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再起

 楽和を東京開封府に寄越してほしい。王都尉と言う人物を紹介したい。という、宿元景からの手紙が届けられた。

 梁山泊が宜春圃で休息を取っている時の事である。

 都へやってくる様々な人間が、様々な情報を運んでくる。特に王都尉の元には、決して市井(しせい)の人々が聞くことのない情報が集まってくる。

 王都尉は画家でもあり、風流を好んだ。また駙馬でもあり、帝と縁が深い。高俅が、皇太子であった頃の帝と出会ったのも、その縁からだ。

 王都尉は、楽和の歌を必ず気に入る、と言うのだ。

「そんな大役を私が。どう思いますか義兄(にい)さん」

「わしがどう思うかではない。お主がどう思うかだ。答えはもうお主の中にあるのではないのか」

 その夜、楽和は孫立に相談した。何か助言をしてくれると思っていたが、違った。

 孫立の言葉が楽和に突き刺さった。

 答えはもうあるのではないか。

「すみません。そうかもしれません」

「すまぬ、きつく言うつもりではなかったのだ」

「義兄さんみたいな強さがあれば、私も」

 楽和が二の足を踏んでいる理由、それは招安前夜の事だ。

 高俅の監視役として、蕭譲と共に都に赴いた。しかし、いややはりというか高俅は約束を守らず、二人は屋敷に軟禁されることとなる。

 気丈に振る舞い、燕青らの助けで脱出したが、実のところ楽和はあの夜が恐ろしかったのだ。

 謎の黒いふたつの影に追われた。特に恐ろしかったのは燕青を追った影だ。

 その影から聞こえたのは、無だった。

 どんな人間からも何らかの音を感じられる。しかしまったくの無だったのだ。楽和にとってそれは信じがたい事だった。

 次に会ったならば、と考えるだけで寒気を覚える。

「強さなど、ひと言で括れはしない。お主にしかできない事がある。だから宿太尉が指名したのではないか。わしは鼻が高いよ」

 何か言おうとして、楽和は口を閉ざした。

 孫立も、自身の力の無さを知った人間だからだ。

 寝食を惜しんで努力した事が弟の、孫新の生来の才能に敵わないと知ったのだ。その絶望はいかばかりだったろう。

「遅くまですみませんでした。心を決めました。私ができる事を精一杯やります」

「そうか」

 孫立の目が、立ち去ろうとする楽和を優しく見つめる。

 そんな孫立だからこそ改めて思う。

「義兄さん、やっぱりあなたは強い人です」

 

 楽和は尹(いん)と名乗った。ある金持ちからの紹介という事になっている。

「梁山泊の楽和どのですな」

 王都尉が開口一番そう言った。

 失敗した。楽和は顔を青くし、身構えた。

 だが王都尉は、心配はいらないと静かに告げた。

「君の目的が何だろうと、わしには関係がない。いや、むしろ嬉しいのだよ。あの鉄叫子がわしの屋敷に来てくれるなんて」

「信じて、良いのですか」

「わしは誰の味方でもない。才能のある者が好きなだけだ」

 信じるしかない。覚悟を決め、屋敷へと足を踏み入れた。

 想像以上の光景だった。

 名は知らぬが、明らかに高位の役人たち、富裕な商人たち、さらに詩人や画家などが居並んでいる。出される料理も酒も、一級のものばかりだ。

 人というものは、酒の量が増えると口数も増えるものだ。

 彼らの口にのぼる話題、特に政治や軍事に関しては、確かに重要なものが多かった。楽和は酒をちびちびとやり、聞いていない風を装い、懸命に耳を澄ました。

 宴もたけなわとなった頃、王都尉がちらりと楽和を見た。

「今日は、友人から推薦されたお方が来られておりましてな。ぜひご紹介したい」

 と王都尉に促される。

 尹こと楽和は一同に挨拶をし、軽く歌い始めた。

 おお、と驚きの声が漏れた。一曲終えると、割れんばかりの喝采が起きた。

 丁重に頭を下げ席に戻ろうとするが、もう一曲要望された。断ったのだが王都尉の手前、応じるしかなかった。

 結局、三曲ほど歌った。

 喝采を浴びる事が、本心ではやはり嬉しかった。

 夜も更け、人数は減ったが酒宴はまだ続くようだ。

 帰るきっかけを掴めず、何人かと話をしながら楽和が卓の端にいた。

 そこへ軍官のような男がいそいそとやってきた。急な会議で遅れてしまったらしい。先に来ていた顔見知りたちと乾杯し、皿に手を伸ばした。声の大きな男だった。

 少しのち、男は楽和の方をちらりと見た。明らかに怪しんでいる目つきだ。新顔だと知り、男はやや声をひそめた。楽和も顔をそむけた。だが、男の声は聞こえていた。

 童貫が甥を軍師に抜擢し、戦に出ていたらしい。淮西を支配する王慶討伐のためだ。どうやら王慶という男に私怨があるという。

 しかし負けた。完膚なきまでに敗れたという。

 もちろん、敗れた報告は帝に上がらない。招集した地方軍か、天候か病気のせいにして撤退という話になるはずだ。

 なるほど、宿元景が言っていた事が理解できた。

 もう少しだけ滞在し、楽和は腰を上げた。

「いつでも歓迎する。また来てくれ」

 王都尉が含みのある顔でそう言い、楽和は屋敷を出た。

 背後に気配を感じた。

 宿元景がつけてくれた護衛だ。いかにも軍人然としており、虎のような眼をしている、と思った。

「遅かったから心配したぞ。さあ戻ろう」

「すみません、米璋(べいしょう)どの」

 少し歩いたところで米璋が楽和の前に出た。米璋の顔が険しい。

 あ、と楽和も感じた。あの時の影の気配を、微かに感じた。

 米璋がいつでも刀を抜けるように構えている。

 冬の夜が、一層寒く感じた。

 する内に、通りの向こうから見回りの兵が数人現れた。と同時に気配は消えた。

「助かった。今のうちに行こう」

 膝が震えている楽和を促すように、米璋が先に進んだ。

 そう言えば、あの夜も見回りに助けられたと、燕青が言っていた。李鋼という高官が、警備を増員したのだという。

「李綱どのは、宿太尉と昵懇でな」

 米璋が教えてくれた。

 梁山泊だけではない。宿元景も李綱も、見えないところで戦っているのだ。

 闇の渦巻く東京開封府にも、味方はいるのだ。

「参りましょう」

 楽和は震える己の腿を叩き、歩きだした。

 

 衛州。戦線からは離れた場所である。

 だが、守将として残った呼延灼は神経を張りつめさせていた。

 いま、公孫勝が祈祷を行っている。敵側から、強力な黒い気を感じたというのだ。見えぬ威勝の方向を睨み、呼延灼が腕を組む。

 まさかとは思ったが、田虎軍にも妖術を使う者がいるとは。

 高廉、樊瑞、賀重宝。彼らを思い出した。いくら強い軍人だろうと妖術にはひとたまりもない。林冲でさえ、そう言うのだ。

 術には術である。

 祈祷の間に籠り、どれほど経っただろうか。呼延灼が朝議を終えたところへ、公孫勝が現れた。呼延灼の姿を見て、ふらりとよろけ、膝をついた。

「早く、水を」

 部下に言い、呼延灼が駆け寄った。公孫勝はやや憔悴していたが、目はしっかりとしていた。水で唇を軽く湿らせ、ゆっくりと飲み干した。

 呼延灼どの、と掠(かす)れた声で話し始めた。呼延灼はじっと耳を傾ける。

「行かねばなりません。すぐに兵と、馬を」

「しかし、その体では。相手は何者なのだ」

「強大な力を持っている道士です。互角か、いや勝てるかどうか」

「ならば、なおの事」

 公孫勝がゆっくりと立ち上がる。

「それでも、私が行かねばならないのです。お願いです、呼延灼どの」

 呼延灼は唇を噛み、公孫勝を見つめた。そしてすぐに部下に指示を飛ばした。

「準備が整うまで、少しでも休むのだ」

 止めることはできない。逆の立場であったならば、自分でも同じ事を言うだろう。

 それに、呼延灼は見たのだ。

 公孫勝のその目は、決然とした光を湛えた、戦に赴く武人のそれだった。

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