top of page

野望

「節度使が強力だというのは、かつての話。いまや時代遅れの存在です。ですが決して侮ってはなりません。機は、水軍がまだ移動中の今です」

 ひと息つき、居並ぶ頭目たちに向かって、呉用が告げた。

「先手必勝です。ひと泡吹かせてやりましょう」

 高俅軍は十三万という、童貫軍をはるかに上回る大軍だという情報だ。それをあえて待つ必要はない、というのが呉用の判断だ。

 迎え討つのは張清と董平。それぞれ一千を率い、出撃をした。

 鳳尾坡へ、高俅軍が足を踏み入れた。済州までおよそ四十里というところである。

 馬に揺られるのは京兆弘農節度使、王文徳。夜游神という異名を持つ男であった。

 その王文徳の片眉が上がった。側面の森に顔を向けた。まだ緑の残る木々が、静かに佇んでいる。

 気のせいか。

 正面を向いたその時である。森の中から一団が飛び出してきた。

 やはり気のせいではなかった。まもなく済州なのだ、攻撃がない方がおかしいというものだ。

 敵の先頭は、両手に槍を構えていた。双鎗将の董平か。相手にとって不足はない。王文徳は刀を構え、董平を迎え討つ。

 馬を止め、打ち合った。はじめは笑みさえ浮かべていた王文徳だったが、次第にその表情を変えてゆく。一方の董平の方こそ、余裕が見えてきた。

 二本の槍が唸りを上げ、速度を増した。

 劣勢だった王文徳が距離を取り、

「今日のところはここまでにしておいてやる。貴様が討たれていなかったならば、また相手をしてやろう」

 と言い、馬を反転させた。

「虚勢を張るとは、まったく無粋なものだな。軍師どのの言葉も、あながち間違ってはいなかったようだ」

 王文徳は自軍をそのまま引き連れ、森へと突っ込んだ。

 董平はそれを追いながら思う。いまの一連の動きに、遅滞は見られなかった。童貫軍の時よりも、兵たちはなかなか訓練されているようだ。面白い。それでこそ、戦い甲斐があるというものだ。

 王文徳の隊が森を抜けた。

 だがそこにも梁山泊の一隊がいた。待ちうけるのは没羽箭の張清。王文徳を視界にとらえた瞬間に、礫を放っていた。

 何かが飛んできた。避けなければと思っている間に、それは兜にぶち当たった。

 星が瞬いた。衝撃で意識が飛びそうになったが、すんでのところで手綱を握った。

 しかし王文徳の表情は朦朧としている。

 好機と見た張清が馬を駆けさせた。

 もう一発。手には既に、次の礫が握られている。

「張清」

 と声がした。森から出てきた董平だ。

 同時に、横から喚声が聞こえた。

 新手だ。

 江夏零陵節度使、楊温である。

 楊温が頭上で棒を回しながら、張清と王文徳の間へ、突っ込んできた。

 攔路虎、路を遮る虎の異名通りだ。

「とっとと目を覚ませ。死にたいのか」

 楊温が駆けざま、檄を飛ばす。その言葉が届いたのか、王文徳が跳ね起きたように、上体を直立させた。

「礼は言わんぞ」

 楊温の姿を見とめ、一瞬で状況を把握するところはさすがだ。

 すぐに二人は隊を率い、離れて行った。済州の方角だった。

 董平と張清は追わず、梁山泊へと引き返した。深追いはするなという命令だ。

 張清は投げ損ねた礫を、大事そうに袋へと戻した。

 済州太守である張叔夜は、やや辟易していた。

 今日、高俅が入城した。

 それから高俅と節度使たちをもてなすのに大わらわだった。それもあるが、まだ戦が始まってないというのに、すでに勝ったような素振りであったからだ。

「そう心配そうな顔をするではない。わしと十節度使が出向いたからには、梁山泊の連中など、そこらの賊と何ら変わりはせぬ」

 高俅が笑い、酒を呷る。張叔夜は、やはり眉間に皺を深く刻んだ。

 夜も更けたが、宴は続いていた。

 控えの間で休んでいた張叔夜の元へ、配下の役人が血相を変えて飛び込んできた。

「何ごとだ。梁山泊か」

 違った。

 高俅軍の兵が、済州城外で住民たちを脅かし、略奪行為をしているというのだ。

 何という事だ。これではどちらが賊か分からないではないか。

 張叔夜の訴えに、高俅は面倒くさそうな顔をした。そしてやっとの事で部下を走らせた。

 城壁に立ち、張叔夜は思う。

 梁山泊軍は、決して民に暴力をはたらくことはない。噂では、梁山泊は非道の限りをつくす逆賊だ。だが決してそうではない事は、済州を預かる張叔夜には、よく分かっていた。

 宋江は、宿元景と邂逅を果たした。そして告げたという。

 国を害する奸臣を取り除き、国を救うのだと。

 だが、招安を蹴った。

 梁山泊は、宋江は何をしようというのか。

 夜空には満月。風はすでに冷たいものになっていた。

 二日ほど、高俅は済州を出ようとしなかった。

 そこへ、江南から戻った牛邦喜が、将軍をひとり伴って来た。水軍統制、劉夢竜である。

「ようやく、来たか。待ちかねたぞ」

「申し訳ございません、太尉どの。思ったより、黄河が狭ったもので」

「面白いことを言いおる。気に入ったぞ」

 拱手で、劉夢竜がそれに応えた。

 高俅の前に、節度使たちが顔を揃えた。

「さて、水軍の船をどうやって運び入れるか、だが」

 怖れながら、と王煥が進み出た。

 節度使たちが梁山泊をおびき寄せる。その隙に、水軍を導きいれる。王煥のその献策を、高俅が採用した。

 布陣は、先鋒に王煥と徐京。左軍に張開と楊温。右軍に韓存保と李従吉を配する。前後の救援を担うのは項元鎮、荊忠。そして殿軍には王文徳と梅展である。

「お前たち、入ってこい」

 牛邦喜の声に応じて二人の男が現れた。節度使たちが呻くような声を漏らした。

 二人がまるで鏡に映したかのように、そっくりだったからである。

 高俅が二人に告げる。

「統制官の党世英と党世雄だ。党世雄、お前に三千を与える。水軍の補佐をせよ。党世英はわしと共にいろ」

 党兄弟は、同時に応と返事をした。

 声色までそっくりであった。そして節度使たちと並ぶ。すでにどちらがどちらであるか、分からなくなってしまった。

「さて、梁山泊を潰しに行くぞ。甲を持て」

 高俅がうっそりと立ち上がった。

 梁山泊軍と高俅軍が対峙していた。

 高俅側から一騎が進み出た。

 白髪白髯が風に揺れている。

 老風流、王煥である。

「この戦力差を見て分かるだろう。おとなしく降伏するならば、今のうちである。天子さまのお心は寛大だ。招安を蹴った罪も許してくださるだろう」

 朗々と響きわたる声は、その胆力が老いて益々意気軒高である事を知らしめた。

 それに応えるように梁山泊の旗が割れ、そこから一騎現れる。

 梁山泊頭領、及時雨の宋江であった。

「これはこれは、王煥どののご高名は伺っております。ですがそれも過去の事。王どの、あなたは戦うには年を取り過ぎたようだ。ここで間違いがあっては、あなたの栄光も台無しです。どうか別の若い者をお出しください」

 戦慄が走った。

 慇懃無礼な言葉に、節度使たちはおろか梁山泊軍さえも凍りつくようであった。ひとり、呉用だけが羽扇を悠然とくゆらせていた。

「何だと貴様。水たまりのこそ泥風情が、そのような口を。過去の栄光かどうか、思い知らせてやろう」

 顔を真っ赤にして、王煥が怒鳴った。

 戦の前に抱いていた、梁山泊への想いなど、どこかへ吹き飛んだ。

 だが宋江はなおも呷るように言う。

「残念ながら梁山泊には、あなたに負けるような者はひとりもおりません」

 その言葉の途中で、すでに王煥が駆けていた。

 槍が宋江に迫る。

 だが陰から一騎が風の如く飛び出した。

 槍が交差した。歯噛みした王煥を、林冲が見据える。

「我が名は林冲。私がお相手いたす。老風流どの」

「禁軍教頭、林冲か。良いだろう」

 両軍が見守るなか、王煥と林冲が激突した。

 ほぼ互角だった。

 宋江の言葉で冷静さを欠いていなければ、と思うほど王煥の腕は健在だった。

 八十合もの打ち合いの末、太鼓が鳴らされる。王煥と林冲、去り際に互いに一瞥を送るだけで、無言だった。

 高俅が鼻梁に皺を寄せる。林冲め、待っていろ。必ずその首を獲ってやる。そして、あの悪夢を終わらせるのだ。

 労いの言葉もなく、次は誰だ、と高俅が告げる。

 私が、と名乗りを上げたのは荊忠。荊南嵐と称される清河天水節度使だ。手にする得物は大桿刀。

 対する梁山泊からは呼延灼が馬を進める。

 呼延灼が名乗りを上げる前に、荊忠が襲いかかる。大桿刀を縦横に振りまわす技は、まさに嵐だった。

 だがその嵐が止んだ。呼延灼の鞭が、大桿刀をしっかと抑えこんでいた。

 驚愕の表情を浮かべた荊忠。次の瞬間、それは鉄鞭によって打ち砕かれた。

 頭部を失った荊忠の体が、ゆっくりと馬から落ちた。

 汗の一筋も流してはいない呼延灼が、高俅を睨んだ。

「次だ」

 決まり文句のように、高俅が言った。

 目の前で節度使のひとりが討たれたのだ。だが何事もなかったような顔をしていた。

「おのれ、山賊め。次は私が」

 と吼える韓存保だったが、それを止める者がいた。梁山泊を睨みつけるように、その節度使が前に出る。

 瑯琊彭城節度使、項元鎮である。

「俺が行かせてもらいますよ。こないだの様子見では、納得いかなくてね」

 そう言ったのは董平だった。不敵な笑みを浮かべ、両手の槍を振るい、馬を飛ばす。

 相手の項元鎮は、高俅軍の側にとどまっていた。しかしその目は、しっかりと董平を捉えている。

 いつの間にか、項元鎮は弓を構えていた。そして即座に矢が放たれた。

 驚いた董平だったが、右の槍で正確に矢を弾き飛ばした。

 が、そこに飛び込んできたのは、第二の矢だった。

 二本同時に放っていたのか。だが避けられぬほどでは、ない。

 董平の左の槍が、矢を弾いた。

 梁山泊軍の悲鳴が、歓喜に変わる。

 花栄の声がした。

「まだだ、董平。まだ来る。そいつは、その男は」

 矢が迫っていた。三本、だと。

 董平は動けない。

「その男は神射手、項元鎮だ」

 おお、と董平が叫ぶ。無理やりに体を捻じり、矢を何とかかわそうとした。しかし、矢は董平の右肘を貫いた。

 呻きながらも董平は、そう言う事は先に言ってくれよ、と苦笑いを浮かべた。

 項元鎮が次の矢を放った。董平を狙った矢は、なんと別の矢に射落とされた。

 花栄が弓を構えていた。

「矢で、矢を射るだと」

 高俅が呻いた。先ほどから無表情だった項元鎮も、眉をぴくりと動かした。

「ええい、全軍かかれ」

 高俅の命令が飛ぶ。狙いは負傷した董平だ。

 林冲、呼延灼がまず飛び出し、高俅軍とぶつかる。そのまま董平を守りつつ、高俅軍を押しとどめる。

 退却の鉦が鳴る。

 逃げる梁山泊軍だったが、高俅軍はそこまで深追いはしなかった。

 党世英から報告があった。水軍が予定通りに梁山湖周辺に辿り着いた。

「上手くいきましたな」

 王煥が馬を寄せてきた。平然としたその態度を見て、高俅は目を細めた。

 この年齢で、あの林冲と互角という腕には驚いた。それもあるが、先ほどとの変わりようはどうだ。あれほど顔を赤くしていたというのに、まるで何もなかったかのような風だ。

 梁山泊を引きつけておく。そのための演技だったというのか。

 老風流か、喰えぬ男だ。

bottom of page