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苦境

 周通が青州へ向かっていた。

 李忠と治めている桃花山をはじめ二竜山、白虎山の軍備を増強するため、遥か北の地へ馬の買い付けに出向いていたのだ。

 少し予定よりも遅れてしまったが、しょうがない。良い馬がたくさん手に入ったのだ、兄貴も喜んでくれるだろう。

 周通が仕入れた馬は数百頭に及んだ。どれも見事な馬だった、

「しかし変わった奴だったなあ」

 周通が思い出すように独り言をつぶやいた。

 周通は馬を手に入れるため、手下と共に北へと向かった。北方の騎馬民族、遼(りょう)などの馬が、やはり良質なのだ。

 その遼の支配下にある薊州を越え、さらに西の内陸に至ったあたりである。

 周通はそこで異相の男と出会った。

 周通らが馬を探していると聞きつけたらしく、ひょっこりと現れたその男は痩せていて目が鋭く、髪も髯も赤っぽいような黄色みを帯びていた。光に当たると、金色にも見えた。周通は、その男の目が狼のようだと思った。

 風貌から金毛犬と渾名されていると聞いた。

「とにかく馬を探してるんだろ。だったら俺に任せなって。馬の目利きに関しちゃ、ちょっとうるさいんだぜ」

 まあ、狗児(くじ)って呼んでくれていいぜ。

 本当かどうか分からないが、赤子の頃に犬に育てられたので、狗児と呼ばれているのだと言った。金毛犬こと狗児は、見た目とは違い人懐っこく笑った。

 周通は、狗児が本当に犬に育てられていようがいまいが、どちらでも良かった。ただ、馬を揃えてくれるのならば、何者でも良かったのだ。

「そうかい。それなら頼むよ、狗児」

「そうと決まれば話は早い。で、何頭ぐらいいるんだい」

「そうだなあ、一千くらいは欲しいかな」

 狗児は目を剥いた。本当に飢えた狼のような顔つきに見えた。

「ば、馬鹿も休み休み言え。一千なんて、急に用意できる訳がねぇだろう」

「なんだよ、俺に任せろって言ったじゃないか」

 周通と共に来た五十人ほどの部下が、二人を遠巻きに囲みはじめた。

 狗児はすぐに、それに気付いたようだった。荒げた声を一旦、落ち着かせる。

「待てよ。あんた一体何者なんだよ」

「何者でもいいだろ。何者か分からないのはお互いさまさ。さ、馬を用意できるのかい。できないのならば、他を当たるまでだが」

 狗児はねめつけるように周通を見、唸るような声を出していた。しばしのち、狗児が訊ねた。金(かね)はあるのか、と。

 ずしりと重たい袋の中身を見せると、狗児は自分の頬を両手で何度か挟むように張った。

「わかったよ、わかった。馬をそろえてやる。そんな物見せられて断れるわけがねぇ」

「良かった。これで俺も兄貴たちとの約束を守れるってものだ。まあ、すぐにとは言わないよ。いつまで待てば良いのだ。俺も、あまり時間はないのだが」

「馬はきっちりそろえてみせる。だが」

「だが、何だい」

「あんたにも、協力してもらう。金は通常の七割で良い。その代わり、あんたらの力を貸してもらうぜ」

「どういう事だ、狗児。俺たちになにをさせようってんだ」

「あんたら山賊とか、訳ありの者(もん)だろう。言っとくが一千なんて馬、この先どこへ行ったって手に入りっこないぜ。もしできるとしたら、この俺さまだけだ」

 狗児が畳みかけるように言う。周通は思わず口をつぐんだ。

 確かに狗児の言う通りなのだろう。

 狗児の顔は自信に満ちていた。本当にこの男ならば、と思わせる何かを感じさせる顔だった。

「分かった。お前がそこまで言うなら、本当に一千の馬が手に入るなら、協力しよう」

「よし、成立だな」

「うむ。それでどうやって手に入れるんだい」

「簡単さ。盗みだすのさ」

 周通は唖然とした。

 狗児は、店先の饅頭を手に入れるかのように言ったが、馬なのだ。しかも一千の。

 しかし周通は狗児に任せようと決めた。

 ここまで来たら、それしか方法がないからだ。

 狗児こと、金毛犬の段景住は、ぺろりと舌なめずりをした。

 金という国だという。

 ほんの少し前に、契丹族の支配下にあった女真族が興したらしい。

 馬を求めて遼に頻繁に出入りしている段景住は、少し自慢げにそう言った。

 周通は遼についても、宋の北にあり良い馬が多くいる国ぐらいにしか知らなかったし、金などという名も初めて聞いた。

「その金に、もっと良い馬がいるんだ」

 段景住は嬉しそうに笑った。 

 一面が雪に覆われていた。

 遠くに険しい山稜が見えるだけで、彼方まで雪の原だった。雪が陽(ひ)の光を照り返し、目を細めなければならないほどだった。

 時々、集落のようなものがあった。女真族が周通らを見て出てきた。

 段景住は慌てるな、と言った。

 段景住は一人で、何やら女真族と話をしていた。どうやら女真の言葉のようで、周通には何を言っているのか分からなかった。周通らはもしものためにと構えていたが、やがて女真族が離れていき、段景住も戻ってきた。

「女真の言葉が話せるのか、狗児」

 段景住は、馬を手に入れるために遼の地には何度も来ているのだという。言葉は自然に覚えたと言った。

 馬の買い付けに来た商人だ、と説明したらしい。女真族はいぶかしんでいたものの、それ以上誰何(すいか)される事はなかった。

 低い丘を越えると、そこに馬がいた。女真の軍馬の放牧地であるらしい。

「まさか、ここから盗もうって言うのか。それで力を貸せと言ったのか」

「そう驚くこっちゃないだろ。千頭もの馬で、しかも良馬なんて、こうするしかないだろ」

 周通は何か言いかけて思いとどまった。確かに馬が欲しいと言ったのは自分だし、何より必要なのである。段景住に任せると決めたからには、周通も腹をくくるしかなかった。

 はっ、と周通が弾かれたように段景住の顔を見た。

「狗児、お前、もともと」

 段景住は意味ありげににんまりすると、牧の方へとひとり歩きだした。

「とりあえず隠れてるんだぜ、周通」

 周通は段景住の背を見送った。

 段景住は商人などではない。もともと馬泥棒なのだ。

 いや周通が勝手に思い込んでいただけだった。そう言えば狗児は、商人だなどとひと時も口にしていなかったのだ。

 すまない、李忠の兄貴。

 こうなれば作戦を上手く成功させるしか道はない。周通は段景住を見守った。

 牧の番人と思われる男に近づいてゆく。段景住の笑い声が聞こえる。段景住が腰にぶら下げていた酒瓶を揺らしてみせる。番人が笑いながら、段景住を見張り小屋に連れて行った。

 大丈夫なのだろうか。心配する周通の顔を、段景住がちらりと見た気がした。

 雪原が赤く染まり、やがて藍そして黒へと変わった。

 周通と手下たちは寒さに耐えながら丘の陰に隠れ、段景住を待った。

 来た。小屋から段景住が出てきた。

 丘にいる周通たちに向かって手を振っている。

「行くぞ」

 周通らが丘を駆けおりるのを確認すると、段景住が牧の奥へと駆けた。周通らはその後に続いた。

 厩舎があった。

 手際よく、段景住が柵を開け、馬を引きだしてくる。そして周通の手下が何頭かまとまったところで、牧の外へと連れ出してゆく。

「おい、狗児。番人はどうしたんだ」

「大丈夫だ。あいつら完全に寝てるさ」

 あの酒か、と周通は思った。客にしびれ酒を飲ませて、金品を奪うなどという居酒屋がある。その類(たぐい)かと思ったが、どうやら違った。

 馬など大型獣を眠らせる時の薬があるという。それを少し混ぜてあるというのだ。

「しびれ酒みたいに寝覚めは悪くないんだぜ」

 などと嘯いているが、動物用の薬を使うなどよっぽど性質(たち)が悪い。だがおかげで上手くいきそうだ。周通は苦笑しつつも、段景住に感謝していた。

 そうして素早く十余りの牧場から馬を盗み出していった。

 しかしここまでしても女真族から追われることはなかった。周通らは段景住が手配した契丹人の服装をしていたのだ。もともと遼の支配下にあった女真族に、馬泥棒は契丹人だと思わせるためで、それはまんまと上手くいったようだった。

「もうこれくらいにしよう、狗児。予定より数は少ないが、もう充分だ。これ以上は女真の奴らもさすがにおかしいと気付くだろう」

「そうか、そうだな。ここらが潮時だな」

 手下たちは先に馬を連れて帰らせている。李忠にも、少し遅くなると伝言を頼んである。

 明け方前、周通と段景住は大きめの石の雪を払い、腰を掛けた。

「しかし痛快だったなあ。今だから言うが、はじめはお前を疑ってもいたのだ」

「まあ、そうだろうな。でも役に立てて良かったよ、周通。じゃあ、気をつけて帰るんだぜ」

「お前は、帰らないのか」

「俺はもう一か所だけ、行ってみる。なに、危なくなったらすぐ逃げるさ。これでも金の地には慣れてるんだぜ。それに」

 俺に故郷はないからな。

 笑いながら段景住は言ったが、どこか寂しげでもあった。

 周通は、ふと真面目な顔つきになった。

「そうか。世話になったな、狗児。だけど帰る場所なら、あるんだがな」

 段景住が、はっとした顔で周通を見た。

「青州の桃花山。俺はそこで山賊をしている。もしその用事が済んだら、来てみないか。李忠の兄貴も、きっと喜ぶぞ」

「へっ、俺は金毛犬の段景住だぜ。遥か金の地をも股に掛ける馬泥棒だせ。俺の行くところが、俺の家さ」

 そう言う段景住に、周通は人好きのする笑顔を見せた。

「はは、こいつはすまんな。天下の狗児さまを引き入れようなんて、大それた考えだったよ。でも」

「それ以上、言うなって。まあ、気が向いたら行ってやらぁな」

 段景住が横を向いて、帽子を目深(まぶか)にかぶった。ぐすり、と鼻を鳴らした。

 東の山並みがほんのりと白みだしてきたようだ。

 どこからか馬の嘶(いなな)きが、聞こえたような気がした。

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