108 outlaws
破戒
二
「坊主になれ、ですと」
魯達は目を丸くした。
県城から十里ほど行ったところにある七宝村(しちほうそん)の大きな屋敷、そこに魯達はいた。
「この先の五台山(ごだいさん)にある文殊院(もんじゅいん)の智真(ちしん)長老とは兄弟のような仲。安心してください。私は翠蓮を救ってくれたお礼ができ、魯達どのは身を隠す事ができる。まさに一石二鳥ではないですか」
優しげな目で、趙員外(ちょういんがい)が言う。
渭州から脱出した後、金老人は鄭の手の者が東京(とうけい)へ来るのでは、と考えて道を変えた。そして古馴染に会い、雁門県で趙員外を紹介されたという。
員外は翠蓮を一目で気に入り、妾にした。
鄭と違い、員外は本物の金持ちだった。着飾った翠蓮は見違えるように美しかった。
金親子を幸せにしてくれた員外の提案。行くあてもないこの身にとっては渡りに船だ。
人を殴り殺してしまった自分が僧になるとは、なんとも皮肉な巡り合わせではないか。
「わかりました。この魯達、よろこんで坊主になりましょう」
魯達が大きな声で、がははと笑う。
翠蓮も、くすくすと笑っていた。
五台山。
望海峰、桂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰の五つの主要な峰から成るこの山は、古くから文殊菩薩の聖地とされ、信仰を集めていた。
魯達は、天に向かってそびえ立つ五台山を前に、畏敬の念を禁じえない。
「噂に違わぬ壮大さよ」
峨峨たる山峰は人を寄せ付けず、頂は雲の遙か先。山肌から流れ落ちる瀑布は、地に達することなく霧となってゆく。
生い茂る巨大な松たちは、一体どれだけの時を生きてきたのだろうか。時おり木霊する吠え声は仙猿のものか。
二人を乗せた篭はやがて開けた場所に着いた。
文殊院である。
絢爛ではなく荘厳という感じだ。仏殿や宝塔、亭(あずまや)、厨(くりや)など大小様々な建物が並び、その間を僧たちが行き来している。
前方から一人の老僧が歩いてくる。
「あの方が智真(ちしん)長老です」
かなりの高齢のはずだ。顔に刻まれた深い皺から七十、八十いやそれ以上にも見える。しかし、時おりその顔が童子のように見える。一体、本当はどちらなのだろうか。
「こちらは魯達というものです」
趙員外に紹介され、長老に挨拶をする。ほほ、と笑うその顔は、やはり童子のそれだった。
二人は方丈(ほうじょう)へと案内された。智真長老が正面に座り、左右に多くの僧たちが控えている。趙員外は寺への寄進物を運ばせて、改めて長老に頭を下げた。
僧侶の免許状である度牒(どちょう)を購入していたが、代わりに出家させるのに相応しい者がなかなか現われなかった事。しかしこの度、それに適う者が見つかり本願を叶えるためにやって来た。それがこの魯達である、という旨を説明した。
話が終わり、智真長老は剃髪(ていはつ)得度(とくど)の手配をすると、二人を客間に案内させた。
その時、高位の僧がやってきて、長老に耳打ちした。
「魯達とかいうあの男、立ち居振る舞いも粗暴で、顔も凶悪です。大方、人殺しでも犯したのでは」
その進言を長老は一喝した。
「人を見た目で判断するものではない。あの男には数奇な命運が見える。将来、非凡な悟りを開き、お主らの及びもつかぬ人物となろう」
必ず得度させるのだ、そう言って智真長老はその場を去った。
魯智深(ろちしん)。
長老から「智」の一字をもらい、魯達は法名を授けられた。
剃髪の際、ひげは何とか残してもらった。
しかして僧になってはみたものの、一体何をすれば良いのだろうか。周りの僧はというと、一日中座禅を組んでいたり、経を読んでいたりするばかりだ。寺なのだから当たり前だろうが、もとより字が読めぬ魯智深は経も読めない。座禅も魯智深にとっては退屈極まりないものだった。
趙員外の手前、はじめはそれでも何とか取り組もうとはしていた。字も少しずつではあるが覚えたようだ。
やがて、ある冬の日。魯智深は懐かしい匂いを嗅いだ。鼻をくすぐる馥郁(ふくいく)たる香りが外から流れてきた。
悩むまでもなくある一字が頭に閃く。
酒、だ。
「おい、そいつは一杯いくらだ」
飛び出した魯智深は、桶を担いできた男に尋ねた。天秤棒で大きな桶を担いだ男は、魯智真の勢いに戸惑いながらも、ご冗談を、と苦笑いする。この酒は寺で働く者たちへの売り物だという。
「冗談ではない」
僧に酒など売ってしまえば、もうここで商売はできない。男も頑として、殺されても売らないと言い張る。
もう幾日、酒を口にしていないのだろう。すぐ目の前にあるのに、と考えると魯智深はいらいらしてきた。
「殺しなどせんわ。頼むから売ってくれと言っているのだ」
魯智深は思わず近くの木を殴りつけてしまった。人の腕ほどもあるその木は、みきみきと音を立て、簡単に折れてしまった。
ひっ、と悲鳴を上げ男が逃げだした。
むんずと魯智深は天秤棒をつかみ、引き戻す。そして男の襟首をつかみ、放り投げてしまった。
「はじめから売ればよいものを」
桶の蓋をこじ開け、ぐびぐびと音を立てて飲み始めた。
「酒代は明日、取りに来い」
魯智深が言うが、酒売りの男は他の僧にばれてはまずいと、ほうほうの体で逃げ帰った。
まるまるひと桶飲み干した魯智深はすっかり良い気分になり、やにわにもろ肌脱ぎとなった。
魯智深の胸から肩、そして背中一面には刺青が彫られてあった。血色の良くなった背中で、真っ赤な牡丹の花が雪中に映えていた。
二度目は赦されなかった。
先日、酒を飲んだ魯智真は酔ったまま門番を殴り飛ばし、院内で数十人と乱闘騒ぎを起こした。
智真長老に窘(たしな)められたが、それは赦してもらえた。
だが、酒の味の忘れられぬ魯智深はしばらくして街へ下り、そこでしこたま飲んでしまった。酔った魯智深は、今度は山門の金剛像に喧嘩を売り、その拳で粉々に破壊してしまったのだ。
さらに本堂に入り、手当たり次第に暴れまくる始末。まるで本物の金剛のようではないか。
喝、と長老の声が響いた。
はたと気付き、手を止める魯智深。困り果てた表情の長老と目が合った。
「智深よ、もうやめよ。こっちへ来るのだ」
全身の力が抜け、酔いも醒めた。見回すと十数人の僧たちや下働きの男たちがうずくまっている。建物のあちらこちらも壊れていた。
またやってしまった。この時ばかりは魯智深も深く反省せざるを得なかった。
長老の部屋で向かい合って座る。
長老の悲しげな瞳が魯智深を見つめ、やがて語り出した。
「智深や。これほどの事をしでかしたからには、もうここに置いてやる事は出来ぬ。新しい落ち着き先を手配しよう。員外どのにはわしから連絡しておく」
魯智深は、すみません、と頭を深く下げるしかなかった。
長老は続ける。
「お主は将来、大事(だいじ)を成す者。いずれはここから出て行く定めにあったのだ。我ら僧の本分は世の衆生を救う事。智深よ、その目で世の中を見よ。その耳で人々の声を聞け。お主にはわしらと違う方法で出来ることがあるはずだ。本意ではなかったといえ、お主も僧の端くれ。それを忘れるでないぞ」
そして長老は満面の笑みを浮かべた。
それは魯智深が初めて会った時の、童子のそれだった。
東京(とうけい)開封府(かいほうふ)にある大相国寺(だいしょうこくじ)。
智真長老の弟弟子(おとうとでし)である智清(ちせい)禅師の元へ行くことになった。
魯智深はもう一度、五台山を振り返った。
まるであの騒動など無かったかのように悠然とそびえている。
世話になったな、がはは、と東京への道を大股で歩き出した。
手には水磨(すいま)の禅杖(ぜんじょう)。件(くだん)の騒ぎで下山した際に鍛冶屋に打たせていたものだ。その重さ、実に六十二斤。十歳児ひとりほどの禅杖を片手で軽々と握っている。
別れに際し、長老が偈(げ)を授けてくれた。
林に遇(あ)って起(た)ち
山に遇って富み
水に遇って興(おこ)り
江に遇って止(とま)る
魯智深にはさっぱり何の事か分からなかった。歩きながら反芻してみるが、やはり意味が分からない。
まあ、そのうち分かるだろう。からからと笑いながらそう思った。
空は晴れ渡り、時おり鳶の声が聞こえていた。