108 outlaws
再起
四
楽和を東京開封府に寄越してほしい。王都尉と言う人物を紹介したい。という、宿元景からの手紙が届けられた。
梁山泊が宜春圃で休息を取っている時の事である。
都へやってくる様々な人間が、様々な情報を運んでくる。特に王都尉の元には、決して市井(しせい)の人々が聞くことのない情報が集まってくる。
王都尉は画家でもあり、風流を好んだ。また駙馬でもあり、帝と縁が深い。高俅が、皇太子であった頃の帝と出会ったのも、その縁からだ。
王都尉は、楽和の歌を必ず気に入る、と言うのだ。
「そんな大役を私が。どう思いますか義兄(にい)さん」
「わしがどう思うかではない。お主がどう思うかだ。答えはもうお主の中にあるのではないのか」
その夜、楽和は孫立に相談した。何か助言をしてくれると思っていたが、違った。
孫立の言葉が楽和に突き刺さった。
答えはもうあるのではないか。
「すみません。そうかもしれません」
「すまぬ、きつく言うつもりではなかったのだ」
「義兄さんみたいな強さがあれば、私も」
楽和が二の足を踏んでいる理由、それは招安前夜の事だ。
高俅の監視役として、蕭譲と共に都に赴いた。しかし、いややはりというか高俅は約束を守らず、二人は屋敷に軟禁されることとなる。
気丈に振る舞い、燕青らの助けで脱出したが、実のところ楽和はあの夜が恐ろしかったのだ。
謎の黒いふたつの影に追われた。特に恐ろしかったのは燕青を追った影だ。
その影から聞こえたのは、無だった。
どんな人間からも何らかの音を感じられる。しかしまったくの無だったのだ。楽和にとってそれは信じがたい事だった。
次に会ったならば、と考えるだけで寒気を覚える。
「強さなど、ひと言で括れはしない。お主にしかできない事がある。だから宿太尉が指名したのではないか。わしは鼻が高いよ」
何か言おうとして、楽和は口を閉ざした。
孫立も、自身の力の無さを知った人間だからだ。
寝食を惜しんで努力した事が弟の、孫新の生来の才能に敵わないと知ったのだ。その絶望はいかばかりだったろう。
「遅くまですみませんでした。心を決めました。私ができる事を精一杯やります」
「そうか」
孫立の目が、立ち去ろうとする楽和を優しく見つめる。
そんな孫立だからこそ改めて思う。
「義兄さん、やっぱりあなたは強い人です」
楽和は尹(いん)と名乗った。ある金持ちからの紹介という事になっている。
「梁山泊の楽和どのですな」
王都尉が開口一番そう言った。
失敗した。楽和は顔を青くし、身構えた。
だが王都尉は、心配はいらないと静かに告げた。
「君の目的が何だろうと、わしには関係がない。いや、むしろ嬉しいのだよ。あの鉄叫子がわしの屋敷に来てくれるなんて」
「信じて、良いのですか」
「わしは誰の味方でもない。才能のある者が好きなだけだ」
信じるしかない。覚悟を決め、屋敷へと足を踏み入れた。
想像以上の光景だった。
名は知らぬが、明らかに高位の役人たち、富裕な商人たち、さらに詩人や画家などが居並んでいる。出される料理も酒も、一級のものばかりだ。
人というものは、酒の量が増えると口数も増えるものだ。
彼らの口にのぼる話題、特に政治や軍事に関しては、確かに重要なものが多かった。楽和は酒をちびちびとやり、聞いていない風を装い、懸命に耳を澄ました。
宴もたけなわとなった頃、王都尉がちらりと楽和を見た。
「今日は、友人から推薦されたお方が来られておりましてな。ぜひご紹介したい」
と王都尉に促される。
尹こと楽和は一同に挨拶をし、軽く歌い始めた。
おお、と驚きの声が漏れた。一曲終えると、割れんばかりの喝采が起きた。
丁重に頭を下げ席に戻ろうとするが、もう一曲要望された。断ったのだが王都尉の手前、応じるしかなかった。
結局、三曲ほど歌った。
喝采を浴びる事が、本心ではやはり嬉しかった。
夜も更け、人数は減ったが酒宴はまだ続くようだ。
帰るきっかけを掴めず、何人かと話をしながら楽和が卓の端にいた。
そこへ軍官のような男がいそいそとやってきた。急な会議で遅れてしまったらしい。先に来ていた顔見知りたちと乾杯し、皿に手を伸ばした。声の大きな男だった。
少しのち、男は楽和の方をちらりと見た。明らかに怪しんでいる目つきだ。新顔だと知り、男はやや声をひそめた。楽和も顔をそむけた。だが、男の声は聞こえていた。
童貫が甥を軍師に抜擢し、戦に出ていたらしい。淮西を支配する王慶討伐のためだ。どうやら王慶という男に私怨があるという。
しかし負けた。完膚なきまでに敗れたという。
もちろん、敗れた報告は帝に上がらない。招集した地方軍か、天候か病気のせいにして撤退という話になるはずだ。
なるほど、宿元景が言っていた事が理解できた。
もう少しだけ滞在し、楽和は腰を上げた。
「いつでも歓迎する。また来てくれ」
王都尉が含みのある顔でそう言い、楽和は屋敷を出た。
背後に気配を感じた。
宿元景がつけてくれた護衛だ。いかにも軍人然としており、虎のような眼をしている、と思った。
「遅かったから心配したぞ。さあ戻ろう」
「すみません、米璋(べいしょう)どの」
少し歩いたところで米璋が楽和の前に出た。米璋の顔が険しい。
あ、と楽和も感じた。あの時の影の気配を、微かに感じた。
米璋がいつでも刀を抜けるように構えている。
冬の夜が、一層寒く感じた。
する内に、通りの向こうから見回りの兵が数人現れた。と同時に気配は消えた。
「助かった。今のうちに行こう」
膝が震えている楽和を促すように、米璋が先に進んだ。
そう言えば、あの夜も見回りに助けられたと、燕青が言っていた。李鋼という高官が、警備を増員したのだという。
「李綱どのは、宿太尉と昵懇でな」
米璋が教えてくれた。
梁山泊だけではない。宿元景も李綱も、見えないところで戦っているのだ。
闇の渦巻く東京開封府にも、味方はいるのだ。
「参りましょう」
楽和は震える己の腿を叩き、歩きだした。
衛州。戦線からは離れた場所である。
だが、守将として残った呼延灼は神経を張りつめさせていた。
いま、公孫勝が祈祷を行っている。敵側から、強力な黒い気を感じたというのだ。見えぬ威勝の方向を睨み、呼延灼が腕を組む。
まさかとは思ったが、田虎軍にも妖術を使う者がいるとは。
高廉、樊瑞、賀重宝。彼らを思い出した。いくら強い軍人だろうと妖術にはひとたまりもない。林冲でさえ、そう言うのだ。
術には術である。
祈祷の間に籠り、どれほど経っただろうか。呼延灼が朝議を終えたところへ、公孫勝が現れた。呼延灼の姿を見て、ふらりとよろけ、膝をついた。
「早く、水を」
部下に言い、呼延灼が駆け寄った。公孫勝はやや憔悴していたが、目はしっかりとしていた。水で唇を軽く湿らせ、ゆっくりと飲み干した。
呼延灼どの、と掠(かす)れた声で話し始めた。呼延灼はじっと耳を傾ける。
「行かねばなりません。すぐに兵と、馬を」
「しかし、その体では。相手は何者なのだ」
「強大な力を持っている道士です。互角か、いや勝てるかどうか」
「ならば、なおの事」
公孫勝がゆっくりと立ち上がる。
「それでも、私が行かねばならないのです。お願いです、呼延灼どの」
呼延灼は唇を噛み、公孫勝を見つめた。そしてすぐに部下に指示を飛ばした。
「準備が整うまで、少しでも休むのだ」
止めることはできない。逆の立場であったならば、自分でも同じ事を言うだろう。
それに、呼延灼は見たのだ。
公孫勝のその目は、決然とした光を湛えた、戦に赴く武人のそれだった。