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戦塵

 梁山泊周辺の地図が置かれている。

 軍を模した駒が、長く伸びた蛇のように並べられている。

「長蛇の陣です。頭を攻められれば尾が、尾が攻められれば頭が、という柔軟な動きの陣です」

 朱武がそう言いながら、地図を見つめていた。宋江と盧俊義が黙って聞いている。呉用も口を挟まず、目を細めている。

「ですがそれは、頭または尾のみが攻められた場合ということでもあります」

 朱武が別の駒を取り出す。そして長蛇の陣の横に次々と置いてゆく。

「頭も尾も、胴体も、同時に攻めたならばどうなるでしょう」

 おお、と宋江が身を乗り出した。

 蛇の横に駒が並べられていた。その数、十箇所である。

 呉用が静かに言う。

「十面埋伏ですね」

「いかにも」

「ひとつ、提案しても」

 朱武の返事を待たず、呉用は宋江へと向いた。

「蛇の頭をおびき寄せる役をやっていただきたいのです、宋江どの」

 だが口を開いたのは盧俊義だった。

「待ってくれ軍師どの。その役目はわしがやろう。宋江どのは総大将だ。それを矢面に立たせ、しかも囮にするというのか」

「そうです」

「そうです、だと」

 待ってください、と宋江が立ちあがる。

「私がやります。盧俊義どのは、各隊への指揮を頼みたい。良いですか、軍師どの」

 こくりと呉用が頷く。盧俊義が拳を握る。晁蓋がいた時はなるべく戦には出さなかったと聞いていたのだが。

 すぐに朱武が伝令を送るため、出ていった。呉用もそれに続く。

「宋江どの、よいのか」

「餌の姿を見せねば、蛇も喰いついてはこないでしょう。なに、これでも戦の経験は多くなってきたんです。それに梁山泊の力を、信じていますから」

 晁蓋はどこか自分の腕を頼るところがあった。だが武に関して人並み以上ではない宋江は違った。いや武だけではない。己にはないものを持っている者を、素直に認め、尊敬すらするのだ。

「さあ、行きましょう」

 宋江は微笑んだ。

 それは優しいだけではなく、どこか強さを感じさせるものであった。

 盧俊義は、宋江と晁蓋を何かにつけて比べてしまっていることに気付いた。

 晁蓋はもういない。そして宋江が、今の頭領なのだ。

 うむ、と盧俊義は力強く頷いた。

 揺れる杏黄旗を目指し、童貫は駆けた。

 どうやらおびき寄せられているようだ。だが避けずに、あえて乗ることにした。

 まだ戦力では負けていないのだ。それに畢勝と鄷美がいる。奴らの、梁山泊の鼻を明かしてやる。

 斥候によれば、旗の元には確かに梁山泊頭領の宋江がいるという。どんな策を弄しようと、宋江さえ仕留めたならば終わりだ。

 そこへ別の斥候が報告へ来た。伏兵だというのだ。やはり来たな。敵が左右から挟みこむように現れた。

「鄷美、畢勝」

 二将が、童貫を守るように分かれ、それぞれ左右の敵と相対する。

 伏兵は朱仝と雷横の隊で、五千ずつを率いていた。

「畢勝、お前はそっちを」

 鄷美が言い、朱仝の方へと向かう。そして雷横に向かって、畢勝が駆けた。すらりと刀を抜き放つ畢勝。

「へへ、よりによって虎の兜かよ。面白え」

 雷横が馬を駆りながら、朴刀を構える。

「さあ、かかってこい。俺の名は挿翅虎の」

「必要ない」

 あん、と雷横がいぶかしむ。

「お前のような雑魚の名など、必要ないと言っているのだ」

「へ、今の言葉、後悔させてやるぜ」

 畢勝と雷横が馳せ違った。刀と刀がぶつかり、鋭い音を立てた。雷横が畢勝の方へと、馬首を返す。

「やるじゃねぇか。手前の名前だけでも聞いといてやるよ」

「それも必要ない。雑魚に教える名など、持っておらん」

「手前え」

 雷横が眉を吊り上げる。互いの距離がまた縮まる。

「雷横」

 と朱仝の叫びが聞こえた。そこで雷横が気付いた。雷横の刀が、中ほどから両断されていたのだ。

 両者の馬が交差する。畢勝がにやりと不敵に笑み、刀を横薙ぎにした。

 雷横は咄嗟に馬の首にしがみつくように身を伏せた。風をはらんだ刀が、背中すれすれを通るのがわかった。

 畢勝と雷横が三度向き合う。

「挿翅虎といったが、どうやら名前負けのようだな」

「うるせぇ」

 雷横は汗を拭い、思う。奴の手にしているのが、楊志が言っていた宝刀か。鉄を両断するなどと話半分に聞いていたが。雷横は思い出した。その相手は確か飛虎将と呼ばれる畢勝という男だ。

 似たような二つ名を名乗りやがって。無性に怒りが湧いてきた。雷横は断たれた刀を手に、再び畢勝に向きなおった。

「雷横、やめろ」

 朱仝が叫ぶ。雷横のあの顔は、無茶なことをする時のものだ。雷横、と朱仝が三度叫んだ。だが四度目はなかった。

「お主の相手はわしだ。見くびられているのかな」

 鄷美の偃月刀が朱仝に襲いかかる。朱仝は刀を舞わせ、それを凌ぐと距離をとった。

 見くびっている訳ではない。あの魯智深をてこずらせた男と聞いている。手を抜いて勝てる相手ではない。

 しかし鄷美の攻撃が激しさを増す。朱仝は気合を入れ、刀を構えなおす。こうなれば、雷横を信じるしかない。

 雷横と畢勝がぶつからんという勢いで駆けている。

「自分から死にに来るか、いい度胸だ」

 畢勝の挑発に、雷横は雄叫びで応える。畢勝が刀を上げた。雷横は手綱を握ったまま駆ける。

 鉄をも断ち切る宝刀が振り下ろされる寸前、雷横は手綱を思いきり右へ引いた。切っ先のわずか横を、雷横の馬が猛烈な勢いで駆け抜けた。

「武器なしでやり合うと思ったのかよ。じゃあな」

 と雷横はみるみる小さくなってゆく。雷横が率いていた兵たちも、それについて戦線を離脱してゆく。畢勝は顔を赤くして追おうとした。

 偃月刀が朱仝を襲う。体を大きくひねり、何とか避けた。自慢の髯が幾本か切られ、はらはらと風に舞った。

 ふ、と朱仝が笑った。それに鄷美が解せない顔をした。

 雷横が無謀に突っ込むとばかり思っていた。だが違った。それが可笑しくもあり、嬉しくもあったのだ。

「お主の相手はまた今度だ。いずれ会うこともあろう」

 朱仝がそう叫び、馬首を返した。自軍の兵をまとめ、去ってゆく。鄷美は目を細めるだけで追うことはしなかった。

 む、と鄷美が異変に気づいた。

 山上へ向かっている童貫軍が、引き返して来ている。何事だ。

「畢勝、追うな。童枢密が」

 鄷美の叫びに気付いた畢勝は、すぐに状況を飲みこんだ。雷横を放っておき、兵をまとめ鄷美と合流する。

 童貫が必死に駆けおりてくる。畢勝、鄷美とすれ違う。

「伏兵だ。ぬかったわ」

 それだけ言い、疾駆してゆく。

 鄷美、畢勝が新手に備える。やがて現れたのはまたもふたつの隊だった。

 将のひとりは初戦で陳翥を一撃で屠った霹靂火の秦明。

 もうひとりは伝説の英雄、関羽を彷彿とさせる風貌の将。鄷美も畢勝も聞き及んでいた。北京大名府での戦で梁山泊に降った男、大刀の関勝である。

 鄷美と畢勝が同時に駆けた。秦明と畢勝が、関勝と鄷美がぶつかる。

 狼牙棒が唸りを上げ、畢勝を襲う。一瞬、刀で受け止めようとしたが、躊躇した。鉄をも両断する宝刀とはいえ狼牙棒の勢いに、敵わぬかもしれないと怯んでしまったのだ。

「どうした。童貫軍も大したことはないではないか」

 上体を捻り、狼牙棒をかわす。余裕のある距離だったにもかかわらず、びりびりと肌が震えた。陳翥が中空に舞っている姿を思い出した。

「抜かせ、山賊などに降りおって」

 畢勝が刀を納め、鞍から弓を取り出した。矢を素早くつがえ、秦明に向かって放(はな)った。

 だが、秦明は焦ることなく得物で矢を弾いた。

「その程度の矢、梁山泊では見飽きておるわ」

 秦明と同じく青州からの降将で花栄という者がいた。宋でも一番の弓の名手だという話だ。その事を言っているのだろう。

 畢勝が唾を吐いた。

 鄷美は関勝と打ち合っている。奇しくも同じ得物、青竜偃月刀である。微笑んでさえ見える関勝。一方の鄷美は口を真一文字に結んでいる。

 この関勝、腕もありながら戦略にも長けていると聞く。北京大名府戦ではもう少しのところで梁山泊を陥とすところだったとか。敵にしておくには惜しい男だ、と鄷美は素直に思った。

 関勝と十数合打ち合ったところで、畢勝が叫んだ。

「鄷美、おかしいぞ」

 関勝から一旦離れる。

「どうした、終わりか」

 ずい、と関勝が馬を進める。

 確かにおかしい。自軍の他の隊が一向にやって来ないのだ。まさか長蛇の陣が、すでに崩されているのか。

「終わりだ」

 鄷美が背を向け、馬を飛ばした。畢勝もそれに続く。

「どうする、鄷美」

「枢密を追うぞ」

 秦明と関勝は追って来ないようだ。

 やはり兵馬都監らも攻撃を受けているのだ。

 だが、まだ負けたわけではない。

 鄷美は一度大きく息を吸い、自分を落ち着かせた。

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