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破戒

 渭州(いしゅう)に着いた。

 華陰県から西に半月余りの距離である。

 思い返すと、王進の行先を聞いてはいなかった。ただ、経略府のある所、そして种(ちゅう)という人物を尋ねる、という言葉だけを頼りにここに来た。

 おぼろな記憶だけで少々無謀だとは思ったが、今さら仕方あるまい。

 史進は開き直ると茶屋で一休みする事にした。

 茶を頼もうと小僧を呼ぼうとした時だ。人の波から頭ひとつ飛び出した、大きな男が店へ入って来た。

 眉が太く、顎が四角く、そこに豊かなひげを蓄えていた。胸板が厚く、腕も足も太かった。男はどっかりと座ると店の小僧に茶を持ってこさせた。

 史進も注文をすると、小僧に男の素性を尋ねた。男はここの経略府で堤轄(ていかつ)を務めているという。軍の関係者ならば王進の事を知っているかもしれない。

「堤轄どの、どうぞこちらでお茶を召し上がってください」

 男は人好きのする笑みを浮かべ、礼を返してきた。

「いやあ。ありがたくいただくとしよう。どうやら旅の方らしいが、あんたは」

「これは失礼。華陰県から来た史進と申します。故あって人を探しております」

「もしかして、あんたは九紋竜の史進か」

「はい、そのように呼ばれております」

「なるほど、噂通りの男だな」

 男はしげしげと見つめていたが、史進の視線に気づくと言った。

「おお、すまない。わしの名は魯達(ろたつ)。ここの堤轄だ。ところで人探しと言ったが」

 史進が王進との事を伝えると、魯達はひげを捻りながら唸った。

「王進どのとは、あの八十万禁軍教頭の王進どのか」

 魯達も、高俅(こうきゅう)と王進の確執は聞いていたという。同じ武官だからだろうか、話しぶりから王進の肩を持っているようだ。

 魯達は言った。王進はここではなく、延安府(えんあんふ)の种老相公どのの元に仕官したと聞いていると。渭州はその息子の种小相公が任に就いているという。

 落胆の色を隠せない史進に、魯達はとりあえず酒でも飲もうと言った。

 落ち込んでも仕方あるまい。二人は茶屋を出て歩き出した。

 

 往来に人だかりができている。

 その向こうから、ひゅんひゅんと風を切る音が聞こえてくる。

 興味をひかれた史進が人垣に分け入った。

 一人の男が棒を使い、演武をしていた。足元には掌ほどの容器が十余り並べられている。中身は膏薬の類だろうか。

 男の扱う棒がそのひとつを空中へと弾き上げた。ひとつ、またひとつ。全ての膏薬を弾き上げ、男は棒の回転を速めた。風を切る音も大きくなる。

 鮮やかな棒裁きで、十余りの膏薬は宙を舞い続けている。見物客は感嘆の声をあげた。

 男は気合を発し、大きく棒を一回転させた。膏薬がさらに宙高く放り上げられる。男は棒を横に構え、静止した。膏薬が地面に次々と落ちてゆく。そこは元あったのと寸分違わぬ位置であった。

 喝采が巻き起こった。男が礼を言いながらおひねりを拾っているところへ、史進が声をかけた。

「お師匠さま、お久しぶりでございます」

 男は眉間に皺を寄せていたが、はたと気付いた。

「お前は史進か。見違えたではないか」

「なんだ史進、知り合いか。わしにも紹介してくれ」

 魯達が人垣をかき分けて近づく。

「魯達どの、この方は俺の最初の武芸の師匠です」

 男の名は李忠(りちゅう)。棒術を得意とし、各地で武芸を見せながら、膏薬などを売り歩いている。史進がまだ竜を背負うか背負わないかの頃に史家村を訪れていたのだ。

「どうだ、あんたも一献やりに行かないかね、李忠どの」

「ありがたいが、もう少し路銀を稼いでからに」

「つれない事を言うな。いいから行くぞ」

 今日は終(しま)いだ、と魯達は観衆を追い払ってしまった。

 なんと強引な男だ、と李忠は目を丸くした。魯達はさっさと先へ行ってしまう。

「お師匠さま、行きましょう」

 李忠は商売道具をまとめ、渋々後を追った。

 

 州橋のたもとの藩(はん)料亭。その一室に三人はいた。

 出会いと再会を祝し、杯を合わせ飲み干す。卓には酒や料理があふれんばかりに並べられていた。魯達は酒を水のごとく流し込んでいる。

「師匠は虎を仕留めた事があって、打虎将(だこしょう)と呼ばれているのです」

「ほお、そいつは大したもんだ」

「いやいや、偶然勝てただけで」

「わしも虎に会えば、この拳で殴り倒してやるものを」

 がはは、と割れ鐘のような笑い声をあげ、岩のような拳を握った。

 李忠は苦笑いを浮かべ、胸のあたりをさすった。虎につけられた古傷が痛んだ。

 酒が進み、武芸談議に花を咲かせていると、隣の部屋から何やら人声が聞こえてきた。それはか細く、次第にすすり泣くような声になった。

 はじめは気にせず酒を飲んでいた魯達だが、どうにも止む気配がない。給仕を呼び付け怒鳴った。

「おい、隣には一体誰がいるのだ。せっかく楽しく飲んでいるのに興醒めではないか」

 給仕が謝り、隣室から二人の者がやって来た。

 一人は白髪の老爺。もう一人は十八、九の若い女だった。女の目にはまだ涙が浮かんでいた。

「堤轄さま、誠に失礼いたしました」

「一体どうしたというのだ。何故泣いてなどいたのだ」

 老爺は金(きん)と名乗った。若い女は翠蓮(すいれん)といい、老爺の娘だという。

 家族で渭州へ親戚を頼って来たが、その親戚はすでに南京(なんけい)に越していた。さらに翠蓮の母が病で亡くなり、二人は頼るあてもなくさすらっていたところ、とある金持ちが翠蓮を見染めて妾(めかけ)とした。金老人は娘と引き換えに三千貫という高額の証文を受け取ったという。

「三千貫だと。わしは月に十貫ももらえぬというのに」

「まあまあ、続きを聞きましょう」

 李忠が憤慨する魯達をなだめ、話を促した。

 ところがいくらも経たぬうちに、金持ちの妻が翠蓮を追い出してしまったのだという。

 契約が反故(ほご)になったのだから、金を返せと金持ちが詰め寄る。ところが金老人は証文だけで現金は一切受け取っていなかった。空(から)証文である。

 もらってもいない金を返せるはずもなく、老人と翠蓮はこの料亭で小唄を聞かせながら、何とか返済を続けているのだという。

 史進は金翠蓮の頬の涙の跡を見た。

「そいつはひどい話だ。それで泣いていたのだな」

「まったくだ、これは見過ごすわけにはいかんな。それでその金持ちとやらは一体誰なのだ」

「はい、鎮関西(ちんかんせい)の鄭(てい)大旦那さまです」

「なんだと、あの肉屋の鄭か」

 魯達は持っていた杯を卓に叩きつけ、立ち上がった。憤怒に満ちたその姿はまるで鍾馗(しょうき)のようであった。

 

 状元橋(じょうげんばし)のたもと。そこに鄭の肉屋があった。

 魯達は店先の腰掛けにどっかりと座っていた。店の中では件(くだん)の鄭が肉を刻んでいる。

 肌はてらてらと脂ぎっており太り肉(じし)だが、包丁さばきはなかなかのものだ。

「おいまだか」

「へい、もうじき終わりますんで」

 そう言った鄭の額から汗が流れ落ちる。

 あれから三人で金を出し合い、金老人と翠蓮に東京(とうけい)への路銀として渡した。史進、李忠とは再会を約束し別れた。

 翌日、金親子を見送った後に頃合いを見計い、魯達は店へとやって来たのだ。

「堤轄さま、こちらでございます」

 鄭が赤身肉を蓮の葉で包んでいる。ほっとした表情の鄭に魯達は言った。

「待て待て、次は脂身を十斤(じっきん)刻んでくれ」

 これもお前が自分でやるのだ、と念を押し魯達は腕を組んだ。

 鄭はしぶしぶ従う。

 さらに半刻かかり、脂身を刻み終えた鄭に、次は軟骨十斤だ、と畳みかける。

 ここで鄭はやっと弄(なぶ)られている事に気づいた。骨切り包丁を手に、魯達の前へ詰め寄る。

「おい、どうした。包丁など持って危ないではないか。まず汗を拭いたらどうだ」

「いくら堤轄さまと言えど、冗談が過ぎますぜ」

「冗談ではない」

 魯達は言い放ち、持っていた肉を鄭の顔にぶちまけた。

 声にならない叫びを発し、鄭が包丁を振り下ろす。

 魯達は左手でそれを受け止め、引き寄せると足を掛け、鄭を地面に転がした。

 抵抗する間もなく馬乗りにされる鄭。

「これは金老人と翠蓮を騙した罰だ」

 魯達は岩のような拳を握りしめた。

 

 三発だった。

 三発殴ったところで鄭が動かなくなった。

 気を失ったのかと思った。

 だが鄭はすでに息をしていなかった。

 店の者や、野次馬たちが異変に気づき、ざわつきだした。

「今日はこの位にしておいてやる」

 捨て台詞を吐き、その場を離れた。

 魯達は下宿へ戻り、急いで荷物をまとめると南門から城外へと一目散に逃げた。

 殺すつもりはなかった。ただ痛い目に合わせて、懲らしめようと思っていたのだ。

 だが後悔はない。あの親子の恨みを晴らしたのだ。鄭も報いを受けて当然だろう。そう考えると少しだけ気持ちが晴れた。

 牢に入れられても頼る者のない身ゆえ思わず逃げてきたものの、どこへ行けばよいのやら見当もつかない。

 あてもなく旅を続け、半月余り。やがて魯達はとある県城に着いた。

 代州(だいしゅう)雁門県(がんもんけん)。州や府にも劣らない賑わいぶりだった。

 通りを歩いていると人垣ができている。どうやら高札を見ているようだ。

 武官とはいえ武芸ばかりしていた自分は字が読めない。内容を聞こうと近づくと、後ろから袖を引かれた。

 そのまま魯達は角を曲がり、人気(ひとけ)のない所へ連れて行かれる。

「魯達さま、どうしてこんな所に。危ない所でございましたよ」

 顔を見ると、それは金老人であった。

 あの高札には魯達の手配書が張ってあったのだという。

「それは危ない所だった。しかし金老人、お主こそどうしてこんな所に。東京へ行ったのではなかったのか」

「話は後にしましょう。ご恩返しと言ってはなんですが、まずはあなたに会わせたい人がおります」

 やはり間違いではなかった。

 微笑みを浮かべる金老人を見て、魯達は改めてそう思うのだった。

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