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重囲

 兵馬都監、八人すべてを討った。

 だがついに童貫を討つことはできなかった。

 しかし圧倒的な勝利に、梁山泊が湧いていた。酒蔵が開かれ、朱富のとっておきが兵たちに振る舞われた。

 両手に縄をかけられ、鄷美が梁山泊の山寨を歩かされていた。忠義堂へ連れてくるように、という宋江の命令だった。

「あの上だ」

 楊雄が示してみせる。替天行動の大書された旗が見えた。

 天に替わって、だと。ずいぶん大きく出たものだ。

 向こうの道に、同じように縄をかけられた官軍が何人か連れられて行くところに出会った。兵たちは鄷美の顔を見ると、すがるように叫んだ。

「鄷美将軍」

「助けてください」

 駆けだそうとする兵たちを、蔡福と蔡慶の兄弟が引き戻す。そしてそのままどこかへと連れられて行った。兵たちの声が遠くになってゆく。

「あいつらはどこへ」

 楊雄は答えずに、鄷美の縄を引くのみだ。何度か訊ねた後、石秀という男の方が答えた。

「罰を、受けるのさ」

「罰だと」

「官軍ってのは軍規は守らなくっても良いんだな。山賊より酷え」

「何のことだ」

 楊雄の目は止めろと言っていたが、石秀は止まらない。

「あいつらは兵じゃない者たちを手をかけた。あまつさえ、それだけでは飽き足らず」

 鄷美が愕然としたようだ。何をしたのか、想像に難くなかった。

「だから梁山泊の軍規に則って裁かれる。斬首さ」

 文句があるかい、という表情の石秀。兵たちが消えた方向を見やり、鄷美が山上の旗を見る。悲しそうな、悔しそうな顔だった。

 忠義堂と呼ばれる建物に着いた。三人の者が鄷美を待っていた。

 中央が梁山泊の頭領である宋江だと、楊雄が言った。その右は知っている。盧俊義だ。宋江の左に座るのが呉用だという。風貌からこの男が軍師なのだろう。

「縄を解いてくれないか」

 宋江が、開口一番そう言った。

 胥吏をしていた小男だと話には聞いていた。だが想像していた宋江とは違った。山賊の頭領の雰囲気をまとっていると、鄷美は感じた。

「我が軍の兵たちを処断するとは、何様のつもりだ。一国の主になったようではないか」

 鄷美が詰め寄る。それに宋江は毅然と言い放った。

「そのつもりは毛頭ない。軍規を犯した者は罰せられる。それだけのこと」

「お前たちがやる事ではない。国がやることだ」

「国が目を瞑ってしまっているから、我らがやるだ」

 う、と鄷美が言葉を詰まらせた。

「国が正しい事をしてくれていたならば、我らもここに籠ることはなかったかもしれぬ」

 林冲、柴進、秦明、花栄や欧鵬、裴宣、陶宗旺などもそうだ。なにより宋江自身がそうだった。そして一度、処刑されかけたのである。

 鄷美も思うところがない訳ではなかった。

 禁軍はまだしも、中央軍でさえ軍紀の乱れがたびたび報告される。それは、あくまでも露見したものだけだ。表に出てこない軍規違反はどれだけあるのだろう。軍だけではない。役人たちの不正も、それ以上に耳にするのだ。

「国は病んでいる。病の元は奸臣だ。それらを取り除けば、国は息を吹き返す。私はそう考えている。我らは決して国を潰そうというつもりはない」

 宋江の目が真っ直ぐに鄷美を捕らえる。

「それを私に伝えてどうなるというのだ」

 宋江は答えず、奥へと消えた。代わりに盧俊義が言う。

「お主は開封府へ送り返す。その前に、怪我の治療を受けてくるのだ」

 鄷美は縄を解かれたが、楊雄と石秀がそのまま監視に付けられた。

 治療だと。仮にも童貫軍の副将だ。当然、首を獲られるのだと思っていた。本当に開封府へ帰すつもりなのか。

 忠義堂を出て、このまま逃げだそうとも考えたが、ここは湖に浮かぶ島だ。それに楊雄と石秀、この二人がいてはそれもままなるまい。

 鄷美はおとなしく、二人に連れられ治療所へ行った。

 確かに盧俊義と闘った時の痛みはあるが、骨が折れている訳ではない。打ち身程度だろう。とにかく診せるだけ診せて話を合わせよう。そう考えていた鄷美は、治療所の光景に目を丸くした。

 負傷した兵の数にではない。驚いたのは、敵であるはずの官兵までもが、そこに寝かされ、治療を受けていたからである。

「何かおかしなものでも見たのかい」

 石秀が、にやりとして問いかけてきた。鄷美は黙って治療の様子を見ていた。医師らしき老人が片端から負傷者を診る。そして指示に従い、治療所の者が薬を塗ったり傷を縫ったりする。

 老医師が、立っていた鄷美にぶつかった。

「なんだでかい図体して邪魔だのう。怪我人じゃないなら外へ出ていてくれんか」

「すまない、先生。この男も診てくれませんか。宋江どのからの頼みなんです」

 老医師は、ぎろりと楊雄を睨んだ。

「馬鹿者。そいつは自分の脚で立っている。まずは動けん者や重症の者だ。診る順番はわしが決める。宋江だろうと誰だろうと、文句は言わせんぞ」

「分かりました、申し訳ありませんでした」

 分かれば良い、とすぐに別の負傷者への元へと駆けていった。

 石秀がまだにやにやしている。

「あれが神医どのさ」

「神医だと。まさか、神医と言えば」

 鄷美も聞き及んでいた。

 江南に神医あり、その名を安道全という。

「その安道全先生さ」

 まさか、と鄷美は思った。江南で隠居同然だと聞いていたからだ。どうして梁山泊などにいるのか。

 だがその手際の良さを見ていると、目の前にいるのがやはり安道全なのだと確信できるのであった。

「先生の言う通りだ。私はほとんど怪我などしていない。診られるのであれば一番最後で良い」

「そうか」

 治療所の外で待つことになった。楊雄は少し複雑な表情を浮かべていたが、鄷美の言葉で軽く微笑んだようだ。その生真面目さを、鄷美は好もしく思った。

「しかし自分たちの頭領を呼び捨てとは、肝の座った医者だな」

「だろう。まあ、宋江どのはそんな事、気にしちゃいないけどね」

 と石秀。

「なるほど」

 鄷美の立場だとしたら童貫を呼び捨てにするようなものか。

 命がいくらあっても足りるまい。

 金沙灘から出た船を、童威と童猛が見ていた。

「ちっ、せっかく捕まえたのに、どうして帰しちまうんだよ」

 童威がひとりごちるように言い。、杯を呷った。まったくだ、という顔をして童猛も酒を流しこんだ。

 船には官軍の将、鄷美が乗っていた。開封府へ帰すのだという。

「しかし俺たちも暴れたかったなあ。阮の兄弟たちもみたいだけどよ」

 童猛もしきりに頷いている。この度の童貫との戦で、水軍の出番はなかった。辛うじて張順(ちょうじゅん)が童貫をおびき寄せる囮となったくらいか。

 名の上がった阮氏の三兄弟をはじめ、水軍にも血の気が多い者は少なくない。特に童兄弟は、役人たちを相手取って闇の塩を売っていたのだ。命のやりとりをする覚悟は、その時からできている。

「ねえ、兄貴」

 同意を求められた李俊は、童兄弟と向かい合うように座っていた。鄷美の乗った船が見えなくなるのを確かめるようにしてから、杯を空けた。

「まあ、そう苛立つな。また奴らは来るさ」

「またって、官軍の連中がですか」

 うむ、と李俊は頷く。童兄弟は顔を見合わせた。

「今回は、梁山泊ごときと高をくくっていたのだろう。だが負けっぱなしでは沽券にかかわる。さらに兵力を増して、やってくるだろうよ。次こそ水軍の出番だ」

「ようし、来てみやがれってんだ。またまた返り討ちだぜ。ひとり残さず湖の底へ沈めてやろうぜ、猛」

 童兄弟が同時に杯を呷り、拳を突き合わせるようにした。李俊もそれを見て笑みをこぼす。頼もしい奴らだ。

 だが今言ったように、次は圧倒的な力でもって叩き潰しにくるだろう。はたして梁山泊は勝つことができるのだろうか。いや勝たねばならないのだ。そして勝算はあると、李俊は踏んでいる。

 呉用もそうなのだろう。でなければ、あの男ならば戦の道は選ばないはずだ。もしくは何か謀(はかりごと)をめぐらせているのだろうか。いずれにせよ、それは自分の考えることではない。

 李俊は童兄弟の杯を満たしてやり、ともに飲み干した。

「さて、孟康のところへ行ってみるとするか」

 水軍の要となる新しい戦(いくさ)船(ぶね)が出番を待っているのだ。孟康とその配下の船大工たちは、文字通り寝ずの仕事ぶりだったという。

 童猛が、腕が鳴るという風に、力こぶを作って見せた。

 俺もさ。

 李俊も同じ気持ちだった。

 

 歩兵将校として、この戦に出ていた施恩(しおん)が自室へと戻ってきた。

 他の兵と同じように顔も体も土と血で汚れていた。

 かつて孟州で快活林を治める典獄の息子であったなどと、新参の兵には信じ難いだろう。腕っこきの好漢たちの中では体格で劣るものの、いまはすっかり金眼彪という渾名が似合う男となっていた。

 施恩は汚れも落とさずに、兜を脱いだだけで椅子に腰を下ろした。しばし目を瞑り、眉間に皺を寄せる。そして何かを決めたように目を開けた。金色の瞳が見えた。

 目の前の机には紙があった。筆を手にとり、時間が惜しいとばかりに必死に書きつけてゆく。

 一枚、二枚、三枚と次々と紙が文字で埋められてゆく。十数枚に達したころ、入口の方で音がした。

「あら、いつ帰っていたの。心配していたのよ、連絡もなくって」

 妻である。食堂で働いていた娘で、何かのきっかけでよく話すようになっていた。

 良(い)い娘ではないか。

 ある時、武松(ぶしょう)がそう言ったのが決め手だった。すぐに二人は一緒になった。

 今も食堂で働いている。戦が終わり、兵たちが次々と帰還してきた。その中に施恩の姿を探していたという。

「すまない。どうしても、忘れないうちに書きとめようと思ってね」

「まあ、いいわ。すぐに用意するから。あなたも先に体を洗ってくださいな」

 そこでやっと施恩は、自分が泥まみれだったことに気付いた。

「すまない、すまない」

 そう言いながら紙をまとめ、頑丈そうな箱を開けた。中には同じように文字が書きこまれた紙がびっしりと並べられていた。

「結構な数になったわね」

「ああ、でもまだこれからさ」

 愛おしそうに見ながら箱を閉じ、しっかりと錠をかけた。そして同じ視線を妻に送った。

 施恩が書きつけていたもの、それは梁山泊の記録であった。

 快活林を取り戻すため武松がいかに蔣門神と闘ったか。いかに鴛鴦楼で悪人どもを斬り倒したのか。施恩は事あるごとに語っていた。妻の、せっかくだから書き残したら、というひと言がきっかけだった。

 もともと文官でもある施恩は、孟州から二竜山での出来事をあっという間に書きあげた。蕭譲にも褒められた施恩は、ならばと梁山泊の興りから書いてやろうと定めたのだ。

 施恩は誇りを持っていた。武松と出会い、そしてこの梁山泊にいることに。さらに百八の頭目のひとりにまで数えられている事にである。

 強く、大きくなったな、と言って天に還った父の顔が浮かんだ。今の姿を見せてやりたい、そう思うと目頭が熱くなった。

「どうしたの」

「何でもない。ああ、腹が減ったな」

「おかしな人」

 二人は笑い合い、食卓へと向かった。

 食欲をそそる香りが、鼻腔をくすぐった。羊の肉のようだった。

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