108 outlaws
戦塵
二
秦明のたった一撃で、主導権を握った。
梁山泊軍の整然とした堂々たる布陣に呑まれかけていたところである。兵力差を埋めるのに、充分すぎるほどだった。
董平と索超が続いて飛び出した。それを見た童貫は素早く馬首を返し、後方へと消えた。残された正先鋒の段鵬挙がまとめようとするが、すでに兵は浮足立っていた。
童貫軍は乱れた。秦明、董平、索超は当たる側から童貫軍を蹴散らしてゆく。
得物を構えた段鵬挙の視界に、陳翥の無残な亡骸が映った。もし自分がと思うと背筋に冷たいものを感じた。
段鵬挙が叫ぶ。
「退がれ、退がるのだ」
童貫軍は三十里ほど退却した。一万もの兵を失っていた。
童貫の叱責を受けた段鵬挙だったが、相手は枢密である。何も言いかえす事などできなかった。
三日、兵を休めた。
そして鄷美、畢勝の指揮で長蛇の陣を敷いた。
文字通り蛇のような陣形で、頭が討たれれば尾が、尾が討たれれば頭が敵に応じるという陣である。
先頭に鄷美と畢勝が立つ。前回は、梁山泊が布陣している場所へと誘い込まれた。同じ轍は踏まぬように、慎重に軍を進める。
空が明るみだす頃から進発し、すでに昼近く。梁山泊兵どころか、人の気配すら感じない。ついには湖にまで到達してしまった。
「これは、どういうことだ。奴らはどこへ消えた」
鄷美と畢勝の元へ、童貫がやってきた。二人にも分からない。だが用心するに越したことはない。
湖の遥か向こうに、梁山が浮かんでいるのが見える。童貫が鼻の横に皺をつくった。
岸に打ち寄せる波の音だけが聞こえる。なにか別の世界に来てしまったようだった。
「あれを」
鄷美の示す先、葦の茂みに隠れるようにして舟が浮かんでいた。そこには筍(たけのこ)のような笠をかぶり、蓑を着込んだ男がひとりいた。男はどうやら釣り糸を垂らしているようだ。
戦の最中に釣りだと。しかもこの暑さの中で、なんという格好だ。
訝しんだ畢勝が、有無を言わさず矢を放った。矢は鋭い音をたて飛んだ。狙いは正確だった。確かに矢は男に当たった。しかし突き刺さることなく弾かれ、水の中へと落ちたのだ。
弓兵が舟の男を囲んだ。三百人が一斉に矢を放つ。何者だろうと、これでお終いだ。
「馬鹿な」
童貫はそう呻くだけで精一杯だった。ひと矢も突き刺さることなく、男は何事もなかったかのように悠然と糸を垂れたままだったのだ。
童貫のこめかみに青筋が浮かんだ。
すぐに五十人ほどの兵が甲を脱ぎ、水の中へと入ってゆく。舟をぐるりと取り囲み、男に襲いかかった。しかし男は拳を振るい、足を飛ばし、次々と兵たちを打ちのめしてしまう。
「奴を殺せ」
真っ赤になった童貫が叫ぶ。
おお、と今度は五百人もの兵が水中に飛び込む。
舟の男が童貫を向き、指を突き立てた。
「国を乱す賊臣め。ここまで来たからには、命を置いていってもらうほかないぞ」
男は笠と蓑を脱ぎ捨てると、湖に飛び込んだ。男は抜けるように白い肌だった。
兵たちが舟に殺到する。そのひとりが、悲鳴と共に水の中へと消えた。何事だと思う間もなく、またひとり、またひとりと水の中へと消えてゆく。
湖面が次第に赤く染まってきた。男はいみあだに水から顔すら出していない。時おり、男の
化け物か、と畢勝がつぶやく。そうする間にも、すでに半数近くの兵たちが水の中へと消えていた。
やがて湖面が凪いだ。男を襲った童貫兵すべてがいなくなった。
唖然とする童貫の背に、鄷美と畢勝が駆けつけた。
背後の山に杏黄色の旗が突如、現れたのだ。
童貫は眩暈を覚えた。
張順がゆっくりと湖面に頭を出した。
山の上で旗が揺れている。童貫軍は、予定通りそちらへ向かったようだ。
魚が跳ねるように、張順が舟に戻った。脱ぎ捨てた笠と蓑を拾う。
「痛てて」
肩口に手をやると、紫の痣ができていた。
「だから、さすがのお前でも無茶だと言ったんだ」
音もなくもう一艘の舟がこぎ寄せてきていた。舟を操る張横を見て、張順は安心したように微笑んだ。
笠と蓑のには鉄が仕込んであった。湯隆が丹念に鍛えた厚い鉄だったとはいえ、あれほど矢を討たれてはたまらない。気を失いそうなほどの衝撃だった。その後の水中での戦いは、さすが浪裏白跳と呼ばれる張順であったが。
「危なかったかな。まあ無事だったから良かったよ」
「まったく、お前は時々無茶というか無謀というか。この俺でさえ心配な時があるんだ」
「ありがとう、兄貴」
張横の言葉に眩しいほどの笑みでこたえる張順。それを見て張横はため息をつき、揺れる杏黄旗を仰ぎ見た。
張順が、追い剝ぎ船頭の稼業から足を洗うと言った時は寂しくもあったが、嬉しくもあった。弟にはこんな血の匂いのする道を歩いて欲しくないと、どこかで思っていたのだ。
招安か。阮三兄弟は反対のようだが、張横はどちらでも良かった。だが落草した張順の罪が許され、まっとうな道に戻れるのならば、とも考えていた。
気持ちはありがたいけど俺が決めた道を行くさ、と弟は言うのだろう。張横は、張順の背を見て微笑みを浮かべたものの、やはり心配げな顔であった。
「さあ、順。役目は果たした、戻るとしよう」
岸から離れようとした時、蹄の音が聞こえた。童貫軍が戻ってきたのか。張兄弟は咄嗟に刀を抜き、音の方向に構えた。
現れたのは呼延灼隊の兵だった。兵が張横に向かって訊ねた。
「童貫たちは、どちらへ行きましたか」
「あっちだ」
張横が山の上の旗を示す。
兵が礼を言い、来た道を駆け戻って行く。
岸から山裾を回ると、旗がはっきりと見えた。兵がしばらく駆けると、韓滔と行き合った。その後ろに彭玘もいた。兵の報告を聞き、韓滔が拳を握る。
「よし、手筈通りだな。待ってろよ、童貫」
「そんなに童貫と戦いたいのかい」
馬首を返し、二人が駆ける。部下たちも、それを追う。
「いや童貫というより」
「鄷美と畢勝、かい」
にやりと韓滔が笑った。
二竜山の戦い、夜陰と雨に乗じた奇襲で童貫軍は勝利を収めたという。だがその実、その二将が、楊志と魯智深という豪傑を苦しめたというのだ。韓滔はそれを聞いてから、いつか戦ってみたいと思っていたという。実に韓滔らしいと、彭玘は思った。
「呉秉彝って奴はどうなんだ。陳州の兵馬都監だろ」
「呉、何だって」
「呉秉彝だよ。知らないのか」
少しむっとした顔で韓滔が言い返した。
「知らないんじゃない。覚えてないんだ、きっと。そいつの顔を見たら思い出すさ」
彭玘は苦笑いを浮かべ、それ以上言うのをやめた。
前方に呼延灼が待っていた。
これから戦場が動きを見せる。童貫の退路を断つ位置に向かわねばならない。
長蛇の陣の、尾にあたる部分。
殿軍である呉秉彝が、無言で刃を覗き込むようにしていた。副殿軍の李明が険しい目で、それを見ている。
「梁山泊の連中、どこへ行っちまったのかな」
重い空気を嫌い、李明がそう聞くが、呉秉彝は何も答えない。
ますます眉間の皺が深くなる李明。だが呉秉彝は、李明の機嫌などどうでもよかった。
童貫の梁山泊討伐軍に、自ら志願した。名声を上げたい等ではなかった。
理由はたったひとつ。韓滔を殺すため、であった。
韓滔が東京開封府から来たとき、陳州の兵の間ですでにその名が知れ渡っていた。
曰く、百勝将の韓滔。あの呼延灼と互角に戦った男。
呉秉彝は鼻を鳴らした。噂を聞いてどんな男かと思っていたら、まだ青臭い若造ではないか。とかく噂は尾ひれがつくものだ。信用などできはしない。
しばらく経った頃である。
呉秉彝が刀を手にしていた。その刃が、目の前で跪く兵の首筋にあてられている。
処刑用の刀で、呉秉彝はそれを愛用しており、事あるごとにそれを振るった。部下たちも恐れて、呉秉彝を麻扎刀(まさつとう)と渾名した。
首を垂れた男は蒼白であった。麻扎刀が首筋を離れた。呉秉彝は黙って狙いをつける。麻扎刀が振り下ろされた。
だが聞こえたのは肉を斬る音ではなく、男の嗚咽でもなく、激しい金属音だった。
矛の穂先が、麻扎刀と首との間に割り込んでいた。
「な」
矛の主を確かめようとした呉秉彝だったが、胸ぐらをつかまれ投げ飛ばされた。地面に転がったまま、その矛の主を見た。
韓滔であった。
「こいつは確かに軍規に違反しましたが、殺すのは違いませんか」
呉秉彝が韓滔に指を突きつける。怒りで指が震えている。止められたことに、ではない。
「貴様、韓滔といったな。雑兵のお前が兵馬都監の俺に、口出しするというのか」
「兵馬都監だろうと統制だろうと、間違ったことは間違ってると言いますよ」
素早く立ち上がった呉秉彝は麻扎刀を拾い、韓滔に向かった。韓滔も怯むでもなく棗木槊を構える。
あわやの事態であったが、兵たちが二人を何とか止めた。
呉秉彝は去り際、何か言いたげに韓滔をちらりと見た。助かった男が韓滔にすがりつき、泣いていた。唾を吐き、呉秉彝はその場を去った。
騒ぎは上まで伝わったらしい。呉秉彝は三月の減俸とされ、韓滔は正規軍をはずされた。
それ以来、韓滔の顔は見ていない。呼延灼軍に抜擢されたと聞いた時は、冷静ではいられなかった。
何故あいつが。その思いがずっと胸に渦巻いていた。だが呼延灼が敗れ、韓滔ともども梁山泊に降ったと聞いた。
あの時の屈辱は忘れない。賊ならば、奴を堂々と殺すことができるのだ。
呉秉彝は思わず麻扎刀を手にし、禍々しい笑みを浮かべていた。
「おい、あんた。怖い顔してるぜ」
李明の声に、我に返った。瞬時に笑みを消し、立ち上がる。
「戦況はどうなのだ。童貫将軍は、どこまで進まれたのだ」
「湖まで到達したとまでは伝令が来ている。だがその後は分からん」
李明は苛立った。先ほどまでほとんど返事もしなかったくせに、いきなり命令口調か。自分はたまたま副になっただけだ。お前の部下になった訳ではないのだ。
ますます険悪な空気のところへ、伝令が来た。
前軍にいた童貫が離脱したという。
呉秉彝と李明が顔を見合わせる。一体、何が起きているというのだ。
ともかく二人は全軍を、前方へと向かわせる事にした。