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戦塵

 酒を飲みたくなる暑さだった。

 だが兵の誰も、汗を流れるままに行軍を続けている。

 だが中軍の中央にいる童貫の頭上にのみ、傘が掲げられていた。

 殿軍の李明がぼやいた。

「ちぇ、自分だけかよ」

 同じ殿軍の呉秉彝が、聞こえるぞというような目をした。聞こえるかよ、と返そうとした李明は飛び上がりそうになった。

 童貫が太い首を回し、こちらを見ていたのだ。李明はばつが悪そうに愛想笑いを浮かべた。童貫は何も言わず、再び正面を見据え、馬に揺られた。

「あれは」

 前軍の段鵬挙が叫んだ。

 一同が見ると、彼方に砂ぼこりが見えた。三十騎ほどの斥候のようだ。

 中央には緑の軍袍の男。旗印には、没羽箭の張清と見える。左右には凶悪そうな二人がいる。張清は百歩ほどまで近付いてきたが、馬首を返して離れていった。

 段鵬挙と陳翥は、鳥急ぎ中軍へと報告した。

 童貫が鄷美と畢勝を連れ、前方に来ると、張清が再び近づいてきた。龔旺と丁得孫がからかうように、なにかを叫んでいる。

「馬鹿にしおって、梁山泊め。追え、奴らを仕留めて来い」

「お待ちください」

 止めたのは鄷美だった。

「あの張清という男、確かもと東昌府の兵馬都監で、石礫の妙技を持つとか。追えば奴の思惑通りです」

「そうか。まああの程度の数、蠅のようなもの。いつでも蹴散らせるか」

 その後、張清は三度ほど挑発をかけてきたが、童貫軍は構わず軍を進めた。

 五里ほど行ったところで、銅鑼の音が鳴り響いた。山裾からおよそ五百の歩兵が現れた。みな一様に団牌を手にしていた。歩兵の中央には両手に斧を持った悪鬼のような男。

 梁山泊歩兵たちは一文字にならび、手にした団牌をぎっしりと並べた。

「ふん、通さんという気か。鄷美、今度は止めるなよ」

 歩兵ということで気を大きくしたのか、童貫が攻撃の指示を出す。

 迫る童貫軍に対し、梁山泊歩兵が二つに分かれた。そして背を向けると山裾に沿って逃げだした。

 童貫が追撃の命令を飛ばす。鄷美は止めようとしたが、間に合わない。

 歩兵たちを追い、山を回った先は広い原野だった。

 童貫軍はここで陣を敷いた。それが終わるころ、原野を囲む山向こうから砲声が轟いた。

「なるほど。そういう事か」

 八人の兵馬都監たちの顔が曇る。

 だが鄷美と畢勝は当然だという表情だ。

 童貫は即座に笑みを消し、武人の顔になっていた。

 

 張清の報告を受け、李逵らの歩兵隊の陽動で、童貫軍をこの原野へと導いた。

 兵力では八万とやや劣る梁山泊軍が勝利を収めるには、やはり先の先の手を打たねばならない。

 砲が放たれた。それを合図に、梁山泊が姿を現す。

 東西南北から青、白、赤、黒の軍袍を着込み、旗を掲げた兵が布陣する。関勝、林冲、秦明、呼延灼が率いる。さらにその間の方角からも四つの軍が現れ、八包囲をしっかりと固めた。

 一番後方には後詰めには扈三娘、孫二娘、顧大嫂と彼女らの夫が頭となる部隊が備える。また遊撃隊として穆弘、劉唐らが童貫の首を狙う。

 そしてその囲いの中に、別の一団がいた。四つの門を模した軍の前に、方天画戟と杈を手にした兵たちが列をなす。呂方、郭盛そして解珍、解宝の隊だ。その後ろに並ぶのが処刑刀を手にした物騒な連中で、彼らを率いる蔡福、蔡慶の二人がさらに禍々しい笑みを浮かべている。

 門の左右には徐寧と花栄の指揮の下、金鎗隊と銀鎗隊が整然と居並び、門を守るように凌振の砲がずらりと鎮座している。

 門の内部には堂々と、巨大な旗がひと際目を引くように風に揺れている。替天行動、その文字が梁山泊兵の心を鼓舞する。その、郁保四に護持された旗の下に、公孫勝、呉用そして盧俊義が敵を見据えている。

 そして梁山泊軍の中央、そこに照夜玉獅子に跨る宋江の姿があった。

 どこか決然とした表情で、眼前の童貫軍を見ていた。

 やがて剣を抜き、ゆっくりと右手を前に伸ばした。その切っ先は真っ直ぐ、童貫を示していた。

「小癪な真似を」

 そう言いながらも童貫は、ほんの少し感心もしていた。なるほど山賊と侮っていたが、これほどの陣を敷いてくるか。これでは並の軍など負けるのも無理はない。

 だが、わしに勝てるはずはない。童貫が目を見開いた。

「先鋒は誰だ。行けい。まずは首ひとつ、土産にするのだ」

 童貫の声と共に、陳翥が馬に鞭をくれた。正先鋒である段鵬挙は出し抜かれた形だ。

「おい待て、陳翥」

「すまんね。初手柄は俺がもらうぞ」

 馬が一気に加速する。

 梁山泊側からも一騎飛び出してきた。

「来い。俺は鄭州兵馬都監、蒼鷹翅(そうようし)の陳翥だ。せめて名乗ってから死ねい」

「梁山泊、五虎将がひとり。霹靂火の秦明」

 陳翥が秦明めがけ、刀を振り下ろす。

 秦明は構わず、狼牙棒を横薙ぎに払った。

 互いの騎馬が交差した。

 馬上に、陳翥の姿がなかった。

 秦明の方はそのままの勢いで、童貫軍へと突き進んでくる。

 段鵬挙は見た。

 陳翥が、鷹のようにではなく、ぼろ布のように宙を舞っているのを。

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