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破戒

「ついに今夜か」

 冷や汗を流しながら、劉(りゅう)太公がつぶやいた。

「お父様」

 娘が心配そうな顔で見つめ返す。目には涙。

 今夜、娘が嫁にゆく。本来ならば慶事だが、これは凶事だ。

 よりによって何故、うちの娘なのだ。

 よりによって何故、相手は山賊なのだ。

 刻一刻と時間が迫る。もうじき山賊がこの屋敷にやって来る。

 劉太公は祈るしかなった。

 神よ、仏よ、一体私が、娘が何をしたというのですか。どうかお救いください。

「太公」

 下男が劉太公を呼ぶ声を上げた。

 玄関の方が騒がしい。来たか。

 だが、玄関に立っていたのは山賊ではなかった。

 巨大な禅杖を携えた、巨大な僧侶だった。

 僧侶らしからぬ怪異な風貌。あまつさえひげまで蓄えている。

「すまぬが、一晩宿を貸してくれぬか」

 劉太公は、その仁王のような僧を、仏の使いだと直感した。

 

「そういう事ならば、わしが何とかしよう」

 訳を聞いた魯智深は、そう答えた。手には大ぶりの杯を持っている。

 劉太公の娘を見染めたのは、なんと山賊なのだという。山賊は、この桃花荘(とうかそう)の近辺にある、桃花山(とうかざん)に寨を構えている。今夜、屋敷に来る婿は、そこの二人の頭領の一人であるという。

「わしは魯智深と申す。五台山は智真長老の直弟子です。たとえ山賊だろうと、わしの説法で説き伏せて見せましょう」

 がはは、と笑い酒を飲む。

 あまりに風変りな僧である魯智深に困惑した劉太公だが、五台山の智真長老と言えば、その高名を知らぬものはない。大事な一人娘のためだ。魯智深に全てを委ねることにした。

「あんたたちは危ないから隠れていなさい。それと、もう少し酒はあるかね」

 魯智深が仏の使い、という直感を信じるしかなかった。

 

 日が暮れた。

 桃花山の方から太鼓や銅鑼の音が聞こえてきた。何やら歌声も聞こえてくる。それが徐々に近づいてくる。屋敷にいる劉太公や下男たちの心臓も早鐘のようだった。

 やがて山賊たちが姿を現した。四、五十の松明を手下どもがかざし、山道はまるで昼のようだ。その明かりの中心、馬上の若者が新郎だ。

 花模様の頭巾をかぶり、堂々たる体躯。涼しげな眼もとを見ると、一見好青年のようだ。しかし、彼こそ小覇王(しょうはおう)と名乗る、桃花山の頭領がひとり周通(しゅうつう)であった。

 手下どもに囃したてられ笑う周通の頬がほんのり赤い。すでに酒が入っているのだろう。

「お待ちしておりました、周通どの」

 平伏し、震える声で迎える劉太公。周通は馬から慌てて降りる。

「やめてください、親父どの。今日からあんたは俺の親父なのだ」

 周通は劉太公を起こし、屋敷へと案内される。

「さて、俺の嫁はどこだい」

 頬を赤く染めた周通が、きょろきょろとあたりを見回す。

「それが恥ずかしがって、出てこないので」

 それじゃあ、まず酒を、と言って周通は考えたが、やはり娘の顔を見たいと思った。

 案内された周通は、真っ暗な部屋の中へゆっくりと入る。

「どうして迎えに出ないんだ」

 布の擦れる音がした。寝台の方にいるようだ。手探りで近づく周通。帳(とばり)が手に触れ、それをまくり上げる。すぐそこにいるようだ。

「恥しがる事はないだろう」

 ふと手が人肌に触れた。ぴんと張った毬のような感触だが、これはどこだろうか。

「意外と毛深いんだな」

 おや、と周通は襟元を掴まれ引き寄せられる。

「女房の腕前を見せてやろう」

 耳元でだみ声が囁きかける。顔に酒臭い息がかかる。周通は逃れようとするが、枷(かせ)でもはめられたように動くことができない。

「な、な、な、お前は誰だ」

 顔面に激痛が走る。さらにふらついた所へ何発かくらった。

 周通は寝室の扉ごと吹っ飛ばされ、庭に背中から落ちた。

 起き上がれずにいる周通は見た。寝室からぬっと現われた大入道を。ひげ面の入道の頭が、月明かりでてらてらと光っていた。

 大きな音を聞き、駆け付けた劉太公は目を見張った。説き伏せると言っていたが、なんと腕力で殴り伏せているではないか。

「どうした、人の腹を撫でておきながら、ただで済むと思うなよ」

 庭に下りた魯智深は、ぺきぺきと指を鳴らし始める。

 さっき触れたのはこいつの腹だったのか。暗闇でのやり取りを思い出し、周通の顔が真っ赤になる。

「ふ、ふざけるな。野郎ども、こいつを片付けてしまえ」

 周通の命令で、手下どもが駆け付ける。

 魯智深がむんずと禅杖を掴み振り回すと、唸りと共に風が起きる。

「さあ来い」

 なんだ、あの化物入道は。手下どもはすっかり縮み上がっている。

 意を決して十数人が遅いかかるも、禅杖の一振りで弾き飛ばされてしまった。

 む、と魯智深は周通が消えているのに気付いた。今の機に乗じて逃げたのか。

 残された手下どもも、捨て台詞を吐き逃げてゆく。

「和尚どの、なんという事を」

 劉太公が慌てている。

「太公どの、これがわしの説法なのです」

 と、魯智深は岩のような拳をぐっと握った。

「やつら、援軍を呼んで来るでしょう。そうなればもう終わりだ」

「心配めさるな。山賊の千や二千、ものの数ではありません。太公どのと娘さん、この桃花荘は約束通りわしが守ります」

 一人で山賊の相手をするとは、なんという僧だ。しかし先ほどの戦いを見ると、不可能とも思えない。

 とりあえず飲み直そうか、という魯智深を見て、劉太公は深いため息をついた。

 

 蟒(うわばみ)か、と思うほど酒を飲んでいる。

 そろそろ桃花山の山賊たちが襲ってきてもおかしくない頃だが、魯智深はまだ酒を飲んでいる。

 しかし、何故か安心感も与えてくれるのだ。つくづく不可思議な男だ、と劉太公は思った。

 山賊たちが、と下男が報せに来た。

 来たか、と魯智深がのそりと腰をあげる。手には水磨の禅杖。劉太公も後を追い、外へ出た。

 山賊たちの表情は一様に凶悪だった。先ほどの婿入(むこいり)時の陽気さの欠片も残ってはいない。

「兄貴、奴だ。あのくそ坊主だ」

 周通が指を指して吼えたてる。

 兄貴と呼ばれた男が、手にした棒を構える。この男が桃花山、第一の頭領だ。

「凶暴そうな坊主だな。ぶちのめしてくれる」

 魯智深が禅杖を地面に突く。鈍い響きと揺れが山賊たちの足元まで伝わった。

「さあ、覚悟しておけ。わしの説法はちと骨身に染みるからな」

 がはは、と一歩踏み出した時だ。

 待て、と第一の頭領が叫んだ。

「聞き覚えのある声だ。坊主、名はなんと言う」

 魯智深は、山賊め怖気づきおったか、といぶかしみながらも答える。

「わしは五台山の魯智深だ。東京へ行く途中、この太公に助けを求められたのだ」

 頭領は眉に皺をよせ、何やら考えている。後ろで周通が、兄貴どうした、とけしかけている。

「姓が魯、だと。俗名は何という」

「俗名だと。出家前の名は魯達(ろたつ)というが、何の関係がある」

「やはり魯達どのか。お久しゅう、私を覚えておいでか」

 突如、頭領は棒をしまい、魯智深の前で拱手(きょうしゅ)した。

 周通と劉太公は二人とも、ぽかんと口を開けるばかりだった。

 

 桃花山の第一の頭領。それは打虎将の李忠であった。

 渭州の料亭で別れた翌日、李忠は魯達の噂を耳にした。なんと人を殴り殺したというではないか。どうしたものかと史進を訪ねるも、すでに旅立っており、李忠も渭州を離れることにした。

 旅の途中、この桃花山で周通に襲われた。だが李忠はそれを一蹴、周通を打ちのめしてしまった。

 ぜひ頭領に、という誘いに李忠は乗った。行くあてもなく、町にいては、詮議をかけられるかもしれないからだ。

 周通は李忠を兄貴と慕った。

 つい先刻まで自分が第一の頭領だったにも関わらず、である。手下たちの反対もなかった。周通がそう言うなら、という感じだった。周通は若く、手下たちとも友人のように接していた。

 李忠は一度、どうして山賊になどなったのかと聞いた事がある。

「男に生まれたからには、やっぱり天下を目指さなくちゃ」

 覇王とはいかなくても、だから小覇王なんだ、と照れくさそうに言った周通の顔を覚えている。

 

 三人は桃花山で酒を酌み交わした。

 李忠が話し、魯智深も経緯(いきさつ)を話した。

 周通は李忠が親しげにしているので困惑していたが、理由を知り納得した。

 魯智深が、劉太公の娘をあきらめてくれと、言った。その時も少し悩んだが、兄貴の友人の頼みなら、と承知した。

 この割り切りの良さ、気持ち良いくらいの潔さは自分にはないものだ、と李忠はいつも思う。しかし、もう少し物事に固執しても良いのではないか、とも思うのだった。

 しばらく逗留していた魯智深が出立するという。

 李忠と周通は別れの宴の手配をするから待っていてくれ、と出かけて行ったが待たなかった。止める手下を押しのけ、二人によろしく伝えてくれ、と脇道の草むらを下っていった。

 桃花山の山容を振り返る。

 何事にも慎重で細かい李忠と、良く言えば潔い周通との妙な組み合わせを思い出し、苦笑した。

 魯智深は達者でやれよ、と呟き、じゃらんと禅杖を打ち鳴らした。

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