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血闘

 神の化身か。

 円石が宙を舞っている。

 その重さ、実に四、五百斤はあるはずだ。大人四、五人分ほどもある石を、武松は持ち上げてみせた。

 さらに気合と共にそれを中空へと放り上げたのだ。赤子をあやすように何度か石を放り上げた後、石を地面に落とした。

 大きな地響きを上げ、石は地面に半分ほどもめり込んだ。

 周りで労役をしていた囚人たちが驚きの表情でそれを見ていた。

 施恩も、右腕の痛みを忘れ、目を丸くするばかりであった。

「どうです、施恩どの。なまってなどおらんでしょう」

 もろ肌脱ぎになり、手巾で汗を拭きながら武松が笑っている。

「誠に失礼いたしました。あなたの力を見くびっておりました、武松どの」

 武松は施恩に尋ねた。一体どうして自分をもてなしていたのか。

 しかし施恩は、武松の体調が回復してから全てを話します、と言った。

 武松は憤(いきどお)った。流罪の旅の疲れは無いとは言わないが、見くびられては困る。そう言って武松は、天王堂にあった大きな円石を思い出したのだ。

 二人は部屋へと戻った。武松が、ぐっと杯を空け、改めて理由を問うた。

 途端に施恩は神妙な面持ちになった。

 ほんの少しの沈黙の後、施恩は重い口を開き始めた。

 

 孟州の東門の向こうに、快活林という交易場がある。

 山東や河北から旅の商人が集まる所で、大きな旅籠(はたご)が百軒ほど、賭場や両替屋も三十軒ほどあり、非常に栄えているという。

 典獄でもある父と、命知らずの囚人たちの後ろ盾もあり、施恩は料理屋を営みながら、快活林を縄張りとしていて、多い時は月に三百両もの冥加金を得られていたのだという。

 しかし、最近その快活林を奪われてしまった、というのである。

 事態は張という団練が赴任してきた事から始まる。

 少し前、朝廷からの要請で二竜山への派兵を行った。前任がそこで負傷したため、代わりとしてやって来たのだ。そして張は一人の男を連れてきていた。問題は、その連れてきた男であるという。

 男の名は蔣忠(しょうちゅう)。身の丈九尺もある大男で、力だけではなく武芸の腕もたち、門神と渾名されていた。中でも争交(そうこう)という組み技を主体とする格技が得意で、泰山(たいざん)の奉納試合でも五年間無敗を誇っているのだという。

 張団連の威を笠に着た蔣忠が、施恩の縄張りを奪い取ろうとした。もちろん施恩は立ち向かったのだが、手もなく打ちのめされた。快活林は奪われ、施恩は今も怪我の治療中であった。

 そこへ虎殺しの武松が孟州に流罪になるという報を聞いた施恩は、何とか武松の力を借りて仇討ちを頼もうとしていたのだという。

「状況はわかりました。しかしこんな回りくどいことをしなくても、引き受けたものを」

 と武松が杯を呷って立ち上がった。

「それではさっそく、そいつの所へ行きましょう。案内を頼みます、施恩どの」

 驚いたのは施恩だった。

「ちょ、ちょっと待ってください。今から行くなんて、無茶ですよ。あいつがいるかもわからないですし、こちらも作戦を」

 何やかやと理由を述べる施恩を武松が睨んだ。人食い虎をその拳で殺した武松の眼力に、虎の子はびくっと体を縮め、背を丸めた。

「男が何かやろうと思い立ったならば、それをすぐに実行しなければならんのです。やるならば今、なのです。あなたは何かにつけて腰が引けている。言いたくはないが、あなたが負けたのも、だからこそなのですよ」

 言い返す事ができないでいる施恩。唇を噛みしめ、金色の瞳が武松を睨む。

「悔しくはないのですか、施恩どの」

 悔しい、と施恩は絞り出すように言った。

「その言葉が聞きたかったんです。さあ、快活林はどこですか」

 こっちです、と施恩は背を向け歩き出した。

 その姿を見て武松は微笑んでいた。

 ほんの少しだけ、施恩のその背中が大きく見えた。

 

 快活林の外で施恩を待たせ、武松は単身乗り込んでいった。

 安心して待っていてください、施恩はそう言われたものの心配でたまらず、下男を呼び武松の様子を報告するように命じ、後をつけさせた。

「話には聞いていたが、なかなか賑わっているじゃないか」

 どれ、と武松は入り口に一番近い店へと入り、酒を注文した。つまみは頼まずに三杯立て続けに飲み干すとその店を出た。

 武松はすぐに隣の店へはいり、同じように酒を飲むと勘定を済ませ外へ出る。

 それを見ていた下男はいぶかしんだ。どうして何件も寄り道をしているのだ。しかもあんなに酒まで飲んで、本当に若様の仇(あだ)打ちなどできるのだろうか。

 下男の心配を知ってか知らずか、武松は十軒ほど店を梯子した。酒もすでに四十杯近く飲んでいる勘定だ。だが武松は酔った様子を見せることもなく、しっかりした足取りで奥へと歩いて行く。

 下男は見ていた。確かにそれほどに酔ってはいないようだ。だがしかし、飲む度に目元が冷酷さを増しているように感じた。

 下男が遠くで見守る中、武松は一軒の大きな料亭に着いた。門前に青漆の欄干をめぐらせた、ここがかつて施恩が経営していた店であった。

 ふらりと武松は店に入り、席へ腰を下ろす。中には店の主らしい女と、給仕が七人ほどいた。武松が酒を頼み、給仕がすぐに運んでくる。

 杯に注がれた酒を鼻に近づけた武松は、飲まずにそれを乱暴に卓に戻した。

「なんだこの酒は、もっと上物(じょうもの)はないのか」

 給仕が、申し訳ありません、と言いながらその酒を下げ、新しい酒を持ってくる。給仕たちは酔客の扱いを心得ているようだ。

 ところが、武松はまた同じように酒を飲もうとしない。

 あきらかに女の表情が険しくなった。だが給仕たちは何とか女をなだめているようだ。

 放っておきましょう、ただの酔っ払いですから。そんな声がかすかに聞き取れた。

 酒が新しく運ばれてきた。武松はそれに口をつけた。

「うむ、これはまあまあいけるな」

 その言葉に、一同も安堵の表情を見せる。女を除いては、だったが。

「おい女将、お前の亭主は何と言う名だ」

「蔣(しょう)、と言いますが、それが何か」

 不機嫌そうに女が答えた。

「なぜ李ではないのだ」

 喧嘩でも売りに来たのかい、と女が噛みつこうとしたが、これも給仕に止められた。

「姐(ねえ)さん、お気にしなさんな。どうせどこかの田舎もんですよ、ほっときなさい」

 その言葉を武松は聞き逃さなかった。

「おい貴様、今なんと言った」

 いいえ何も、と作り笑いでごまかす給仕に武松が怒鳴った。

「なんと言った、と言っているのだ」

 どん、と拳を卓に叩きつける。激しい音を立てながら、卓はまるで紙でできていたかのように二つに割れ崩れた。

 手前(てめえ)ぇ、と給仕たちが跳びかかってきた。

 座ったままで武松が拳を放ち、給仕たちが四方へ飛んでゆく。

 卓にぶつかり床に転がる者、甕を大破し酒まみれになる者。襲いかかった給仕はすべからく呻き声をあげ、うずくまっている。

「あとはお前か」

 武松が女を睨み、女は短い悲鳴を上げた。

 だが武松はすぐに女から目を離した。その眼は店の入り口に向けられていた。

 そこに大男がいた。

 頭を下げ、鴨居をくぐるように店に入って来たその男こそ蔣忠(しょうちゅう)であった。

「なんだ、お前は。俺の店で暴れおって」

 低い、かすれた声で蔣忠が言う。

 入口で仁王立ちするその姿は、まさに門神の名にふさわしいものであった。

 

 熊のような大きな手が顔をかすめた。

 身をかがめ、武松は蔣忠の脇をかいくぐると店の外へと出た。

「どうした、こっちだぜうすのろ」

 蔣忠は雄叫びをあげ、武松を追って往来に出てきた。

 向かい合う二人。武松が拳を握り、蔣忠は手を開いている。対照的な構えだった。

 蔣忠が前に出る。争交(そうこう)の腕には絶対的な自信がある。掴み、組んでしまえばどんな相手だろうと負けはしない。

 武松はその場を動かずに蔣忠を迎え撃つ。武松の左右から、蔣忠の巨大な手が唸りを上げ、襲いくる。

 武松は避(よ)けない。蔣忠の手が武松の両肩口をむんずと掴み、力を込める。まるで千斤の重石を載せられたかのようだ。

「動けまい。このままつぶしてくれるわ」

 口元に笑みを浮かべ、蔣忠がさらに力を入れた。

「それで終いか」

 動けないはずの武松はその言葉に臆することなく、にやりと笑った。

 次の瞬間、気合を発すると同時に自ら下へ沈み込んだ。

 布が破れる音がして、武松がそこから消えた。

 蔣忠は破れた武松の服だけを握りしめていた。

 目の前に上半身を顕わにした武松が立っていた。

 さすがに蔣忠も目を見張った。

 体の動きだけで衣服を破るなど、常人にできる芸当ではない。もちろん蔣忠にはできるはずもなかった。どれほどの筋力と胆力が必要だというのか。

 蔣忠の絶対的な自信が揺らいだ。まるで足元の地面が傾いたかと思うほど、揺らいでしまった。

 武松の拳が眼前に迫った。

 鼻を砕かれた。

 目から反射的に涙が溢れてくる。次の手が見えない。

 武松は、蔣忠の腹めがけて左足を飛ばした。それは分厚い筋肉をかいくぐるように鳩尾に突き刺さった。

 ぐえ、という嗚咽がもれる。

 さらに武松は一歩踏み出し、右足を放った。つま先が地面すれすれを掠り、蔣忠の顎を蹴り上げた。

 蔣忠が後ろにのけぞり、そのまま地面を揺らした。

 足もとには、折れた歯が何本か落ちていた。

「気を失わんとは、大したものだ」

 武松が近づいてくる。蔣忠は立ち上がることができなかった。足に力が入らない。

 負けた。五年間無敗の自分が負けた。

 立ち上がれないのは肉体的なものよりも、精神的なものが大きかったのだろうか。

 蔣忠は鼻と口から血を流しながら、武松を見上げることしかできなかった。

 

 蔣忠が、門神が倒れる様を目にした。

 目の前で起きていることが信じられなかった。

 武松が円石を宙高く放り上げた時、神の化身かと思った。それは正しかったようだ。

 下男の知らせを聞き、すぐに施恩は快活林の奥へ走った。

 施恩が着いた時、武松は蔣忠に掴まれていた。だが見る間に戦況は変わり、蔣忠が倒れた。

 施恩は震えた。

 これが本物の強さなのだ。金眼彪などと呼ばれている自分が恥ずかしくなるほどの強さだ。

 武松がこちらに気づき、にやりと笑った。

 施恩を呼び、蔣忠に約束をさせた。

 快活林から立ち退き、施恩から奪った料亭をはじめ、すべてを返すこと。そしてすぐにここから出て行き、二度と現れないこと。

 その時は、と武松がぐっと拳を握りしめる。

 わかりました、と何度も蔣忠が言い、部下たちに肩を支えられながら去って行った。

「武松どの、本当にありがとうございます。何とお礼を言って良いのやら」

「礼などいりませんよ。ただ義を貫いたまでのことです。これからはあなたがここを守るのです。強くなってください、施恩どの」

 施恩は目に涙を浮かべ、深々と頭を下げていた。

 あの、という武松の言葉に顔を上げた。

「すまんが、服を一着いただけませんか」

 上半身をむき出しにした武松が照れくさそうに言った。

 施恩は笑って下男を呼んだ。

 強くなる、強くなってみせる、と施恩は武松の背を見ながら、そう誓った。

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