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遭遇

 喉がひりつくくらい強い酒だった。

 だが口あたりが良く、あとに残る芳醇な香りが、食欲をそそる。

 牛肉を甘辛く煮たものを頬張り、酒を喉に流し込む。

 武松はあっという間に二杯空けると、亭主に三杯めを注がせた。それを一気に飲み干し、肉をたいらげると唸るように言った。

「ううむ、このような所にこれほどの酒があったとは」

 空いた杯をしげしげと眺め、亭主に酒と肉のお代わりを告げた。すぐに肉の皿が運ばれてきたが、なかなか酒が来ない。客はほかにあまりおらず、忙しい風でもない。

 武松は痺れを切らし、亭主を捕まえた。

「おい、酒はまだか。美味い酒ではないか、早く飲みたいのだ」

 そう言われ、亭主は礼をすると言った。

「ありがとうございます。この酒はうちの自慢でして、ですがもうお出しできないのです」

「どういう事だ、酒がなくなったのか」

「いえ、この酒はもうお出しできないのです。他のならばお持ちしますが」

 俺はこの酒が飲みたいのだ、と掴みかからんとする武松に亭主がおそるおそる尋ねた。

「店先の幟(のぼり)をご覧になってないのですか」

 眉間に皺を寄せる武松。そういえば何やら幟に書かれていた気がするが、よく見もせずに店に入って来たのだ。

 亭主が改めて教えてくれた。

 酒の名は透瓶香(とうへいこう)、香りが瓶を透りぬけてくるほどという意味だという。そしてまたの名は出門倒(しゅつもんとう)、三杯以上飲むと門を出た途端に倒れてしまうほど強い酒だからなのだという。

 なるほど確かに強い酒ではあるが、門を出た途端に倒れるなど、武松は信じられなかった。例えそうであっても、これほどの銘酒には滅多にお目にかかれまい。三杯で我慢などできるはずもなかった。

 どうしても飲みたいのだ、とつめよる武松。酒を誉められた亭主はまんざらでもなく、しかも武松の顔色も変わっていない様子を見て、ついに折れた。

 あと少しだけですよ、ともう三杯注いでやった。

 武松は肴をつまみながらそれを飲み干すと、銀子(ぎんす)を卓に放り出した。

「これでありったけ持って来てくれ、金は足りるだろう」

 亭主は止めるが、武松は吠える。

 酔っぱらいを怒らせるのが怖いことは亭主も重々承知。この太い腕で暴れられたら、誰が止められよう、と結局あるだけ酒を飲ませてしまった。

「いやあ、美味い酒だった」

 と武松は言うと、やにわに荷物と護身用の棍棒を提げ、店を出ようとした。それを亭主があわてて止める。

「お客さん、いったいどこへ行くんです」

「どこって、俺は陽穀県へ行かなきゃならんのだ。今日中には景(けい)陽(よう)岡(こう)を越えられるだろう」

「もうすぐ日も暮れます。お客さんがいくら酒が強くたって、無茶ですよ」

 これを見てください、と亭主が一枚の紙を差し出した。それはお上の布告文の写しで、こう書かれてあった。

 近頃、景陽岡に夜になると白(しら)額(びたい)の巨大な虎が出没し、すでに三十人ほどがその虎に殺されている。そのため旅人に夜間の通行を禁じており、昼でもなるべく多くの者と一緒に峠を越えるように。

「今日はここに泊まって、明日の朝でも他の者と連れだって行った方が良いですよ」

 と亭主が親切に言ってくれたが、武松は酒で気が大きくなっていたせいもあり、その提案を蹴った。

「この峠は昔から何度も通っているが、虎の話などついぞ聞いたことがないわ。心配するな、そんな虎とやらは俺が返り討ちにしてくれる」

 わはは、と笑いながら武松はついに出て行ってしまった。

 亭主は卓を片づけながら、ため息をついた。

 まったくどっちが大虎だ、と暮れゆく景陽岡を心配そうに見つめていた。

 

 日はすでに落ち、峠の景色も見ることができなかった。もっとも今の武松では、昼だとしてもそれを楽しむことができなかったであろう。

 出門倒とはよく言ったものだ。武松がふらふらと坂道を歩いている。持っていた棍棒を杖代わりにしていた。

 店を出て、峠の入り口にさしかかるとお上の印が押された高札が立っていた。亭主が見せてくれたのと同じ内容だった。

 本当だったか、と店へ引き返そうとも考えたがやめた。大言を吐いた手前、武松の矜持がそれを許さなかった。あとで思い返すと本当に小さな矜持だったのだが。

 ともあれ武松は何とか峠を登っていった。しかし登るにつれさらに酔いが回り、体が熱くなってくる。

 すでに十月だというのに、武松は熱さに胸をはだけ汗をかいている。するうち強烈な睡魔が武松を襲った。

 必死に耐えながら、武松はふらふらと雑木林へと入って行った。そこには大きな青石がひんやりと涼しげに佇んでいた。

 武松が倒れこむようにその石に抱きつき、頬にその冷たさを感じた時だった。

 一陣の怪風が背をかけ抜けた。

 背が一斉に粟立(あわだ)ち、一瞬で汗が引いた。

 気配の方を向くと、そこに虎がいた。

 風と共に現れたかのように、いつの間にか、すぐそこに虎がいた。

 大きな虎だった。常人を凌ぐ体躯の武松が小さく見えるほど、その虎は大きかった。

 虎と目が合っていた。

 武松の酔いは一気に醒め、恐怖よりも冷静さが心を支配していた。

 どれくらいそうして見つめあっていたのだろう。

 前触れもなく虎が跳んだ。

 鋭い爪が武松を狙っている。巨大な釣針にも似たそれは、牛の皮でも簡単に引き裂いてしまいそうなほどだ。

 剥き出しにした歯も見えた。爪よりもさらに凶悪なそれに喰らいつかれたら最後、骨さえも粉々に噛み砕かれてしまうだろう。

 足が竦(すく)むことはなかった。

 自分でも驚くほど冷静に、襲い来る虎を仔細に観察し、駆けた。跳びかかる虎の下をくぐりぬけ、背後に回った。棍棒を持つ手に力を込める。

 着地した虎が、そのまま後ろ脚を蹴り上げた。爪が突っ込みかけた武松の胸を引っ掻いた。着物が鋭利な刃物で切られたようになり、胸に幾筋か血がにじんだ。

 危なかった、と思う間もなく横から風を感じた。

 武松は踏み込んだ足に力を入れ、後方へと跳んだ。そこへ横薙ぎに払われたのは虎の尾だった。女の太腿ほどもある尾が唸りをあげ、鞭のように通り過ぎた。

 虎が吠え、武松の方へ向き直ろうとする。

 いまだ、と武松は棍棒を虎の頭めがけて振り下ろした。

 がつん、という音が峠に響いた。

 武松の手には半分に折れた棍棒があるだけだった。暗くてよく見えなかったか、頭上の枯れ木を打ってしまったのだ。

 その隙に虎は体勢を立て直し、再び武松に狙いを定めた。

 それでも武松は冷静であった。

 一瞬だけ、崇山の師の顔が頭をよぎった。

 武松は折れた棍棒を投げ捨てると両の拳を握り、虎をじっと見据えた。呼吸を整え、半身(はんみ)に構える。

 風の音が聞こえる。風に揺れ、擦れる葉の音がわかる。ころろ、という虎の低い唸りが耳に届く。

 牙をむき、虎が低い姿勢になる。前脚そして後脚で土を蹴り、一気に跳躍した。十本の鈎爪が武松に向かう。

 武松はその一連の動きをはっきりと捉えていた。何もかもがゆっくりと見えた。

 武松はあせらずその場で反転し、虎の爪をかわした。虎の頭が右脇のそばを通り過ぎようとする時、武松はその太い首を抱え込んだ。さらに体重を乗せ、気合とともに虎を地面に押し倒した。

 丸太でも抱えているような太い首だった。

 渾身の力で締め上げ、左の拳を高々と上げた。おお、という雄叫びを上げ、その拳を虎の額へと打ち込む。

 虎は一瞬、悲鳴をあげたが大きな体を動かし、何とか武松の束縛から逃れようもがく。太い尾を振りまわすが、首元の武松には届かない。

 それにかまわず武松は拳を何度も打ちつけた。

 二発、三発。

 十発、二十発、三十発。

 七十発ほどだったろうか、虎の額の奥で割れたような音が聞こえた。

 見ると虎の目から血が流れ、口から泡を吹いていた。両脚がぴくぴくと痙攣し、尾はぐったりと地面に垂れている。

 そこではじめて殴るのをやめた。拳は虎の血で真っ赤に染め上げられていた。

 ゆっくりと虎から離れ、肩で息をする。虎は恨めしそうな目で武松を見ていたが、やがて動かなくなった。

 武松は吼えた。

 景陽岡中に響き渡るほどの声で吼えた。

 麓では、それを誰もが虎の咆哮だと恐ろしがっていたという。

 

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