108 outlaws
戦友
二
建康を騒がせた摩雲金翅こと欧鵬、悪辣なる強盗の罪により極刑。
馬麟はこの判決を聞き、飛び起きた。まだ体が痛むがそんな事は問題ではなかった。
「悪辣な強盗って、たかが知れた金額じゃねぇか」
憤慨する馬麟をなだめるように手下が言った。
「旦那、物を取られたのは顔役たちですぜ。こそ泥一匹にやられたなんて、まさに面目丸つぶれです。だから死罪にでもしないと気が済まないんでしょう」
手下は、そんな事も分らねぇんですか、という風な顔をしていた。
くそ、と唾を吐く馬麟だったがどうする事もできなかった。
明後日ですよ、と手下は家を出ていった。
翌日、馬麟は痛む体に鞭打ち、笛を手に取った。
少しは良くなったが、まだ体中が痛む。汗をかき、何度か休みながらも馬麟は牢へと向かった。
夕刻少し前、馬麟はやっと牢へとたどり着いた。
牢役人は馬麟を気遣いながら、欧鵬の所へと案内してくれた。
馬麟は差し入れの包みを欧鵬に渡した。小さなかごに入った食料のようであった。
「悪党とはいえ、あんたには命を救われた。最後の飯ぐらい良いものを喰いな」
欧鵬は何も答えるでもなく、それを牢の隅へと置いた。
外へ出ると、すでに日が沈みかけていた。
馬麟は牢を向くと、持っていた笛を構えた。
「馬麟の旦那、何をする気ですかい」
「良いだろう。奴へのせめてもの手向(たむ)けだよ」
そう言って馬麟は朗々と鉄笛を吹き始めた。
夕闇差し迫る建康の街にそれは悲しくも、しかしどこか力強い響きを奏でていた。
鉄笛仙の笛を間近で聞ける事など滅多にあるものではない。
牢役人たちも目を閉じ、耳を傾けていた。
曲が終わり、馬麟が笛から口を離した。
「知ってるかい。摩雲金翅ってのは、俺の笛が奏でられる時に現れるんだぜ」
そうなのか、といぶかしむ牢役人たち。
馬麟はゆっくりと牢城の屋根を見上げると、にっこりと微笑んだ。
つられて振り向いた牢役人たちは見た。屋根の上に、先ほどまで牢に入っていたはずの、摩雲金翅が立っているのを。
「ほらな」
金の羽を持つ怪鳥が、羽ばたいた。
現れた欧鵬は手に鉄の槍を握っていた。
屋根から飛び降りた欧鵬は軽やかにそれを舞わせ、牢役人たちを倒した。
「馬鹿な真似を」
笑っている馬麟に欧鵬が言った。
「馬鹿な真似をしたのはどっちだい。あんたは俺の命を救った。捕らえられる覚悟でな。だから今度は俺が同じ事をした。それだけのことさ、違うかい」
違うな、と笑い欧鵬は馬麟を肩に抱えあげた。
「お前がしたのは、それ以上の事さ」
おい、と騒ぐ馬麟をがっしりと肩に担ぎ、欧鵬は通りを駆けた。
牢から追っ手が来るのが見えた。
欧鵬は道にあった荷車に馬麟を乗せると、それを引いて走った。
欧鵬が握る鉄の槍。それは馬麟が差し入れしたかごに入っていたのだ。
どこでどう手配したのやら、その槍はいくつかに分かれており、組みたてられるようになっていたのだ。
欧鵬は牢番の目を盗み、それを組みたてて抜け出す隙をじっと待っていた。
そこへ馬麟の笛の音が聞こえてきたのだ。
合図だと分かった。
欧鵬は牢の中でにやりと笑った。
味な事を。
欧鵬は鉄槍を振るい、牢を破壊した。
「まったく奇矯な男だな、お前という奴は」
「あんたに言われたかねぇや」
酒場で交わすような会話を、欧鵬と馬麟がしていた。捕まれば今度こそその場で殺されるという、そんな場面でもだ。
「おい、俺を置いてけよ、欧鵬。捕まっちまうぞ」
欧鵬は黙って駆け続ける。
欧鵬一人ならば簡単に逃げきれよう。しかしまともに戦えもしない馬麟を、荷車に乗せて走っているのだ。
欧鵬、と何度も呼びかけるが返事がない。
追っ手が増えてきた。
このままでは共倒れだ。
馬麟は上着を歯で切り裂くと、欧鵬に渡した。
「これをつけて、そのまま駆けてくれ」
うむ、と欧鵬は布切れを両の耳に押し込んだ。
荷車が再び動き出した。
「あんまり、やりたかねぇんだけどな。そうも言ってられねぇ」
馬麟は荷車の上で笛を構えた。
「こんな時に悠長なこって、旦那」
手下が追いながら吠えていた。
そうか、お前はそちら側か。
馬麟の指が笛をおさえた。普段見ないような、変わった指遣いだった。
そして鼻からすうっと息を吸い、それを一気に笛に送り込んだ。
脳天を突き刺されるような感覚だった。
大きな音ではない。あり得ないくらいの高い音だった。
そのあり得ない高音が捕り手たちの脳髄に突き刺さった。
彼らはみな頭を押さえ、地面をのたうちまわった。
欧鵬と馬麟を追う者はすでに無かった。
「ああ、ほらな」
馬麟は手の中の笛を見て、ため息をついた。
笛のあちこちに亀裂が入り、それは二度と使い物にはならなくなっていた。
馬麟の笛が聴きたかった。
あの夜、欧鵬が捕らえられた夜、地に倒れたままそう言った。
欧鵬は黄州の生まれだった。江州の北に位置する州だ。
欧鵬の家系は代々軍人を輩出しており、彼もその道を選んだ。欧鵬は恵まれた体格を活かし、見る間に頭角を現した。特に幼い頃から近くの黄門山を駆け回っていた事で培われた、高所でも足場の悪さをものともしない戦闘法は誰も真似できるものではなかった。
やがて潯陽江の守備隊に配属された頃、誰かがこう呼び出した。
摩雲金翅(まうんきんし)、と。
名にある鵬の字をもじったのだろう。欧鵬は悪い気はしなかった。
守備隊の長官は近隣の金持ちたちとつながっており、金の見返りのために守備隊を私事で動かす事が多々あった。
若く真面目だった欧鵬は、それが許せなかった。我らは誇り高き官兵である。山賊や江賊の手から潯陽江を守るのが我らの勤めではないか。
特に近ごろ闇塩を扱ういわゆる塩賊が跋扈しており、気を緩める事は出来ない状況でもあった。軍務よりも私腹を肥やす事に頭が回る上官を、欧鵬はいつも恨むような目で見ていた。
ある日のことである。
別の隊が塩賊を発見したが、すんでの所で取り逃がしたという連絡があった。噂に聞いていた最も厄介な塩賊であった。何でも兄弟で活動しており、二人とも相当の腕の持ち主で、さらに潯陽江の隅々にまで精通しているのだという。
欧鵬の隊は直接関わった事はなかったが、他の隊はいつも返り討ちの憂き目にあっていたのだという。それが今回、相手が油断していたのだろうか、兄弟の一人に深手を負わせる事ができた。しかし捕縛間際で、今度は守備隊も油断をした。その隙を突き、二人は何処かへと姿をくらませたのだ。
欧鵬の隊も捜索に参加する事になった。
ある村の捜索であった。上官の隊は先に村へ入り、欧鵬の隊は付近一帯を捜索してから合流した。
そこで欧鵬は信じ難い光景を目にした。
村のあちこちから火の手が上がっており、そこかしこに血に塗れた村人が倒れていた。女子供はもちろん赤子まで打ち捨てられていた。
「お前ら、何をしている」
欧鵬は叫んだ。
それが聞こえないかのように、兵たちは殺戮を繰り返している。
「おう、遅かったな。ここはあらかた片付いた。次へ向かうぞ」
現れた上官が手にした刀には血がこびりついていた。
睨みつける欧鵬に上官は言った。
「この村は奴らを、あの塩賊を匿った疑いがあったのだ。我らは任務を遂行したまでだ。ぼやぼやするな次へ行くぞ」
欧鵬は目を逸らさない。
歯を食いしばり、欧鵬は怒りを押さえつけているようだった。
「何か証拠があったのですか。その塩賊に関わる証拠が」
「何だ貴様、その目は。お前らはただ黙って俺の命令に従っておればよいのだ。昔から言うではないか、火のない所に」
だが、次の句は聞こえなかった。
上官の喉を、鉄の槍が貫いていた。
「疑いだけで、これほどの命を奪うのか。俺はそんな事をするために軍人になったのではない」
欧鵬は槍を素早く引き抜くと、今度は上官の心臓辺りを貫いた。鎧がまるで紙であったかのごとくあっさりと槍が背中から顔を出していた。
「欧鵬隊長、ここは我らが」
上官の隊が駆けつけようとしていた。
欧鵬の部下たち、信頼できる部下たちが自分を守ってくれようとしていた。
欧鵬は槍を捨て、村の外へ駆けた。
ふたつの穴をあけられた上官は、地に倒れ伏す前に息絶えていた。
潯陽江に沿って東へと流れた。
すぐに手配が回る恐れがあったが、守備軍であった欧鵬にとって彼らの配置や行動などは手の内である。その裏をかく事は簡単で、欧鵬は東へ東へと進んだ。
部下たちがどうなったか脳裏をよぎるが、欧鵬はすぐに考えるのをやめた。無事なはずがなかった。
激情に駆られ、上官を手にかけた。
それまで溜まっていたものが噴き出したのだ。その欧鵬の姿を見た部下たちも同じだったのかもしれない。
俺一人が逃げた、そして生き延びてしまった。
あの世で何と詫びればよいのだろうか。
寄る街ごとに盗みを働いた。喰うためである。
まさか軍人として培った身体能力がこのような事に活かされるとは。
上官と金持ちの黒い癒着を見過ぎていた欧鵬は、自然と標的を金持ちに見定めた。
こうして屋根を飛び駆ける強盗、摩雲金翅が生まれた。
逃亡してから数カ月、欧鵬はとある街へとたどり着いた。建康の街である。
ここでも欧鵬は同じように強盗をした。
ある夜、いつものように仕事をし、屋根を走っていた。
追っ手もいない。あとは城外へ飛び去るのみであった。
しかし、その寸前で欧鵬は足を止め、振り向いた。
闇夜の街から聞こえてくる笛の音。
胸中に何かこみ上げてくるものがあった。
それは微かにしか聞こえないが、確かに黄州の、故郷の曲のようであった。
美しかった。
故郷で聞いたどの笛の音よりも美しかった。
月を見上げ、目を閉じ、駆けまわった黄門山を思い出していた。
涙が止まらなかった。
やがて風に消え入るように笛の音が止み、欧鵬も城外へと消えた。
もう一度、笛を聞きに来よう。
欧鵬は微笑んでいた。
いったい微笑んだことなど、幾日ぶりの事だったろうか。
荷車に馬麟が乗せられていた。
建康の城門を抜けた、洞穴の中だった。
その側に欧鵬が立っていた。呆れたような顔をしていた。
馬麟は嬉しいような、困ったような複雑な表情だった。
笛を吹く時に摩雲金翅が現れる理由が判明したが、まさか本当に自分の演奏を聴いていたとは。
「欧鵬、この後どうするんだい」
暗がりに立つ欧鵬を馬麟が見つめた。
しばしの沈黙。
「後生だ。もう一度黄州の、故郷の曲を聞かせてはくれないだろうか」
欧鵬は絞り出すように言った。
そう言えば、黄州の曲はいつ以来だったがだいぶ吹いていなかった。それを聞きたいがために欧鵬は現れていたのだろうか。
「良いけど、でも吹きたくってもさっきので笛は壊れちまったんだぜ」
両手を広げる馬麟に、欧鵬が手を差し出した。
その手には鉄笛が握られていた。
驚いて欧鵬を見る馬麟。欧鵬は少し照れたように背を向けた。
「俺は自分では吹けんが、お前の笛が忘れられなくてな」
立派な笛だった。馬麟も楽器屋に並んであるのを見た事があった。質は良いが、そこそこ高価で馬麟は諦めていた記憶があった。
「さすがは摩雲金翅って事かい」
思わず馬麟が笑っていた。欧鵬も静かに微笑んでいた。
馬麟はゆっくりと確かめるように笛を構えた。
ひと節奏でてみた。
清涼でいて、なお重厚な音だった。
そのまま目を閉じ、欧鵬の故郷、黄州に伝わる曲を奏でる。
欧鵬は立ち尽くしたまま目を閉じていた。
時折、頬に涙が伝っていた。
欧鵬の心には懐かしい黄門山の風景が浮かんでいた。
洞穴の外、夜はとっぷりと暮れていた。
さっきまで鳴いていた鈴虫も遠慮するように、静かに笛の音に聞き入っているようであった。