度もそれを噛みしめた。
皆が宋江に倣い、黄文炳の肉を喰らった。
続いていた絶叫が途切れ途切れになり、そしていつしか聞こえなくなった。
いつの間にか花栄が肩に手を置いていた。
何も言わず、ただしっかりと肩を掴み続けてくれていた。
宋江の目からは大筋の涙が流れていた。
穆太公の屋敷に火が放たれた。
穆弘と穆春の兄弟だけではなく、穆太公までもが梁山泊へと向かう事になった。
「俺があんたを焚きつけたようなもんだからな、最後まで付き合う事にするさ。その方が面白そうだ」
李俊がまるで引っ越しでもするような気軽さでそう言って笑った。童威、童猛そして李立も、李俊について行くだけだ、と言っていた。
張順と李逵が何やら笑いあっている。一度は拳を交えた相手だ、お互いを認め合うところがあるのだろう。それを見ながら、張横と戴宗が話をしていた。
江州を敵に回してしまった事で、さらに梁山泊への攻撃は激しさを増す事だろう。晁蓋の言葉ではないが、まさに国との戦の様相を呈してきたようだ。
「軍師どのに良い土産ができたな」
などと晁蓋は、江州の好漢たちを見て豪快に笑っていた。
それを見て宋江は鼻から深く息を吐いた。
「どうした、あの時のお前はどこへ行ったのだ」
花栄が馬を寄せて来て、そう笑った。
「そうだな」
と苦笑し、宋江は空を見上げた。
呼保義(こほうぎ)、それで充分だった。
小役人である保義郎と呼ばれるだけでも、胥吏であった宋江は充分であった。
それがいつしか及時雨などという大層な渾名になっていった。
それは一人歩きし、及時雨の持つ意味が大きくなっていった。
人々は及時雨である宋江を求めた。いくら宋江が望むまいと、すでにそれは消す事ができないものになっていたのだ。
宋江はそれが重かった。
及時雨に、本物の及時雨になれ、と李俊が言った。
そうなろうと決めた。
こんなちっぽけな自分に何ができるのか。これまではそう考えていた。
自分がやるのだ。
江州で死ぬはずが、一命を取りとめた。生まれ変わったのだ。そう思い定めた。
「ありがとう、花栄」
宋江はにっこりと微笑むと馬腹を蹴った。
これからは梁山泊の宋江だ。
駆けたかった。
しかし乗りなれていない宋江は馬から転げ落ちてしまった。
そこに黒く太い腕が伸びてきて、引っ張り上げるようにして宋江を助け起こした。
「宋江の兄貴、このおいらがいるのに馬になんか乗るからですぜ」
真剣にそう言っている李逵の顔を見て、すまないすまないと宋江は笑った。
目の端に涙が浮かんでいたようだった。