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遭遇

 朝靄の中、雀たちが鳴き交わしている。

 夢うつつでそれを聞いていた宋江は、側に人の気配を感じた。

 夢なのか、と思いながらゆっくりと目を開けると、やはりそこには一人の男がいた。座しているが大きな男だとひと目で分かった。

「お目覚めですか。昨晩の一件、感謝してもしきれるものではありません」

 昨晩の件。記憶をたどる宋江。

 そうか目の前にいるのは、昨晩廊下で出会った男だ。

 宋江は昨晩の事を思い出した。

 

 宋清がほどなくして戻って来た。手に小さな袋を提げている。

 宋江は受け取ると、廊下に中身をぶちまけた。大小様々な紙に包まれたものだった。

 紙の表面には文字が書かれていた。提灯の明かりを頼りに宋江はひとつの包みを探し当てた。

「これだ」

 その包みには瘧(おこり)と書かれていた。どうやら薬のようであった。

 宋江は男の頭を膝に乗せ、猿轡(さるぐつわ)を外して包みを口元へと近づける。

 す、と宋清が竹の水筒を差し出した。

 水が必要であったか。宋江は薬の事にばかり気が向いていたが、ぬかりなく水まで用意してくるとは。つくづく良い弟を持ったものだ。

 薬を何とか飲ませ、男は柴進の下男たちに運ばれて行った。

「効くと良いのだが」

 宋江は額の汗を拭い、一息ついた。

 そして安心したのか、旅の疲れなのか、宋江はそのまま崩れ落ちるように眠ってしまったのだ。

「それで体調は」

 と言い、宋江は男の顔を見た。

 朝の光の中、にこやかに微笑む男の顔は健康そのものに見えた。

 父のくれた名医の処方薬とやらが、早速役に立った。本当に感謝してもしきれない思いだ。

「いただいた薬が効いたようです。貴重なものだったのでは。お礼が言いたくて、失礼とは思いながらもここでお目覚めを待っておりました」

 本当にありがとうございます、と男が頭を下げた。

 宋江は慌てて起こすと、朝飯でも一緒に食べよう、と部屋を出る事にした。

 

 男は武松(ぶしょう)と名乗った。

 改めて見ると肩幅が広く眉も太く、無造作に伸ばしている長髪だったが、それが似合う野性味のある男だった。

「それで、故郷へ帰ると聞いたが」

 朝食の席を共にしていた柴進が尋ねた。

「はい、この方のおかげで病もすっかり治りましたし、兄に無事な姿を見せてやりたいと思います」

 そうか、と言いながら柴進は思う。

 この武松、これほど礼儀正しい話し方もできたのか。拳に頼るばかりの無頼者と踏んでいたが。と、今まで邪険にしてきた事を悔いはじめた。

 男は続ける。

「だが、その前に鄆城県へ立ち寄ろうと思っております」

「鄆城県に何か用かね」

 宋江が箸を止め、尋ねた。

「はい、及時雨の宋江さまに会いに行くつもりです」

 その言葉に、宋江と柴進は顔を見合わせた。

 宋江どの名乗ってないのですか、と柴進の目が語っている。宋清は黙って汁をすすっていた。

 何故か、と聞くと宋江は天下に名だたる好漢だからだ、と武松は言う。

「そんな大げさな者ではない。噂が独り歩きしているだけさ」

 宋江の言葉に、男が吼えた。

「何だと。あんたは命の恩人だが、宋江さまの事を悪く言う奴は承知しないぜ。あんたは、あの人の何を知っているんだ」

 拳で卓をたたき、今にも襲いかかってきそうな勢いだ。

「何を、と言われても」

 口ごもる宋江に、柴進が助け船を出した。

「武松よ、この方が及時雨の宋江どの、その人なのだよ」

 武松は何を言われたのか必死で考えている様子だった。目を見開き、ぴくりとも動かない。

「あんたが、宋江さま、なのか」

 やっと言葉を絞り出した武松に、本当です、と宋江が答える。

「なんという奇縁だ、まさかここで出会えるとは思ってもいませんでした」

 武松は言うやいなや、椅子から飛びおり平伏してしまう。またもや慌てて引き起こす宋江。

 しかし、まさに奇縁と言うほかないのかもしれない。

 もし自分が宋家村から逃げてここへ来なければ。もし武松が病にかからず旅に出ていたら。

 そう考えると人生の廻り合せに縁以上の何かを感じてしまうほどだった。

 

 その後、病の再発を危惧し、武松は幾日か柴進宅に逗留した。しかし怖れていた再発もなく、いよいよ出発の運びとなった。

 柴進と宋江、宋清が門の前で見送っていた。

「柴大官人にはお世話になりました。ありがとうございます」

 武松は拱手して、別れの言葉を告げる。柴進も、達者でなと言い、餞別に銀子を渡した。

「宋江どの、宋清どのにもお会いできて光栄でした」

 同じく拱手すると、力強く向きを変え故郷への道を歩き始めた。

 武松が門を出て、見えなくなると、

「柴進どの、ちょっとそこまで送ってきます」

 宋江が後を追いかけて行った。宋清も、私も、と行ってしまった。

 残された柴進は、午後から狩りにでも行こうかと思った。

 だが、すでに大きな獲物を逃してしまった。武松という、大きな獲物を、だ。

 目の前にいたのに、気がつかなかった。気がつく事ができなかったのだ。不機嫌で手のかかる山猫は、実は爪を隠し眠っていた虎だったという訳だ。

 やはり、狩りはやめた。

 柴進は、宋江が戻って来たら一緒に酒でも飲もうと決めた。

 

 自分が断らなければ、宋江たちはどこまで見送るつもりだったのだろうか。下手をすると旅路にまでついてきてもおかしくはない感じだった。

「旅のご無事を」

 と、宋江が別れ際に言っていたのを思い出す。罪を着せられ逃亡中の身でありながら、なお人の無事を祈るとは。よほどの馬鹿か、よほどの大物かのどちらかだ。

「兄貴がもう一人、できちまったな」

 別れの際、宋江と武松は義兄弟の契りを交わしたのだ。武松はもう一人の、本当の兄を思い浮かべた。

「しばらく顔を見せてなくてすまなかった。だが、良い土産話ができたな」

 時おり吹く北風を苦にする事なく、武松は軽快に旅路を進んでゆく。

 黄河を渡り、南へ向かう。兄は心配しているだろうか。元気に過ごしているだろうか。

 武松はそれから幾日か旅を続け、陽穀県(ようこくけん)へと入った。鄆城県の南西、東京開封府から北に位置する県であった。

 ここの景陽岡(けいようこう)という山を越えると、そこが清河県だった。だが県城まではまだ距離があり、どうしたものかと思案する武松の前に一件の居酒屋が姿を現した。

 時分は昼どき。そう言えば、ここしばらく酒も飲んでいなかった。

 思い出すと急に恋しくなるのは、人も酒も同じだった。

 前祝いだ、と武松がごくりと喉を鳴らすと、腹の虫も大きく鳴いた。

 

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