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遭遇

 想像していたよりも普通の男だ、と柴進は思った。

 この東の別荘に、宋江が訪ねてきたと聞いた時、柴進は自ら戸口まで迎えに出た。及時雨とまで言われるほどの人物に失礼があってはならないと考えたからだ。

 だがそこにいたのは、いかにも役人という風情の小男だった。共に来た男、弟の宋清といったか、そちらの方が逞しい体つきをしていた。

 いささか拍子抜けした感のある柴進だったが、ともかく二人に着替えを渡し、客間で待っていると告げた。

 しばらくのち着替えを済ませた宋江と宋清が入って来た。下男が酒食を運び、三人は杯を交わした。

 宋江が、ここに至った経緯を話した。

 なるほどひどい目に会ったものだ。逃がしてくれた都頭の朱仝という男にも興味がわいた。

 弟の宋清は黙って二人の会話を聞いており、時おり頷くだけだった。

 宋清にも、鉄扇子(てっせんし)という渾名があるそうだ。

 大きな鉄扇で雨を降らせる鉄扇仙に由来しているという。宋江が恵みの雨、及時雨と呼ばれている事にちなみ、正直で勤勉なその弟にも、と村の誰かがつけたものらしい。

 はにかみながら、自分などにはもったいない渾名です、と言った宋清の顔は朴訥な農夫そのものだった。

 柴進も酒が進み、少し饒舌になって来たようだ。

 先の冬、林冲が訪れ、洪教頭を討ち負かした事を自分の手柄のように話し、下男に紛れさせて関(せき)を越えた話を笑いながら語った。

 宋江は思う。なんと危ない事をするものだ、と。

 結果的に上手くいったから良いものの、一歩間違えれば林冲は捕えられていたのだ。丹書鉄券というお墨付きを持ち、不可侵が約束されているからこその大胆さなのか、宋江はそれとなくたしなめたが柴進はそれも笑い飛ばすようだった。

 

 酒が進み、宋江は小用のため中座した。秋も終わりに近づき、肌寒い時節だ。

 柴進の自慢話を思い出し、いつか痛い目に会わなければよいが、と手をさすりながら歩いていると、廊下の先に何者かが座っているのが見えた。

 中庭に向かい胡坐をかき、提げ火鉢を足元に置いている。目を半眼にし、どこか座禅でもしているような雰囲気だった。

 宋江はその男に興味を持ち、話しかけてみた。

 男はうっそりと目を開き、宋江を一瞥すると再び半眼になった。

 失礼しますよ、と宋江は男の隣に腰を下ろした。座ると宋江の頭が、男の肩あたりにあった。

 大きな男だ。腕は太く硬そうな筋肉で覆われ、血管が何本も浮き上がっている。腿のあたりにおかれた拳は異様だった。使い古された表現だが岩のようで、宋江と比べて倍ほどはあろうか。

 ひとかどの豪傑に違いない。柴進の屋敷にいる者は、自分も含め、大抵は訳ありの者たちなのだ。

「すっかり涼しくなりましたな」

 宋江の言葉に、涼んでいるのだ、と顔を動かさずに男は答えた。野太いが芯の通った声だった。

 静かな夜だった。流れる雲の音さえ聞こえてきそうだった。

「人を殴り殺してしまった」

 ぽつりと男が話し始めた。

 男は清河県(せいがけん)の出だという。

 生来体が大きく、喧嘩にも負けた事がなかった。対照的に体の小さい兄をいつも助けていたほどだったという。性格も兄とは反対で、男はいつも暴力的な解決を好むようになっていた。

 これではいけないと考えた兄の勧めもあり、男は崇山(すうざん)へと入山した。力を持て余していた男にとって、それは水を得た魚だった。めきめきと腕を上げ、敵う者のないほど強くなっていった。

 しかし兄は、技よりも心を鍛えて欲しいと願っていたのだ。己の腕に慢心した男は、はからずも師に、心が鍛えられていないと喝破された。

 ある日、街で用事を済ませた男の肩に、役人がぶつかって来た。役人は自分の否を認めず、男に謝れと詰め寄った。

 虫の居所が悪かった。

 拳一発で役人は吹っ飛び、動かなくなった。

 修行で得た技を素人に用いてはならない、という掟を破ってしまった。

 男は逃げた。崇山にも戻らず、兄に別れも告げず、この柴進の邸宅へ一年前に流れてきたのだという。

 しかし最近、その役人が死んではいない事が判明した。罪に問われぬと知り、男は兄を尋ねようと考えていると言った。

 それが良い、と宋江は言った。

 宋江も身の上を男に話して聞かせた。

 閻婆惜が殺され、濡れ衣を着せられた事。父や朱仝、唐牛児のおかげで捕えられずに、ここにいる事。

 話すうちに宋江も改めて思い出し、彼らに感謝をし涙を浮かべた。酔いで涙もろくなったようだ。

「あんたみたいな役人もいるんだな」

 と、男は微笑んだようだった。

「及時雨の宋江という役人も、えらく大人物らしいな。俺の故郷でも噂は広まっていたよ。一度、会ってみたいものだ」

 そういう男の言葉に、そうですか、と宋江は困った様な顔をした。

「俺の兄貴も役人には随分いじめられていた。なあ、おかしくはないか、この国の役人どもは腐っちゃいないか。役人のあんたに言うのもおかしな話だが」

 ぐい、と男は胸元で拳を握りしめた。

 無数の傷で覆われた異形の拳が、めりめりと音を立てているようだ。

「もちろん暴力はいけない、わかっちゃいるさ。だがこの力を正しく使ってくれる奴に会いたいのだ」

 国が腐っている。

 国を否定する危険な考えだ、と少し前の宋江なら思ったかもしれない。

 しかし追われる身となり、分かった事があった。あれほど尽くしてきたと思った国も上官も、宋江を救ってはくれなかった。手を差し伸べてくれたのは父であり、朱仝であり、損得ではなく義によって結ばれた人々なのである。

 宋江自身、困っている人々を何とかしてやっていたが、役人とはいえ胥吏(しょり)の身にすぎない。官職ではないのだ。つまるところは庶民同士が、官職の横暴から互いを支え合っていたにすぎないのだ。

 晁蓋が頭領になったという梁山泊も、元は重税や横暴に耐えかねた人々が寄り集まってできたものだ。さらに各地でも次々と大規模な集団ができつつあり、地方軍を圧倒する勢力まであるのだという。

 国のあり方に関わる問題に宋江は、そうかもしれませんね、と答えるにとどまった。

「ところで」

 と宋江が男の名前を聞こうとした時だった。

 男が目を見開き、ぶるぶると震えだした。両の拳は血の出んばかりに握りしめられ、歯の根も合わぬほどがちがちと震えている。

 一体何事だ。発作か。

 目が白目を向いた。

 熱い。熱があるようだ。

 宋江は袖を引きちぎると、男に何とか咥えさせた。舌を噛み切らないようにするためだ。

「清(せい)、清はいるか」

 宋江は客間の方に向かって叫んだ。男はまだ震えている。

 宋清が駆けてきた。

「どうしたんだい、兄さん」

「一体どうしたのです」

 下男に提灯を持たせ柴進もやって来た。

「柴進どの、話をしていたらこの男が急に震えだして」

 柴進は震える男を見た。

 その拳を見て、柴進は思い出した。

 一年ほど前にやって来た男だ。はじめは丁重に扱っていたが、一向に出て行く様子もなく、なにかと己の力を自慢するようなところがあったので、次第に扱いもおろそかになっていった。男もそれに気付いたのか出て行こうとしたのだが、その矢先に病にかかり、結局いままで逗留していたのだ。

「瘧(おこり)だ。その男は瘧にかかっていたのだ。良くなったと思っていたが、まだ完治していなかったのか」

「なるほど瘧ですか。清よ。あれを、父に預かったあれを持って来い」

 宋清はすぐさま荷物のある部屋へと駆けて行った。

 柴進は、もうすぐだ頑張るのだ、と男を励ます宋江を黙って見ていた。

 自然は人間を区別したりしない。

 厳しい冬も、芽吹きの春も、実りの秋も誰の元にも訪れる。

 雨も誰の上にも等しく降り注ぐ。

 貴賎、年齢、身分の差を問わず等しく降り注ぐ。

 無私、なのだ、この宋江という男は。

 己の力を鼓舞する者を好まないと自負する柴進も、少なからず彼らと同じであったようだ。

 恵みの雨、及時雨という渾名の本当の意味を、柴進はやっと理解した。

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