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苦境

 韓滔が必死に馬を駆っていた。

 足元を凝視しながら駆ける。

 韓滔は西の戦場で梁山泊軍を蹴散らした。そして逃げる梁山泊軍を追い、さらに戦場を駆けた。

 突如、地面から人が湧き出てきた。

 韓滔にはそう見えた。目を瞬(しばた)き、何度も確かめた。本当に地面から人が出てきたのだ。

 梁山泊の兵のようだった。彼らが手にした得物を振るうと、率いてきた連環馬たちが地面に転がった。

 足か。馬の足元を狙っているのか。

 全身を鎧で固めた連環馬であったが、さすがに足元だけは露出している。奴らはそこを狙っているのだ。馬鹿なと思いつつ、韓滔は隊に命じた。

「鎖を外せ。駆ける前方の地面に気をつけろ」

 だがそう言う間にも、連環馬隊の両端の馬の足が刈られる。倒れる馬に引きずられ、つながれた馬たちも地面に引き倒されてゆく。

 そこへ林や茂みから飛び出してきた梁山泊の兵たちに襲われてゆく。

 韓滔は必死に檄を飛ばしながら、なんとか鈎鎌槍を避ける。

 先ほどの優勢から一転、戦場には味方の悲鳴がこだました。

「呼延灼どの」

 呼延灼は無事か。韓滔は咄嗟に思った。

 どうやらこの地面からの敵は北のあたりに潜んでいたようだ。西の戦場にはいなかったのだ。とすれば呼延灼の率いた隊は、まともに襲撃を受けたことになる。

 韓滔は馬を平地から林の中へと移動させた。

 何かの気配を感じた直後、木々の陰から撓鈎(どうこう)が何本も伸びてきた。咄嗟に頭を下げ、撓鈎をかわす韓滔。

 だが撓鈎は馬にまで伸びてきていた。いくつもの鈎爪が馬の鎧に引っ掛かり、前脚を折るようにつんのめった。

 急に速度が落ち、韓滔が馬の前方に放り出された。韓滔は右手で頭を守りつつ、勢いを利用して転がりながら立ちあがった。

 韓滔の前に二人の男が現れた。赤茶けた髪をした大柄な男と、その男よりもさらに上背のある巨漢だった。

「悪いが、こいつはもらったぜ、杜遷」

「油断するなよ、劉唐」

 わかってるさ、と言いながら劉唐は大きな朴刀を閃かせた。

 韓滔は腰の刀を抜いた。棗木槊は馬の側(そば)に落ちている。だが、あったとしても林の中では使いにくいだろう。

 相手の攻撃は大ぶりで、韓滔にとって見切るのは容易(たやす)かった。

 だが、抜いた刀で受け止めようとした韓滔の顔色が変わった。寸前で身をかわした韓滔は、空気が切り裂かれたような音を聞いた。かすっただけの刀が弾き飛ばされた。韓滔の手は、びりびりと痺れたようになっていた。

「おっと、よけやがったか」

 劉唐は大して悔しそうでもなく、にやりと牙のような歯をのぞかせた。

 馬鹿な、かすっただけだぞ。

 しかしその力のほどは、痺れた右手が如実に物語っている。

 劉唐がゆっくりと、朴刀を横たえるように構えた。

 兎を追い詰めた獅子のように、慎重に一歩一歩、韓滔ににじり寄ってゆく。

 しかし韓滔は逃げだすことなく、徒手の構えで劉唐に向き合った。

 劉唐が一歩前に出る。

 威に圧(お)されたように、韓滔が一歩後ろへ下がった。

 韓滔の背が、木に当たった。

「よせ、劉唐。丸腰の相手だ」

「だからといって、手加減できる相手じゃねぇよ。こいつは」

 嬉しいことを言ってくれる。だが今はそれを喜んでいる場合ではない。

 劉唐の目と韓滔の目が合った。

「見な、杜遷。笑ってやがるぜ」

 俺が、笑っているだと。

 確かに韓滔に怖れはなかった。目の前にいる劉唐という男と闘っている事が、嬉しくもあったのだ。悪い癖だ、と韓滔は思った。

 顔を上げると、劉唐も笑っていた。

 劉唐がさらに一歩踏み出し、刀を下げた。腰を捻り、力を溜める。おお、と叫び、刀を大きく、横に薙いだ。

 さすがの韓滔も思わず上体を屈(かが)めた。突風が頭の上を通り過ぎた。

 韓滔は冷や汗をかいていた。当たれば間違いなく、体を両断されていたであろう威力である。

 だが弱点はそこにあった。力任せの大振りゆえ、攻撃後の隙も大きい。

 すかさず韓滔が低い姿勢で突進しようとした。だが韓滔は動けなくなった。

 背後から木の幹が韓滔に覆いかぶさってきた。韓滔は、その幹に押しつぶされて昏倒した。 

 動けぬ韓滔の手足を、杜遷が素早く縄で縛ってしまう。

 体を両断するほどの刀は、背後の木をぶった切っていたのだ。

「ちぃ、上手くよけやがって」

 まったく悔しくなさそうに劉唐が言った。

 杜遷は、そんな劉唐を見て微笑んでいた。

 あれは、徐寧なのか。

 呼延灼は踢雪烏騅を駆りながら、思い出していた。

 地面から現れた兵が槍とも鎌ともつかぬ、奇妙な形の得物を持っていた。

 それを振るい、連環馬の足を斬っていった。次々と倒れてゆく連環馬。槍の攻撃から逃れた騎兵も茂みなどから伸びてくる撓鈎に絡め取られていった。

 呼延灼が助かったのは、踢雪烏騅のおかげと言ってよかった。

 呼延灼は悔しさに歯噛みしながら、駆けた。

 韓滔の隊はどうなった。向こうも、あの槍の攻撃を受けたのだろうか。

 見ると、辺りの道には梁山泊の旗じるしに埋められていた。呼延灼は追いすがる梁山泊軍を振り払い、味方を探すが見つからなかった。こうなれば一度、本陣へと戻るしかあるまい。

 だが呼延灼の前に歩兵の一隊が現れた。

 率いているのは穆春と穆弘の兄弟だった。

「ここまでだぜ。とっとと降参するんだな」

 穆春が啖呵を切り、刀を閃かせながら迫る。穆弘は呼延灼を見据えたまま、穆春の後を駆ける。

 呼延灼は踢雪烏騅の速度を緩めず、そのまま駆けた。勢いに乗り、呼延灼は両手の鉄鞭を構えた。

「来るぞ、春」

 穆弘が短く言い放ち、呼延灼の右へ走った。穆春はそれを見て、左へと走る。

 呼延灼の鞭が、二人に襲いかかる。刀と鞭がぶつかる激しい音がした。

 二人の間を駆け抜けた呼延灼は馬首を返し、再び穆兄弟に向かう。

 穆春が呼延灼を睨んだ。手が痺れている。鞭に打たれた時、手首も折れるのではないかと思ったが、落とすまいと必死に握った。

 穆弘が、兄がいる。無様な姿は見せられない。

 梁山泊に入山した時、兵として存分に暴れられると思っていた。しかし糧食の担当という、戦いとはおよそ無関係のところに配属された。穆春はそれが不満で聚義庁に乗り込んだ。だが穆弘はその行動を許さず、穆春は立てぬほど打ちのめされた。

 掲陽鎮では我が物顔で振る舞ってきた。自分の意のままにならぬものなどなかった。すべて力で解決できると思ってきたし、それで通してきた。

 だが、ここでは違った。

 自分の力など自慢するほどのものではないと、やっと分かってきた。

 糧秣係の後は建物の建築造営の担当となった。だがもう文句は言わなかった。悔しくはあったが、まだ自分の力がそこまで達していないのだと考える事で、穆春は堪えた。

 そして、やっと兵を率いる事ができた。穆弘は、まだその器ではないと反対するかもしれないと思った。だが兄は、この配属に異を唱えなかった。

 穆春は嬉しかった。いつも背を見続けてきた兄に、少しだけ近づいたような気がした。

 穆春は刀を左に持ちかえ、進んだ。

 呼延灼が迫る。穆春は今度は刀で受けずに、鞭をかわした。左の鞭は穆弘が受けていた。胴ががら空きになった呼延灼に向かって、穆春は刀を突きだした。

 穆春の体の下から、黒い丸太のようなものが突き上がってきた。穆春は咄嗟に身を引き、それをかわした。

 呼延灼の愛馬、踢雪烏騅の前脚だった。

 主の危機を察し、それを救おうとしたのか。踢雪烏騅は竿立ちになって嘶(いなな)くと、両の前脚で穆春を潰そうとした。

 しかし、穆春は焦ることなく、その蹄を見切った。

 地響きを上げ、脚を下ろした踢雪烏騅は呼延灼を乗せ、その場から駆け出した。呼延灼もそれに身を預けたようだ。

「待ちやがれ」

 穆春はそう叫んだが、言葉に反して追おうとはしていなかった。

 ふう、とひと息つき刀を下ろすと、どっと汗が流れた。

 横に穆弘が、立っていた。いつもと変わらぬ無愛想な風貌だった。

 良くやった、などとは絶対に言わない兄だと、穆春は知っている。

 だからこうして横に並んでいるだけで、穆春は誇らしかった。

 呼延灼は彼方へ駆け去っていた。

 

 目が醒めたが、体が動かなかった。

 見たことがない天井だった。無理に起きようとすると、全身に痛みが走った。

「もう目覚めたか。大した男だな」

 韓滔は思い出した。意識が飛ぶその前まで、劉唐という鬼のような男と戦っていた事を。

 突風のような刀をかわしたが、切断された木の幹が韓滔に落ちてきた。それで気を失ったのだ。その、劉唐の声だった。

「動くのも辛いだろうが、来てもらうぜ。うちの頭領がお呼びなんでな」

 劉唐の手下らしき者たちに支えられ、韓滔は部屋から連れだされた。

「縄をかけぬのか」

「逃げだそうとしても、暴れようとしても無駄だという事は、わかるだろ」

 韓滔はやや挑発的に言ったのだが、劉唐はそれをあしらうように笑っていた。

 やがてひと際目立つ建物が見えてきた。聚義庁と呼ばれているという。

 聚義庁の正面中央に座する男に、目を奪われた。

 太い眉に大きな目、ひと目で人を束ねている者であるとわかる風格だった。

「わしは梁山泊の晁蓋と申す。お主が韓滔将軍だな」

「いかにもそうだが、殺すならばとっとと殺すが良い。山賊どもと話す事などは無い」

 はは、と晁蓋が笑った。

「何が可笑しい」

「いや、これは誠に失礼した、韓滔どの。可笑しかったのではないのだ、嬉しかったのだ」

 晁蓋の言葉に、解せぬ顔の韓滔。睨みつけるように晁蓋を見据えている。

「やはりお主も素晴らしい武人なのだな。わしらはそのような気概を持っていう者が好きでな。それにわしらをそこらの山賊と見くびってもらっては困る。誰かれ構わず手にかけるような梁山泊ではない」

 それで晁蓋との対話は終わり、韓滔は牢のような建物へと連れられた。牢のようだったが、あくまでも普通の営舎のような造りであった。

 韓滔はあてがわれた部屋で腰を下ろし嘆息した。

 ああは言っていたが、どうせ殺すのだろう。梁山泊はそこらの山賊とは違うなどとぬかしていたが、結局は同じではないか。

 牢番に声をかけられた。来訪者らしい。

 部屋に入ってきた者の顔を見て、韓滔は驚きの声を上げた。

「お前でも捕らえられてしまったか、韓滔」

 韓滔は信じられなかった。確かに彭玘がそこにいるのだ。

 微かな期待はあった。彭玘は梁山泊に捕まり、殺されたと思っていた。だがいま、目の前にいるのだ。

 気付くと、そこにはもう一人の男がいた。背は低めだが体格の良い男が、こちらを見ていた。

「彼は凌振だ。呼延灼どのがもう一人開封府(かいほうふ)から呼んでいると言っていたのを覚えているか。その男とは、この凌振だったのだ」

 彭玘にそう紹介された凌振は、少しうつむいた。

「申し訳ない。呼延灼どのの期待に添えず、負けてしまい、私も捕らえられたのだ」

「呼延灼どのは。まさか」

「いや、見てはいないのだが、まさか呼延灼どのまでが負けるとは考えられん」

「そうだな」

 とは言ったものの、そのまさかが戦では充分に起こり得ることを重々に知っていた。

 韓滔も彭玘も、凌振も一抹の不安を抱きながら、沈黙の時がしばし流れた。

 再び牢番の声がした。また誰か来たらしい。

 まさか、と韓滔も彭玘も思わず身構えた。

 しかし入ってきたのは、呼延灼とは似つかぬ色黒の小男だった。左右に、白づくめの男と赤づくめの男とを従えていた。

「私は宋江と申します。こちらは呂方と郭盛です。どうか楽になさってください」

 そうは見えないがこの宋江、晁蓋の次席なのだという。

 宋江に促され、韓滔らは椅子に腰を下ろした。そう言った宋江自身は立ったままだった。

「梁山泊と共に戦っていただけませんか」

 宋江の口から出た言葉に、韓滔は思わず立ち上がった。

 彭玘も凌振も同じだった。温和な彭玘でさえ、少し怒りを帯びているようだ。

「馬鹿なことを言うな。捕らえられ、殺されない事だけでも侮辱だというのにその上、貴様ら賊の仲間になれだと。冗談もいい加減にするのだな」

 韓滔が拳を握り、宋江に詰め寄る。

 呂方と郭盛が守るように前に出たが宋江はそれを手で遮ると、なんと韓滔に自ら近づいて行った。

「私は、本気です」

 韓滔は、何故かたじろいでしまった。

 百勝将(ひゃくしょうしょう)と呼ばれる己が、目の前にいる小男に気圧(けお)されたのか。

 だが確かに韓滔も彭玘も凌振も、この宋江という男から、すべてを包み込むような何か、大きさのようなものを感じていた。

 宋江が、にっこりと微笑んだ。

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