108 outlaws
布陣
三
本隊が来る前に、梁山泊など蹴散らしてくれよう。
そう息巻いていた遼軍だったが、いまは水を打ったように静まり返っていた。
大将の一人である瓊妖納延が、地に倒れ伏している。すでに息絶えていた。
九紋竜の史進が、三尖両刃刀の血をふるい落とし、悠々と自陣へと戻ってゆく。
「おのれ賊将め」
顔を真っ赤にした寇鎮遠が飛び出した。
史進と入れ違うように馬を駆るのは、病尉遅の孫立。竹節虎眼鞭を右手に、颯爽と寇鎮遠に迫る。
二騎が交差した。激しい音が響き渡った。
両者が馬首を返し、再び向き合う。今度は馬を止め、打ち合いになる。
孫立の鞭が振るわれるたび、寇鎮遠の顔に苦悶が滲む。
堪らずとばかり、寇鎮遠が離れた。そのまま自陣へと逃げだした。
逃がさじと、孫立がそれを追った。しかし距離が空いてしまった。孫立は鞭を了事環にかけ、弓矢を手にした。
遠ざかる寇鎮遠の背を目がけ、矢を放った。
矢は一直線に飛ぶ。
だが達する寸前、寇鎮遠が体を捻り、何と矢を掴みとってしまったのだ。
これには孫立も瞠目した。
寇鎮遠の妙技に、遼軍が湧きあがった。それに後押しされ、寇鎮遠も意気が揚がる。
鞍から弓を外し、孫立の放った矢をつがえた。
「お返しだ」
体を捻り、矢を放つ。ひょうと風を切る音が鳴る。
孫立の体が吹っ飛ぶように後ろに倒れた。
梁山泊陣営からは悲鳴が、遼の陣からは歓声が上がった。
仕留めたか。寇鎮遠が馬を返す。
上体をのけぞらせたままの孫立を乗せ、馬は走り続ける。足が辛うじて鐙に引っ掛かっており、そのために落ちなかったようだ。
とどめを刺してくれる。
槍を手に寇鎮遠が駆けた。
孫立は倒れたままぴくりとも動かない。
槍の届く間合いで、突然孫立が上体を起こした。
死んだ振りか。
驚く寇鎮遠だったが、すでに攻撃態勢に入っている。そのままの勢いで槍を突きこんだ。
喰らえ。寇鎮遠がにやりとした。
槍先が孫立の甲に触れた。
刹那、孫立が体を半身に捻った。
槍が突き立てる場所を失った。槍は微かに甲を傷つけただけだった。
寇鎮遠が前につんのめる。
孫立の手に、鞭が握られていた。
がら空きになった寇鎮遠の頭に、それが振り下ろされた。
瓜が割れるように、兜ごと寇鎮遠の頭が削ぎ落とされた。
遼軍の歓声が、瞬く間に悲鳴に変わった。
敗走する遼軍を追った梁山泊だったが、一旦引き返さざるを得なかった。
遼の本隊が近くに迫っていたのだ。山上から見ると、見渡す限り兵で埋め尽くされており、地を揺るがすほどの進軍だ。
兀顔光率いる、二十万の軍勢である。
冷や汗を流す宋江。
「実際目にすると、これほどとは」
「かつて謝玄は五万の兵で、百万の敵を討ち破りました。勝敗の常は兵力で決まるものではありません」
呉用の言葉に、宋江もやや落ち着きを取り戻す。いまさら慌てても仕方がない。自軍を信じ、全力を尽くすのみだ。
陣営の周囲に鹿角を植え、塹壕を掘り、守りを固める。
朱武の指揮で九宮八卦のの陣を敷く。
秦明、関勝、林冲らを前方に配し、後陣に昨夜合流した盧俊義を置く。そして宋江は中軍である。
地響きとともに遼軍が姿を現す。梁山泊など歯牙にもかけぬような、泰然とした進軍だった。
雲梯の上で朱武が唇を噛む。
敵軍はすでに陣を組みながら進んできていた。兀顔延寿が用いたものより遥かに巨大で、高度な陣形であった。
牢の中で兀顔延寿は隠そうともせず、誇らしげに言っていた。
燕京の精兵を率いる統軍が、父である兀顔光だと。兀顔延寿の陣の知識は父譲りという事か。そしてその父、兀顔光という男の底知れなさを、目の前にした陣で実感していた。
宋江の呼びかけで、朱武は我に返った。
「朱武よ、相手の陣が分かるか」
「はい。太乙混天象の陣、でしょう」
推測のような言い方になってしまったが、間違いはない。ただ圧倒的な巨大さに、気圧されてしまったのだ。
敵の陣形は分かった。だが。だがしかし、どう戦う。
朱武は眼前に迫る、さながら生き物のように蠢く陣を睨みつけた。
東西南北に四つの陣を配する。軍装が方位で揃えられており北は黒、東は青、南が赤で西が白である。その四つの陣に二十八宿将が、それぞれ七宿配置されている。さらに前方には日月の陣が左右に置かれていた。
東西南北の陣の間にも四つの陣があった。羅睺、紫炁、計都、月孛の凶星が四方に陣取っている。
そして中央には兀顔光が守護する黄色の軍装。
そこに屈強な兵に守られ、王がいた。竜車に乗り、どうだと言わんばかりの表情で梁山泊軍を見据えている。
後陣の盧俊義の元へ、燕青が駆けこんできた。報告を聞き、盧俊義の目の色が変わった。
「なんだと。本当なのか」
「はい。間違いありません」
遼の王の隣、右丞相の位置にいる男。それが褚堅だというのだ。
檀州で、銭の流れを任せていた男。それが露見して消されたと思っていた。
違った。
あの時感じた違和感。綺麗すぎたのだ。だが、これで繋がった。
消されたのではない、自分から消えたのだ。
「なるほどな」
盧俊義は心中に怒りの炎がふつふつと燃え上がるのを感じた。