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戦友

 笛の音(ね)が聞こえてきた。

 夜営の準備をしていた梁山泊一行に緊張が走った。

 掲陽鎮から陸路で三日ほど北へ進んだ黄州(こうしゅう)は黄門山(こうもんざん)付近での事である。

 どこから聞こえてくるのか、笛の音は鳴りやむ事はなかった。はじめは警戒していた梁山泊軍だったが、その音色に次第に聴き入るようになってしまった。

 夜空に浮かぶ月を背景に、時に悲しく時に激しく響くその音色は、心の奥から何かをこみ上げさせるものがあるようだった。

 開戦の合図の角笛のような鉄笛の音。

 しかし梁山泊軍の誰もが、その鉄笛の音に聴き入っていた。

 

 数年前の同じような月の夜。

 同じ笛の音が建康の街に朗々と響きわたっていた。

 とある料理屋の二階。その欄干に腰かけるようにして男が鉄製の笛を奏でていた。

 他の客はおろか給仕たちも、外を歩く者たちも足を止め、その笛の音にうっとりと聴き入っていた。空に浮かぶ月や雲さえも耳を澄まし、音を立てるのを憚(はばか)っているのではないかというほど、笛の音だけがただ聞こえていた。

 しかし、ふいに男の口から笛が離れた。

「おい、あれは何だ」

「どうしたんです、馬麟(ばりん)の兄貴」

 我に返った手下が馬麟の横へ行き、外を見た。馬麟の笛が示す先、遠くの屋根の方に何かがいる。

「あれは、人ですかい」

「やっぱり、そう見えるよな」

 目を凝らす二人の前で、その人影が動いた。屋根を飛び移るようにしてどこかへと駆けてゆく。

 馬麟は急いで店を出ると、その影の方へと駆けた。手下も必死に後をついてくる。

「兄貴、あれは、あいつは、まさか」

「そうだ、間違いねぇ。あいつが摩雲金翅(まうんきんし)だ」

 馬麟は手にした鉄笛を強く握りしめていた。

 摩雲金翅。雲に届くほど飛びまわる金の羽の怪鳥という渾名を持つ謎の男が、近ごろ建康の街を騒がしていた。

 現れるのは決まって夜。

 しかし人を殺すとか、火をつけるとか物騒な事はしていない。そこそこ金持ちの家から少しの金を拝借する程度であったのだ。

 多くの民衆にとっては、自分たちに被害があるわけではなく、摩雲金翅は義賊だと褒めそやしだす始末。

 馬麟は今は地回りの同心だったが、かつては遊び人でもあった。被害にあっている顔役や金持ちたちにの中には、その頃世話になった者が多くおり、馬麟としても無視する事は出来ないのであった。

「兄貴、待ってくだせぇよ」

「あいつに逃げられちまうだろ。急ぐんだ」

 そうは言っても馬麟たちがいた料理屋から摩雲金翅がいたと思われる場所までは相当の距離があった。すでに逃げられているのだろう。しかし何か手掛かりになる物でも残っていれば。

 あっ、と手下が空を指さした。

 まるで月に向かって羽ばたくように、摩雲金翅が悠々と城壁の外へと跳び下りる所だった。

 馬麟は歯嚙みをしてそれを見ている事しかできなかった。

 

 被害者は、やはりというか馬麟の知っている金持ちだった。

「何のためにお前に同心をやらせていると思っておるのだ。あの忌々しい摩雲金翅とやらを早々に捕えて来い。さもなくば」

 その先は聞くまでもなかった。

 馬麟は腕を組み、考えていた。眉間には深くしわが刻まれていた。

 摩雲金翅を捕えねばならない。都頭や捕り手役人たちよりも先に、だ。

「さもなくば、か」

 馬麟はうっそりと目を開け、鉄笛を腰の袋にしまうと外へと出た。

 今夜は出るのだろうか。かけられる声にも気もそぞろな様子の馬麟。

 ふと見ると、背に大荷物を担いだ男が前を歩いていた。

「やあ、三郎(さぶろう)さん。こんな昼間っからどこへ行くんですかい」

 振り向いた、三郎と呼ばれた男はにっこりと笑った。

 実に爽やかな笑顔だった。

「やあ馬麟の旦那。いや、親父の喪が明けたものだから、ここを出ようと思ってね」

「そうかい、肉屋を続ける気はないのかい。良い肉屋だって評判なんだぜ」

「うん、それも考えたんだが、叔父さんに声を掛けられてね。丁度人手がなくて困っているらしいんだ」

「そうか、あんたらしいな。まあ気をつけてくれよ、達者でな」

 ありがとうと、三郎は頭を下げ背を向けたが、数歩進んだところで思い出したように振り返った。

「馬麟の旦那こそ、気をつけてくださいよ。近頃、噂の摩雲金翅。何でも恐ろしく腕も立つらしいじゃないか。命あっての物種ですよ」

 では達者で、と通りを歩いてゆく三郎。

 馬麟は、お前に言われたかねぇよ命知らずの𢬵命三郎(へんめいさんろう)、と言いながら苦笑していた。

 

 さしたる手掛かりもなく、また夜が来た。

 馬麟は手下を連れ、夜の通りを見回っていた。目を皿のようにし、暗がりや路地裏など徹底的に見て回った。

 しかし、屋根の上での物音に、すわ摩雲金翅かと思ったら野良猫だったりと、その夜はただいたずらに過ぎてしまった。

 手下と別れ、家へ戻ると馬麟は床に入った。奴が現れるのは決まって夜だ。今日は来なかったが、次は来るかもしれない。そう考えを巡らせていた馬麟だったが、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

 次の夜も、その次の夜も摩雲金翅は現れなかった。

 どういう事だ。

「あっし達を恐れて逃げちまったんじゃねぇですかい。あ、特に馬麟の旦那を恐れてですが」

「ならば良いのだがな」

 そう言った馬麟だったが、何故かそうは思えなかった。

 しかし手下の言葉通りなのか、半月余り摩雲金翅の姿を見る事はなかった。

 ここへきて馬麟もひと息入れる余裕が出たようだ。なじみの料理屋へ行き、いつもの部屋へと上がった。

 しばらく吹いてなかった。鉄笛を取り出すと、馬麟はゆっくりと口にそれをあてた。

 店の者たちも久しぶりにその音色に聴き入っていた。

 馬麟も興に乗って来た。やがて佳境に入ろうとした時だった。

「兄貴」

 手下が叫んだ。

 料理屋の向かいの屋根。そこに男が立っていた。

 見紛う事なき、それは摩雲金翅の姿であった。

 

 月明かりの下(もと)、じっとこちらを見ていた。

 手下や店の者たちが騒いでいたが、摩雲金翅はただじっとこちらを見ているだけだった。

 鋭い目つきだった。なるほど猛禽類のそれにどことなく似ているようだった。摩雲金翅とは上手く言ったものだ。

「そこを動くなよ、摩雲金翅」

 馬麟はそう吐き捨てると急いで外へ走った。

 動くなと言われて待つ訳もなく、摩雲金翅はすでに屋根を飛び移っていた。

「ふざけやがって」

 馬麟は近くにあった梯子を壁に立て掛けると自分も屋根へと上った。

 摩雲金翅がこちらを見て立っていた。まるで待っていたかのように佇んでいた。

「ふざけやがって」

 もう一度同じ悪態をつくと、馬麟は屋根の上を駆けた。

 屋根の上とはこれほど足場が悪いものなのか。何度も足を滑らせ、転げ落ちそうになりながらも必死に馬麟は駆けた。

 摩雲金翅は時々立ち止まり、こちらを確認しながら少しずつ飛び移っているようだった。

 まるで鹿が子に走り方を教えているようではないか。いや鷹が雛鳥に飛び方を教えているのか。 どっちでも良い。馬麟は駆けるだけだった。

 もともと身体能力は高い馬麟だった。次第に足元が安定し、摩雲金翅が立ち止まる回数も減った。

 しかしそこまでだった。

 前回と同じように摩雲金翅は悠々と羽ばたき、城外へと消えた。

 膝をついた馬麟は屋根瓦を殴りつけた。

「ふざけやがって」

 切れた拳と同じように、噛みしめた唇にも血が滲んでいた。

 

 笛を聞いていたようだった、と手下が言った。

 そんな馬鹿な、と馬麟は思った。

 しかし、と手下が言う。

「こないだの晩も、その前も旦那が笛を吹いた時に現れてるんですぜ。その前はわからねぇですが」

 確かにそうだったが、手下自身も言ったようにそれは偶然かもしれない。その二回以前はどうだったか知る由はないのだ。

 いや、待てよ。

 馬麟は手下を連れ、ある場所へと向かった。なじみの料理屋である。先日の晩と二回、奴に出くわした時ここで笛を吹いていたのだ。

 店の主人に頼み帳簿を確認してもらった。ここへ来れば、馬麟は笛を吹く。そして馬麟が来た日と、摩雲金翅が過去に現れた日を役所で照合するのだ。

 符合した。

 馬麟が笛を吹く夜に、確実に摩雲金翅が現れていたのだ。また笛を吹かない日は現れていないのだ。

 だが腑に落ちない。

 何故だ、何故なのだ。ただの偶然ではないのか。

 しかしこの記録は、それが事実である事を雄弁に物語っていた。

 まるで俺の笛が呼び寄せているようではないか。

 そんな馬鹿な。

 馬麟は手にした鉄笛をいつまでも睨みつけていた。

 

 それから毎晩、摩雲金翅は現れた。

 馬麟が毎夜、笛を吹いたのだ。

 摩雲金翅が逃げ、馬麟がそれを追う。だが、すんでの所で逃げられてしまう。

 そんな事が幾日も続いた。

 ここに到り、馬麟は明らかにおびき出すために笛を吹いている。だが摩雲金翅は律儀にも必ず姿を見せるのだ。

 何故なのか。馬麟は考えるのをやめた。

 自分はこいつを捕らえるだけだ。そう決めた。

「鉄笛仙の旦那も焼きが回っちまったなぁ」

 手下の言葉にも耳を傾けなかった。

 そして十日めの事だ。

 馬麟の振るった二本の銅刀の一つが、摩雲金翅の衣服を切った。かすかではあるが、やっと届いたのだ。

 摩雲金翅はくるりとこちらを向き、馬麟を凝視した。

「逃がさねぇぜ」

 じりじりと摩雲金翅に詰め寄る馬麟。そして爪先に力を入れた刹那。

「危ない」

 聞こえた時には何が起きたか分らなかった。

 宙に浮いたような感じがした。

 屋根が抜けたのだ。

 落ちる。

 そこへ誰かがこちらへ飛んできた。

 誰が。馬麟は考えたが、そこには摩雲金翅しかいるはずがなかった。

 摩雲金翅が馬麟に飛びつき、もろとも階下へと落ちていった。

 馬麟はなすすべがなかった。

 摩雲金翅は巧みに足を使い壁や柱を蹴り、速度を落とそうとしていた。

 だが二人分の落下速度をそれで変える事は難しかった。

 床に落ちる寸前、摩雲金翅はくるりと背を地に向けた。

 やめろ。

 馬麟は叫んだ。言葉になっていたかはわからない。

 その叫びをかき消すような轟音と共に二人は床を突き破り、地に落ちた。

 埃が収まったころ、ようやく馬麟の手が動いた。

 這うようにして起き上がり、壊れた柱で体を支えた。

 下になって落ちた摩雲金翅を見た。

「無事だったか」

 馬麟は驚いた。無事か、と聞きたいのはこっちの方だった。

「余計なことしやがって」

 ありがとう、というべき場面だった。しかし馬麟の口からは強がりしか出なかった。

「ふふ、確かに余計な事をしたな」

 地に寝たまま摩雲金翅が笑った。

 大した男だ。捕えられぬはずだ、と感じた。

 欧鵬(おうほう)。

 唐突に摩雲金翅は言った。欧鵬という名だというのだ。

 馬麟は複雑な顔をしていた。

「なんだ、嬉しくはないのか。俺を捕らえたのだぞ」

 嬉しくなど、なかった。

 摩雲金翅を、この欧鵬を捕えなくてはならなかった。

 しかし偶然だったのだ。

 屋根を踏み抜いた自分を身を挺して救ってくれるなど。

 嬉しかったのは、そこだった。

 やがて騒ぎを聞きつけた馬麟の手下が数人を連れてやって来た。

 まだ動けない欧鵬は簡単に縛(ばく)についた。

「さすがは馬麟の旦那ですね。あっしは分かってたんですよ」

 にやつく手下の頬を張り飛ばし、馬麟はふらふらと歩き出した。

 何するんですか旦那、と手下が喚いていた。力があれば、手下を銅刀で斬っていたかもしれない。

 摩雲金翅を捕えたら、祝いに一曲奏でようと思っていた。

 だがそんな気持ちは、とうに失せていた。

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