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破戒

「坊主になれ、ですと」

 魯達は目を丸くした。

 県城から十里ほど行ったところにある七宝村(しちほうそん)の大きな屋敷、そこに魯達はいた。

「この先の五台山(ごだいさん)にある文殊院(もんじゅいん)の智真(ちしん)長老とは兄弟のような仲。安心してください。私は翠蓮を救ってくれたお礼ができ、魯達どのは身を隠す事ができる。まさに一石二鳥ではないですか」

 優しげな目で、趙員外(ちょういんがい)が言う。

 渭州から脱出した後、金老人は鄭の手の者が東京(とうけい)へ来るのでは、と考えて道を変えた。そして古馴染に会い、雁門県で趙員外を紹介されたという。

 員外は翠蓮を一目で気に入り、妾にした。

 鄭と違い、員外は本物の金持ちだった。着飾った翠蓮は見違えるように美しかった。

 金親子を幸せにしてくれた員外の提案。行くあてもないこの身にとっては渡りに船だ。

 人を殴り殺してしまった自分が僧になるとは、なんとも皮肉な巡り合わせではないか。

「わかりました。この魯達、よろこんで坊主になりましょう」

 魯達が大きな声で、がははと笑う。

 翠蓮も、くすくすと笑っていた。

 

 五台山。

 望海峰、桂月峰、錦綉峰、葉頭峰、翠岩峰の五つの主要な峰から成るこの山は、古くから文殊菩薩の聖地とされ、信仰を集めていた。

 魯達は、天に向かってそびえ立つ五台山を前に、畏敬の念を禁じえない。

「噂に違わぬ壮大さよ」

 峨峨たる山峰は人を寄せ付けず、頂は雲の遙か先。山肌から流れ落ちる瀑布は、地に達することなく霧となってゆく。

 生い茂る巨大な松たちは、一体どれだけの時を生きてきたのだろうか。時おり木霊する吠え声は仙猿のものか。

 二人を乗せた篭はやがて開けた場所に着いた。

 文殊院である。

 絢爛ではなく荘厳という感じだ。仏殿や宝塔、亭(あずまや)、厨(くりや)など大小様々な建物が並び、その間を僧たちが行き来している。

 前方から一人の老僧が歩いてくる。

「あの方が智真(ちしん)長老です」

 かなりの高齢のはずだ。顔に刻まれた深い皺から七十、八十いやそれ以上にも見える。しかし、時おりその顔が童子のように見える。一体、本当はどちらなのだろうか。

「こちらは魯達というものです」

 趙員外に紹介され、長老に挨拶をする。ほほ、と笑うその顔は、やはり童子のそれだった。

 二人は方丈(ほうじょう)へと案内された。智真長老が正面に座り、左右に多くの僧たちが控えている。趙員外は寺への寄進物を運ばせて、改めて長老に頭を下げた。

 僧侶の免許状である度牒(どちょう)を購入していたが、代わりに出家させるのに相応しい者がなかなか現われなかった事。しかしこの度、それに適う者が見つかり本願を叶えるためにやって来た。それがこの魯達である、という旨を説明した。

 話が終わり、智真長老は剃髪(ていはつ)得度(とくど)の手配をすると、二人を客間に案内させた。

 その時、高位の僧がやってきて、長老に耳打ちした。

「魯達とかいうあの男、立ち居振る舞いも粗暴で、顔も凶悪です。大方、人殺しでも犯したのでは」

 その進言を長老は一喝した。

「人を見た目で判断するものではない。あの男には数奇な命運が見える。将来、非凡な悟りを開き、お主らの及びもつかぬ人物となろう」

 必ず得度させるのだ、そう言って智真長老はその場を去った。

 

 魯智深(ろちしん)。

 長老から「智」の一字をもらい、魯達は法名を授けられた。

 剃髪の際、ひげは何とか残してもらった。

 しかして僧になってはみたものの、一体何をすれば良いのだろうか。周りの僧はというと、一日中座禅を組んでいたり、経を読んでいたりするばかりだ。寺なのだから当たり前だろうが、もとより字が読めぬ魯智深は経も読めない。座禅も魯智深にとっては退屈極まりないものだった。

 趙員外の手前、はじめはそれでも何とか取り組もうとはしていた。字も少しずつではあるが覚えたようだ。

 やがて、ある冬の日。魯智深は懐かしい匂いを嗅いだ。鼻をくすぐる馥郁(ふくいく)たる香りが外から流れてきた。

 悩むまでもなくある一字が頭に閃く。

 酒、だ。

「おい、そいつは一杯いくらだ」

 飛び出した魯智深は、桶を担いできた男に尋ねた。天秤棒で大きな桶を担いだ男は、魯智真の勢いに戸惑いながらも、ご冗談を、と苦笑いする。この酒は寺で働く者たちへの売り物だという。

「冗談ではない」

 僧に酒など売ってしまえば、もうここで商売はできない。男も頑として、殺されても売らないと言い張る。

 もう幾日、酒を口にしていないのだろう。すぐ目の前にあるのに、と考えると魯智深はいらいらしてきた。

「殺しなどせんわ。頼むから売ってくれと言っているのだ」

 魯智深は思わず近くの木を殴りつけてしまった。人の腕ほどもあるその木は、みきみきと音を立て、簡単に折れてしまった。

 ひっ、と悲鳴を上げ男が逃げだした。

 むんずと魯智深は天秤棒をつかみ、引き戻す。そして男の襟首をつかみ、放り投げてしまった。

「はじめから売ればよいものを」

 桶の蓋をこじ開け、ぐびぐびと音を立てて飲み始めた。

「酒代は明日、取りに来い」

 魯智深が言うが、酒売りの男は他の僧にばれてはまずいと、ほうほうの体で逃げ帰った。

 まるまるひと桶飲み干した魯智深はすっかり良い気分になり、やにわにもろ肌脱ぎとなった。

 魯智深の胸から肩、そして背中一面には刺青が彫られてあった。血色の良くなった背中で、真っ赤な牡丹の花が雪中に映えていた。

 

 二度目は赦されなかった。

 先日、酒を飲んだ魯智真は酔ったまま門番を殴り飛ばし、院内で数十人と乱闘騒ぎを起こした。

 智真長老に窘(たしな)められたが、それは赦してもらえた。

 だが、酒の味の忘れられぬ魯智深はしばらくして街へ下り、そこでしこたま飲んでしまった。酔った魯智深は、今度は山門の金剛像に喧嘩を売り、その拳で粉々に破壊してしまったのだ。

 さらに本堂に入り、手当たり次第に暴れまくる始末。まるで本物の金剛のようではないか。

 喝、と長老の声が響いた。

 はたと気付き、手を止める魯智深。困り果てた表情の長老と目が合った。

「智深よ、もうやめよ。こっちへ来るのだ」

 全身の力が抜け、酔いも醒めた。見回すと十数人の僧たちや下働きの男たちがうずくまっている。建物のあちらこちらも壊れていた。

 またやってしまった。この時ばかりは魯智深も深く反省せざるを得なかった。

 長老の部屋で向かい合って座る。

 長老の悲しげな瞳が魯智深を見つめ、やがて語り出した。

「智深や。これほどの事をしでかしたからには、もうここに置いてやる事は出来ぬ。新しい落ち着き先を手配しよう。員外どのにはわしから連絡しておく」

 魯智深は、すみません、と頭を深く下げるしかなかった。

 長老は続ける。

「お主は将来、大事(だいじ)を成す者。いずれはここから出て行く定めにあったのだ。我ら僧の本分は世の衆生を救う事。智深よ、その目で世の中を見よ。その耳で人々の声を聞け。お主にはわしらと違う方法で出来ることがあるはずだ。本意ではなかったといえ、お主も僧の端くれ。それを忘れるでないぞ」

 そして長老は満面の笑みを浮かべた。

 それは魯智深が初めて会った時の、童子のそれだった。

 

 東京(とうけい)開封府(かいほうふ)にある大相国寺(だいしょうこくじ)。

 智真長老の弟弟子(おとうとでし)である智清(ちせい)禅師の元へ行くことになった。

 魯智深はもう一度、五台山を振り返った。

 まるであの騒動など無かったかのように悠然とそびえている。

 世話になったな、がはは、と東京への道を大股で歩き出した。

 手には水磨(すいま)の禅杖(ぜんじょう)。件(くだん)の騒ぎで下山した際に鍛冶屋に打たせていたものだ。その重さ、実に六十二斤。十歳児ひとりほどの禅杖を片手で軽々と握っている。

 別れに際し、長老が偈(げ)を授けてくれた。

 

 林に遇(あ)って起(た)ち

 山に遇って富み

 水に遇って興(おこ)り

 江に遇って止(とま)る

 

 魯智深にはさっぱり何の事か分からなかった。歩きながら反芻してみるが、やはり意味が分からない。

 まあ、そのうち分かるだろう。からからと笑いながらそう思った。

 空は晴れ渡り、時おり鳶の声が聞こえていた。

 

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