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破戒

 腹が空(す)いた。

 昨日から何も食べていなかった。桃花山での別れの宴を辞した事を悔やんだが、もう遅かった。

 日も暮れかけた頃、大きな建物が視界に入った。近づいてみるとそれは寺院らしかった。だが塀はひび割れ、門扉さえも開け放たれたままだ。門の上には朱塗りの額が架かっている。額には金文字で、瓦罐(寺(がかんのてら)と書かれていた。

 魯智深は門をくぐり、石橋を渡った。目の前にそびえる寺院はすでに廃墟と化していた。土塀は崩れ、窓や壁も壊れたままだ。建物の中にも塵が厚く積もり、兎か狐の足跡が点々と残されるだけ。天井には綿のように蜘蛛の巣が張られている。寺の守護神である羅漢像もすでに首が落ち、風雨にさらされるままだ。

 寺のあちこちを覗いて見るが人の気配がない。一縷の望みを託し、魯智深は奥にある厨房へと向かった。その奥の小屋に食べる物があるかもしれない。

 近づくと、そこに数人の老僧がいた。

 何だ、人がいるではないか。魯智深は言った。

「わしは五台山からの旅の者だ。すまぬが飯を一杯いただけませぬか」

 その声に驚き老僧たちが、一斉に魯智深を見る。皆、痩せこけ骨と皮ばかりで、着物もぼろぼろになっている。座したまま手で這っている者や、何とか立ち上がろうとする者もいたが、一様に足腰が悪いようだった。僧の一人がかすれた様な声を出した。

「五台山からの、お方に、大変、申し訳ないのですが、この寺には、もう、食べる物が、ないのです」

「こんな大きな寺に、食い物が無い訳があるか。何でも良いのだ」

「うちは、檀家を、持たない、托鉢の寺、なので」

 そこへ何かの匂いが漂ってきた。魯智深が奥へ行くと、そこで粥(かゆ)が煮られていた。

「嘘を申すな、ここに粥があるではないか」

 ああっ、と老僧たちが魯智深にすがりついてきた。さながら地獄の餓鬼のようだ。思わず後ずさる魯智深。

「すみません、それは、托鉢で、やっと、手に入れた、米、なのです。わしらは、三日も、何も、口に、していないのです」

 老僧の一人が息も切れ切れに訴える。

「ええい、わかった。粥はお前らが食え。しかし、一体何が起きたのだ、この寺に」

 粥をかきこみながら一人が答えた。

 この寺は、僧に乗っ取られたのだ、と。

 

 瓦罐寺(がかんじ)は由緒ある古刹(こさつ)で、かつては僧も大勢いた。

 ある時、二人の男が寺へやって来た。一人は雲水、もう一人は道人だった。彼らが住持(じゅうじ)に居座ると、この寺の崩壊が始まった。

 寺の装飾品や仏像などを売って金にしては、酒や肉を飲み食いするようになった。二人は横暴を極め、諌める者は容赦なく殺された。だから多くいた僧も逃げ出してしまった。残されたのは足腰の弱い老僧たちのみであった。

 彼らはそれからも、どこからか金を手に入れ、毎日酒盛りをしているという。近頃は若い女を攫ってきて側に侍らせてもいるという。

 雲水の名は崔道成(さいどうせい)。堅肥(かたぶと)りで、肩や腕は筋肉が盛り上がっており、肌が黒光りするほどで、生鉄仏(せいてつぶつ)と呼ばれている。

 道人の名は丘小乙(きゅうしょういつ)。青白く幽鬼のような顔だが、背が高く敏捷な事から、飛天夜叉(ひてんやしゃ)と呼ばれているという。

 彼らの正体は山賊だった。この瓦罐寺を根城とし、近隣で強奪を繰り返していたのだ。

「あ、あれが、そうです」

 老僧の指さす先に、一つの影があった。天秤を担いだ背の高い男。飛天夜叉の丘小乙だろう。

 天秤には蓮に巻かれた肉と魚が乗っているようだ。もう一方は酒の瓶だ。

 鼻歌を歌いながら歩く丘小乙の跡をつける魯智深。

 丘小乙が方丈の塀の後ろへと消えた。魯智深が覗くと、そこは開けた場所になっており、大きな槐(えんじゅ)の木があった。その木の下に卓が据えられていた。その上には所狭しと料理や酒が並べられている。

 魯智深は思わず唾を飲んだ。見るとすでに腰かけている色の黒い男がいた。あれが崔道成だろう。側にいる女が酒の酌をさせられている。攫われたという女だろうか。遠目にも、嫌々という感じが見てとれる。

 魯智深が姿を現すと、驚いて崔道成が立ち上がった。

「お前らが生鉄仏と飛天夜叉か。この寺を荒らした報いを受けてもらうぞ」

「どこのお方か存じないが、同じ出家の身同士、まずは話を聞いてください」

 崔道成が笑みを浮かべて言った。酒で焼けた、かすれた声だった。

「寺を荒らしたのは奥にいた老僧たちの方なのですよ。わしらはここを修復しようとしているのです」

「よくもそんな大法螺を吹けたものだな。お前たちの正体は聞いておるわ」

 魯智深は気付く。一人いない。天秤を担いでいた男が消えた。

 背後に気配。風を切る音。

 魯智深は身体を捻りながら、禅杖を横薙ぎに払った。

 丘小乙は大きく後方へ飛びすさり、魯智深と距離をとる。

 またも背後に気配。崔道成が鉄杖で打ちかかってくる。横に転がり、一撃を避けた魯智深。先ほどの口上は時間稼ぎか。

 鉄杖を握る崔道成の筋肉が盛り上がる。黒光りする体躯に血管が浮き上がる。なるほど生ける鉄の仏とは、うまく言ったものだ。吼える生鉄仏。

「おとなしく成仏しやがれ、くそ坊主が」

「ふん、こんな奴が僧を名乗るとは、長老さまが嘆き悲しむわ」

 互いの鉄杖がぶつかり合う。

 次第に生鉄仏は魯智深の膂力に押されはじめ、防戦一方となった。

「成仏するのは、お前だったようだな」

 禅杖を振り上げた魯智深の背後を、再び丘小乙の白刃が襲った。

 なんとかかわした魯智深。丘小乙は魯智深の間合いぎりぎりの所で駆け回り、隙を見ては刀を閃かせる。

 さらに、息を整え態勢を立て直した崔道成が襲いかかる。

 魯智深も吼え猛り奮闘していたが、旅の疲れと空腹がたたり、次第に腕が重くなる。

 一対一ならば負けはしないが、これでは分が悪い。

 魯智深は気合一閃、禅杖を大きく振り回すと二人を遠ざけた。

 そして一散に門を目指し、駆けた。

 

 赤松の林だった。

 はるか頭上を覆い隠すその様は、紅の竜の如く。張り出す枝は蛇さながらで、まるで血をぶちまけた様な赤い樹皮に、魯智深は息をのんだ。

 どうしたものかと腰を下ろすと、木々の間に動く影を見た。また山賊か、返り討ちにしてくれると身構えるが、襲ってくる気配がない。

 坊主と分かって襲うのをやめたのか。

 怒りのやり場を失った魯智真が叫んだ。

「おい、こそこそしてないで出て来い」

 影が再び姿を現した。

「見逃してやろうとしたのに、命が惜しくないらしいな」

 月光は鬱蒼と茂る松に遮られ、男の顔が判別できない。声からすると若いようだ。

「わしは今、機嫌が悪い。手加減はできんぞ」

 二人は暗闇の中、打ち合った。

 影の刀が縦横に閃く。丘小乙などとは比べものにならない使い手だ。

 影の攻撃を凌ぎ、距離を置く魯智深。二人は睨みあう。

 さあ続きだ、と一歩前に出た魯智深を影が制した。

「待ってくれ。あんたの声に聞きおぼえがある。和尚、名は何というのだ」

「む、近頃よく名を聞かれるが、まずは自分から名乗ったらどうだ。山賊ごときに名などないか」

 がはは、と豪快に笑う魯智深。

 弾かれたように影が身を乗り出してくる。

「やはりあんたは。私です、渭州でお会いした史進です」

「何と史進か。李忠に続き、あんたにもまた会えるとは」

 急に魯智深が座り込んでしまった。怪我を負わせたのでは、と慌てる史進に言った。

「会って早々すまんが、なにか食い物を分けてくれんか」

 魯智深の腹の虫が大きく鳴いた。

 史進と魯智深は目を合わせ、笑った。

 

 王進(おうしん)には会えなかった。

 史進は渭州で魯智深らと別れた後、延安府へと向かった。だが折悪しく、王進は公用で長期不在中だった。

 縁があればまた会えるだろう。

 史進は、見聞を広める意味も兼ね、各地を旅する事にした。延安から北京(ほくけい)大名府(たいめいふ)、はては東にある東平府(とうへいふ)にまで足を運んだ。

 半年あまりの旅程で、路銀も底を尽き、この赤松林(せきしょうりん)で強盗まがいのことをしようとしていたという。

 魯智深は乾し肉をかじり、焼餅を頬張りながら聞いていた。史進から分けてもらったものである。

「女か」

 史進は苦笑した。

 実は東平府の、とある娼妓にのめり込み、金もほとんどそこで使い果たしたのだという。

「あまりのめり込むなよ。女は怖い。後々、痛い目を見ることになるぞ、気をつけろよ」

 はは、と史進は笑って言う。

「すっかり坊主らしい事を言うようになったな」

「がはは、よせよせ」

 腹を満たした二人は、得物を手に瓦罐寺へ戻った。

 史進は門の外で様子を窺いながら待機する。

 魯智深は足を忍ばせ、まずは残された老僧たちを逃そうと厨房へと向かった。

 そこは目を覆いたくなる惨状だった。老僧たちは皆、頭をかち割られており、脳漿が床にこぼれ、血の跡がそこかしこに飛び散っていた。

 禅杖を握る魯智深の手に力が入る。

 魯智深は合掌し、すまない、とつぶやくと生鉄仏と飛天夜叉がいた場所へと駆けた。

 案の定、二人はのうのうと酒宴を再開していた。

 生鉄仏の足元に女が倒れていた。顔面は蒼白で、首がぱっくりと斬り裂かれていた。女は自らの血だまりの上で事切れていた。

「貴様ら、命乞いは聞かぬぞ。あの世へ逝く準備はできたか」

 二人を睨みつけ、魯智深が吼える。寺全体がびりびりと震えるような咆哮だった。

「死にぞこないの坊主め。地獄へ逝くのはお前の方だ」

 二人が一斉に飛びかかってくる。魯智深は崔道成に狙いをつける。禅杖と鉄杖がぶつかり合う。崔道成が後ろによろける。驚いた顔で魯智深を睨む。

「さっきのわしとは違うぞ。観念せい」

 魯智深が一歩踏み出す。

 背後から風を切る音。魯智深は振り向く事もできない。

 もらった。丘道乙が思った時、目の前に人影が飛び込んできた。

 激しい火花と共に刀が弾かれる。丘道乙の手が痺れ、刀を落とさないようにするのがやっとだった。

「正々堂々、一対一同士と行こうじゃないか」

 助太刀に入った史進が、はっ、と気合を込めて踊りかかった。

 

 劣勢の崔道成だったが、何とか禅杖の攻撃を防いでいた。周りには魯智深の禅杖の巻き添えを喰らった卓や石燈籠などが散乱していた。

 寺の先にある石橋で二人は戦っていた。

「しぶとい坊主だ」

 魯智深の渾身の一撃が崔道成を襲う。かろうじて受け止めたが体勢を崩し、片足を踏み外してしまった。

「ぬあっ」

 崔道成はそのまま橋の下へ落ちてしまった。

 魯智深はそれを追い、橋の下へ回り込んだ。崔道成は足を捻り、動く事ができない。

「罪もない老僧や女を手にかけたな」

 禅杖を構えゆっくりと近づく。

「お前のせいなんだぜ、くそ坊主。爺どもが、助けが来ると騒ぎだし、女も生意気に言う事を聞かなくなり、天罰が当たると喚きやがる。どっちもうるさいから黙らせただけよ」

 さらに近付く魯智深。ゆっくりと禅杖を上げてゆく。

「こう見えても、わしは本物の坊主でな。その女の言う事は正しかったな」

 ぱん、という破裂音がした。

 頭部を失った崔道成がゆっくりと崩れ落ちる。

「これでお前も、本当の仏に成れたな」

 魯智深は禅杖の血をふるい落とすと、寺へと戻って行った。

 

「思いあがるなよ、若造」

 飛天夜叉の名に恥じぬ俊敏さで、史進を狙う白刃。

 丘小乙のどの攻撃も必殺だった。一太刀でも当たれば致命傷は免れない、はずだった。

 だが、助太刀に現われたこの男の腕は尋常ではなかった。どれもかわされ、弾かれ、いなされる。ついには相手の刃を防ぐので精いっぱいになっている。相手は笑みさえ浮かべている。

 崔道成も防戦一方になってしまう。

 崔道成が橋の下に落ちるのが見えた。

 もうだめだ。丘小乙は残りの力を逃亡に使う事にした。背を見せ、一散に走りだす崔道成。だがそれを見逃す史進ではなかった。

「逃さん」

 丘小乙は胸に熱いものを感じた。

 見るとそれは刀だった。背中から胸を貫いた、史進の刀だった。

 ゆっくりと熱さが痛みに変わってゆく。脈が激しくなり、それに応じて痛みも大きくなる。

「思いあがっていたのは、どっちかな」

 丘小乙は、俺か、と思った。

 史進の刀がもう一度、丘小乙の体を貫いた。

 

 二人は厨房のかまどで火をとり、松明を灯した。それを使って寺のあちこちに火を点けてゆく。

 風にさらされ、乾ききった建物はあっという間に炎に飲み込まれてゆく。

 老僧と女の遺骸とともに、寺そのものが荼毘(だび)に付された。

 それを見つめる二人の顔が、赤々と照らされている。

 折からの強風で、火は一気に勢いを増し、紅蓮の炎は天をも焦がすようだった。

 魯智深は禅杖を立て、片手で合掌の姿勢をとっていた。

「史進よ、今の世をどう思う。旅の中、その目で何を見た」

 魯智深はじっと炎を見つめながら聞いた。

「何を見た、って。まあ、どこも役人が威張りちらしていて、庶民が泣きを見ている、とか。どこにでも山賊が出るから、おちおち安心して旅もできない、とか」

「うむ、僧の姿のわしを見ると、助けてくれと人が寄ってくる。そもそも僧は人々を救うためのもの、寺から出もせずに念仏を唱えるだけでは、何も救えない」

 魯智深はやにわに歩き出した。史進も後を追う。

「わしが山から出された意味が、これだったのかもしれんな」

「救う、って。魯達、いや魯智深どの一人でか」

「わしとてそれは無理だ。だが同じ思いを持つ者が星の数ほど集まったら、どうなるのだろうか。お主や李忠と一度は別れたが、こうして再び会えた。坊主のようにいうのなら、これも仏のお導き、という奴だ。この世の縁はまこと奇なり、という長老の話を少しだけ分かったような気がするよ」

「同じ思いを持つ仲間、か」

 二人はしばらく歩き、街道へたどり着いた。

 史進は少崋山へ戻るという。屋敷は失ったが、彼の帰りを待つ者たちがいるというのだ。

 東京への道を踏み出した魯智深が振り向いて言った。

「もう寄り道はするんじゃないぞ」

「わかったよ、和尚。なんだかあんたには、また会えるような気がするよ」

 魯智深は史進の背中を見て、今日の借りは必ず返すと誓い、旅の無事を祈った。

 禅杖を立て、片手で合掌している自分の姿に気づいた魯智深は、本当に坊主らしくなってきてしまったな、と照れ笑いをした。

 明け始めた空に、魯智深の大きな笑い声が響いていた。

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