top of page

布陣

 二万五千の兵、そして李集と太真胥慶の軍を合わせた軍勢が幽州に到着した。

 率いるのは兀顔延寿。

 兀顔延寿は斥候の報告に眉をしかめる。

 梁山泊軍はすでに、方山の麓に陣を敷いて待ち構えているという。

 だが雲悌の上で、その布陣を見た延寿は口の端を歪めた。

 李集が訊ねた。

「どうされたのです」

「がっかりしたのですよ。どんなに梁山泊が強いかと思っていたら、こんな陣で迎えられるとは。見くびられたものですね」

 李集と太真胥慶は顔を見合わせる。

「九宮八卦の陣です。ありふれた陣ですよ」

 延寿は呆れたように、両手を広げてみせた。

 そして、まるで万全の構えだと言わんばかりの梁山泊軍に向かって、大声で告げた。

「梁山泊も底が知れたな。九宮八卦の陣などで我らの相手ができると思っているのか」

 馬上の兀顔延寿が右手を上げ、旗を振る。

 すると軍勢が生き物のように動きだし、ひとつの陣形を作り上げた。

 対する宋江が雲梯にかけのぼる。

 遼の敷いた陣形を見定めようとするが、分からない。

 それに朱武が答えた。

「あれは太乙三才の陣です」

 太乙とは太極とも言い、陰陽が混じり合った根元を表す。三才とは天地人、三つの才のことであり、易に基づいた陣形である。

 よし、と宋江が雲梯を下り、馬に乗る。

「お前たちこそ、太乙三才の陣などとありきたりなものを」

 ほう、と兀顔延寿が漏らした。

 太乙三才の陣を見破るとは、少しは見直した。ならばこれでは、どうだ。

 延寿が再び旗を振った。遼軍が陣形を変えてゆく。

 宋江の目が朱武を捉えている。

「河洛四象の陣です」

 そう朱武が伝えた。

 朱武は唸った。

 あの将、若いようだが陣形に造詣が深いようだ。

 朱武は、玉田県を思い起こした。耶律得重との戦である。

 相手は五虎靠山の陣を敷いた。だが戦いの最中で、陣が変化した。その変化は朱武にとって見た事のないものだった。

 朱武は対応しかね、梁山泊軍は敗走した。臍を噛む思いだった。

 そしていま、目の前で陣を繰り出す若い将に会った。

 河洛とは河図洛書のこと。

 黄河に現れた竜馬と、洛水に現れた亀の背に描かれていた図をそれぞれ河図、洛書といい、八卦の源となったとされる。

 宋江には、ありきたりな、と言ったが実はそうではない。

 書物には現れるものの、朱武もその目で見るのは初めての陣なのだ。

 この北の辺境に、このような陣を使いこなす業が伝わっていたとは。

 朱武は目の前に展開される陣を見て、興奮さえしていた。

 兀顔延寿の顔から、余裕が消えつつあるのを、太真胥慶は見逃さなかった。

 梁山泊軍がまたも陣形を見破ったのだ。

 太真胥慶も李集も気を揉んでいた。見破られようが、このまま戦えば良いのではないか。兵力は勝り、地の利も握っている。強力とはいえ、所詮は山賊あがり。賀重宝は敗れたが、今度こそはという思いもある。

 兀顔延寿が旗を三度上げた。

 口を開きかけた太真胥慶を、李集が止めた。

 確かに兀顔延寿という将の才能を認めている。若くして武の道でも抜きんでていたし、人望も厚い。さらに若くして兵法を極めており、古今の陣形を知り尽くしている。耶律得重をはじめとする諸将に指南したのは、兀顔延寿であった。

 しかし、どうもそこに固執する癖があるようだ。こだわり過ぎて大局を見失ってもらっては困るのである。

 そんな二人の思いを余所に、陣形が変化し終えた。

 兀顔延寿は、どうだという顔をして梁山泊軍を睨む。

 朱武は、循環八卦の陣に変化した事を宋江に告げた。

 憤慨した兀顔延寿は陣をさらに動かす。

 それも朱武によって喝破される。諸葛亮が考えたとされる八陣図だ。

 だが朱武は宋江に静かに言う。

「向こうの一連の陣形の変化は、易経に基づくものです。辛うじて知識にありましたが、実に絶妙な陣形なのです」

 うむ、と宋江も神妙に頷く。

 顔を紅潮させた兀顔延寿が、指を突きつけて怒鳴った。どこか口調も荒いものとなる。

「こちらの陣形を見破ったことは素直に褒めてやろう。貴様らも、こちらが驚くような陣形を見せてみろ」

「その前に、この九宮八卦の陣を破ることはできるのか」

「ほざくな。いいだろう、そんな小陣など踏み潰してくれるわ」

 宋江と朱武、呉用が頷きあう。敵が挑発に乗った。号令を発し、迎え討つ。

 太真胥慶と李集に待機を命じ、兀顔延寿が飛び出してきた。麾下の将校と一千の兵が駆ける。

 敵陣は文字通り、八卦を模した小陣に守られている。乾坤震巽坎離艮兌の八卦である。

 延寿が指を折って数える。今日は火にあたった。火の象である南の離を避け、沢の象、兌にあたる西の方角を攻める。

 雄叫びをあげ突進する兀顔延寿。そこに無数の矢が降り注いだ。なんとか半数のみが突入できたが、残りは引き返さざるを得なかった。

 前に向きなおった兀顔延寿は目を疑った。

 陣の内部は白く茫々としており、鉄のような銀のような壁に、延寿らが取り囲まれていたのだ。

「馬鹿な。陣の中に城だと」

 思わず叫んでしまうほど奇妙だった。

 引き返そうにも背後は水に閉ざされ、道が消えている。

 前に進むしかない。

 南へ進むと、一面火が渦を巻いている。次に東へ進めば、葉のついた木や枝が横たえており、左右も鹿角(さかもぎ)が続いており、通る事ができない。

 北へ行くと黒気が辺りを覆っていた。それは日を遮っており、掌さえも見えない暗黒の地であった。

 引き連れた兵たちは狼狽するばかり。兀顔延寿は必死に理性を保ち、指揮を取る。

 梁山泊の妖術に違いない。賀重宝もそれに敗れたと聞く。

「怖気づくな。何としてもこの陣を突破するのだ」

「どこへ行こうというのだ」

 駆けだそうとした兀顔延寿の前に、一騎が姿を現した。陣の中で初めて出会う敵だ。

 その将、呼延灼が鉄鞭を振りおろす。瞬時に兀顔延寿は、方天画戟でそれを受け止めた。両手が痺れる。

 反撃しようとしたが、なんと戟の柄が真っ二つに折れていた。

 何という打撃だ。

 呼延灼が兀顔延寿に体を寄せる。為すすべもなく、兀顔延寿は腰のあたりを抱きかかえられ、捕えられてしまった。

 配下たちが、次々と馬を下りて投降する。そもそも何も見えず、どうすることもできないのだ。

 雲梯上の公孫勝がさっと宝剣を振った。

 次の瞬間、黒気が晴れ、日の光が一面を照らした。

bottom of page