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野望

 やはり、負けおったか。

 童貫と高俅が、ここ宰相府に現れた瞬間に、蔡京は悟った。

 しかし蔡京は、あくまでも心配そうに振舞った。

「よくぞ無事に戻ったな」

「おかげで、命は拾うことができました。しかし梁山泊の連中め」

「帝へは」

「そのことで参ったのです。知らせる訳には行きますまい」

 ここで高俅が膝を進めた。

「こたびの戦、童枢密は歩兵と騎馬のみでした。奴らは湖の中の寨に引きこもり、船がないこちらは手を出せなかった。さらにこの炎暑。兵たちをいたずらに消耗させないため、童枢密は梁山泊から一旦、引き揚げたのです」

 という筋書きで、帝に報告すると言っているのだ。

 童貫め、己の戦歴に泥を塗るくらいならば、失われた兵の命など無かったことにしてしまおうということか。童貫がすがるような視線を送っている。

 普段いがみ合っているが、こういう時だけは息を合わせおる。高俅の奴め、自分が同じ立場になった時のために、恩を売っておく腹らしい。やはり高俅の方が一枚上手ではある。

「しかし、帝があくまでも殲滅せよと言ったならどうする」

 高俅が胸を叩き、言った。

「次は私が」

 ただし、水軍を自由に使わせてほしい、と高俅は言った。そして戦船の建造と、各地から船を徴発させてほしいと。

「ふむ、わかった。その件はわしに任せておけ」

 鷹揚に蔡京が答えた。どうせわしの金ではない。国の金だ。これでこ奴らに恩を売れるのだ。一石二鳥というわけだ。

 そこへ蔡京の家人が報告に来た。

 なんと捕らわれていた鄷美が戻ったというのだ。

 三人のいる間に通された鄷美はいささか緊張して、梁山泊での事を伝えた。

 それは罠に違いあるまい。声を上げたのは高俅だった。

「寛大なふりをして見せ、我らの気勢を削ごうというのだ。よし、兵は遠方から徴収することにしよう。いずれにせよでかしたぞ、鄷美」

 はい、と鄷美は答えたもののどこか釈然としない表情だった。

 朝議では密議の通りに報告がなされ、予想通りに高俅を討伐に向かわせる決がなされた。

 先日その場にいなかった楊戩(ようせん)はいぶかしんだ。あの高俅が自ら進んで戦に赴くなど、ないことだと思っていたからだ。

 高俅は梁山泊を討つのはいまだ、と考えていた。

 息子のために林冲を陥れた。だが命を奪うことはできず、それ以来悪夢にうなされる夜が続いていた。そして現実に東京開封府にまで現れたのだ。

 林冲の槍が己に突き立てられる夢。その悪夢から解放されるには、林冲の息の根を止めるしかないのだ。そして何より、高廉の仇も討たねばならない。

 だがそれ以上に高俅は抱いていることがあった。ここで梁山泊を潰すことができれば、さらに高みへと登ることができるかもしれないのだ。

 蔡京のいる場所、宰相という地位が欲しい。

 武人でもない、ましてや科挙に通った訳でもない高俅はそれでも、太尉の地位にまで上り詰めた。並の事ではなかった。ここに至るまで何でもした。犬のように尾を振り、猫のようにすり寄ることもあった。だが心では、常に虎狼のように獲物を狙う隙をじっと狙っていたのだ。

「例の節度使たちを呼び集めろ」

 高俅は配下に高らかに命じた。

 そのときの目は猛禽のそれに似ていた。

 

 先ごろ、辺境において異民族の制圧に功があった節度使が十人ほどいた。

 いまや名誉職となりつつある節度使だが、この十名は武芸に通じ勇猛果敢で知られる者たちだった。そしてその半数以上が元は山賊であった。

 山賊にとっては罪を許され官軍となることができ、国にとってはその力を有効に利用できる、互いに利のあるものであった。つまりは招安に応じた者たちである。

 高俅は、その十名に白羽の矢を立てた。

 河南河北節度使、王煥(おうかん)。

 上党太原節度使、徐京(じょきょう)。

 京北弘農節度使、王文徳(おうぶんとく)。

 穎州汝南節度使、梅展(ばいてん)。

 中山安平節度使、張開(ちょうかい)。

 江夏零陵節度使、楊温(ようおん)。

 雲中鴈門節度使、韓存保(かんぞんほう)。

 隴西漢陽節度使、李従吉(りじゅうきつ)。

 瑯琊彭城節度使、項元鎮(こうげんちん)。

 清河天水節度使、荊忠(けいちゅう)。

 それぞれ一万の兵を率い、節度使の軍だけで実に十万を擁することとなる。開封府の周辺では、城内に収まりきらない兵たちで騒然となった。

 高俅との謁見を終え、息巻いている将がいた。韓存保である。

 韓存保は武家の出であり、山賊あがりの他の節度使とは一線を画していると言えた。

「出陣はまだ先だそうだ。だが兵を休ませるな。いつでも戦えるだけの準備は整えておけ。心も、体もだ」

 副官にそう告げ、韓存保は宿舎へと戻る。そして部屋へ入らずにそのまま庭へと出た。韓存保は愛用の方天画戟(ほうてんがげき)を振り始めた。副官に告げたように、己自身も準備を怠らないというわけだ。

 韓存保またの名を鉄戟将(てつげきしょう)という。

 戟が風を切る音が小気味よい音となって聞こえた。汗が流れ始め、韓存保は無心に近づいてゆく。だがもう少しのところで、現実に引き戻されてしまう。

 いつもだ。あと一歩なのだが、そこで心に浮かぶのは叔父の事であった。

 宰相にまで上り詰めた韓忠彦。韓存保はその甥であり、叔父を尊敬していた。だが蔡京の登場により、韓存保は失脚した。

 蔡京の策謀だと、一時(いっとき)は思いつめた。だが今はそうではない。この梁山泊討伐において、自分が功績を残すことができれば、叔父が復帰するための一助になるのではないかと考えていた。

 戟を振る音が早くなる。

 心が再び無に近づいてゆく。

 天を割るような気合を発し、韓存保は腕を止めた。

 汗が、滝のように溢れだしていた。

 高俅の配下である牛邦喜という男が、建康府に来ていた。

 平素から高俅のために細々と走り回っており、なかなか重宝できる男であった。

 その牛邦喜、梁山泊戦のためにこの江南の地にまで来ていた。

 なんといっても、こたびの戦の要は水軍である。その水軍の統制、劉夢竜に会いに来ていたのだ。

 名は体を表すというが、この劉夢竜もそうであった。

 なんでもある時、母親が腹に黒竜が入った夢を見た。そして子を宿したので、夢竜と名付けたのだという。長じては、まさに水の申し子となり、かつて西川の峡江で賊を討伐し、功績を上げていた。

「高太尉が、わしをお呼びか。ついに認められたということだな」

 牛邦喜から高俅の言葉を伝えられた劉夢竜は、胸を反らせ喜んだ。

 だが同じ部屋にいた男が、水を差すように言った。その男も軍人であった。

「梁山泊と言えど、長江や太湖には較ぶべくもありせん。広さと深さがなければ、水軍とその戦船は活かせませんぞ」

 む、と牛邦喜が名を問うた。

 韓世忠という男だった。

 十八の時、募集に応じて兵となり、国境を脅かした大夏との戦で大功を上げた。さらに四年前には黄州を荒らしまわる欧鵬らの率いる黄門山の賊を討伐したという。そしていまは江南に配属され、水軍の将校であった。

 牛邦喜が口を尖らせる。

「下っ端風情が利いた風な口をきくな。これは太尉の命令であるぞ。すぐに山東へ向けて出発せよ。よいな、劉夢竜」

 もう一度、よいなと釘を刺し、牛邦喜が去っていった。これから長江一帯で、船を徴発するのだという。

「すまんな、韓世忠よ」

「いえ、わたしこそ差し出がましい事を」

「お前の言う通り、狭小な河川では我らが水軍は力を発揮できん」

 何か言いたそうな韓世忠を制し、劉夢竜は続けた。

「だが梁山泊討伐で実力の一端でも見せることができ、帝の目にとまってくれれば、これからの扱いも変わってくるだろう。そのためにわしは喜んで戦に行こう」

 東京開封府では、水軍を重要視していないきらいがある。それもそのはず、彼(か)の地は平原や山岳の多い地域。重要になってくるのはおのずと騎馬であるからだ。

「心配するな。所詮、梁山泊は水溜りだということを思い知らせてやるさ」

 劉夢竜の活躍を期待はしている。だが反面、勝手の違う山東地方で戦えるのか、韓世忠はそれが不安であった。

 牛邦喜は、五百もの戦船を集めきった。高俅の威を借る男だと思っていたが、牛邦喜もその実、有能なのだろう。

 かくして劉夢竜と、およそ一万五千もの水軍が東京開封府へと進んでゆく。

 広大な長江を埋め尽くす船団の様に、江南の人々も喝采を送った。

「ご武運を」

 おためごかしの追従などできない性質だ。

 劉夢竜を見送る韓世忠は、そう言うのがやっとだった。

「どう思うね、老風流どの」

 老風流と呼ばれた王煥は、白い見事なあご髯を撫でながら微笑んだ。

「さて。やってみねば、分かるまいて」

 王煥に訊ねた徐京は、その答えに落胆するでもなかった。

 二人は開封府の城壁の上で外を眺めていた。目の前に広がるのは、辺り一帯を埋め尽くす兵の群れである。およそ十二万、これに水軍が加わるという。 

「これだけの数ですよ」

「そうだな。だが、勝敗は兵家の常と申すではないか。大軍を擁しているからといって、勝てる相手だとは思わない方がよいのではないかな」

 にやりと、徐京がした。我が意を得たりという顔だった。

「その事について大尉とお話しは」

「しておらん」

「そうですか。そうですな」

 話しても聞きはしない。王煥は言外にそう言っているのだ。

「お主の方こそ、話したい事があるのではないのか、四足蛇」

 突如かつての渾名で呼ばれ、徐京は王煥を見た。

 王煥はまっすぐに兵たちを見ている。

 徐京は、根っからの山賊ではなかった。些細なことから役人と揉め、刃傷沙汰を起こしてしまう。そして落草し、山賊へと身をやつした。

 徐京はその時のことを思い出す。役人たちに追い詰められ、絶体絶命となった。だがそんな状況から徐京は逃げおおせ、四足蛇の異名と共に名を馳せることとなった。

 実は徐京に協力していた者がいたのだ。かねてよりの知り合いであったその者の知略で、徐京は命を永らえたのだ。

「いえ、ありませんよ」

 徐京が目を細めた。

 童貫軍は、梁山泊軍の巧みな計略により敗れた。あの男の力があれば、と徐京は思った。 

 だが、いまは世を捨て、隠棲していると聞いた。ならば、こちらへ引き戻すことは避けるべきだろう。

 梁山泊か。

 奴らも、自分や王煥と同じように落草したもの達だという。しかしいまや己は節度使であった。

 徐京は王煥の横顔を窺い、また目の前を埋める兵たちを見た。

 どう思う、と聞いた徐京の意図は、分かっていた。戦の勝敗についてではない。徐京は、梁山泊そのものについて、どう思うか問うたのだ。

 だが王煥は、はぐらかすようなことを言った。

 口に出してしまうのが、躊躇われたのだ。王煥そして徐京も、梁山泊をどこか羨む想いがあったということを。

 王煥は若い頃から風流と称されており、やる事の一つ一つが人々の耳目を集めていた。

 惚れた女性に逢うために、果物売りに変装して近づくなどという馬鹿もやった。また、悪徳役人らに虐げられていた人々を助けたりした。そして落草した。

 手頃な山に籠り同調する仲間を集め、役人どもと戦うと息巻いていた。だが今は、倒そうとしていた役人の側(がわ)に立っている。

 節度使になる代わりに、なにか大きなものを失ったような気がしていた。

 それを、梁山泊は持っているのだ。

 替天行動というとても信じ難い理想を掲げ、それを貫こうとする大馬鹿者どもが、いるのだ。

 王煥は自身の白い髯を見た。

 かつての風流が、いまや老風流だ。

 まだ誰にも言ってはいないが、王煥はこれが最後の戦と思い定めていた。

「さて、最後にひと花咲かせてみるとするか」

「何かおっしゃいましたか、老風流どの」

「いや、何も。さて徐京よ、酒でも飲みに行こうか」

「はい。そういえば良い店を見つけたのです」

「ほう、それは楽しみだ」

 王煥は城壁を下りる前に、もういちど兵の群れを見た。

 それが開封府から動くのは、およそふた月ほど待たねばならなかった。

 秋の風が吹き始める頃であった。

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