108 outlaws
戦塵
四
前方からも、後方からも、至るところから喊声が聞こえている。
「どうなっているのだ。童枢密からの指示はまだ来ないのか」
睢州兵馬都監、鎮鄷都の段鵬挙が首を伸ばし、戦況を見極めようとする。側にいる汝州兵馬都監の馬万里は落ち着いた様子で馬に揺られている。
超然とした態度をしおって。馬霊官などと渾名されているようだが、慌てている自分が恥ずかしいではないか。
そこへ伝令が駆けつけた。
段鵬挙は咳払いをし、ことさら勿体ぶって報告を聞く。そしてすぐに顔を青ざめさせた。
「馬万里、聞け。長蛇の陣は破られた。梁山泊の攻撃で、各隊が分断されたのだ」
馬万里は段鵬挙に背を向けていた。おい、と呼ぶが、馬万里は振り向かない。
「来たぞ。梁山泊だ」
「何だと」
側面を突くように、梁山泊軍が突進してきた。童貫軍の兵馬都監の誰よりも、軍人然とした二将が率いている。
足首から先だけが雪のように白い、大きな黒毛の馬の将が両手に鉄鞭を持っている。段鵬挙がごくりと唾を飲んだ。間違いない、双鞭の呼延灼だ。
そしてもう一人は蛇矛を手にしていた。風貌からも、元禁軍教頭、豹子頭の林冲であると思われた。
馬万里が林冲に向けて突っ込んでいった。舌打ちをし、段鵬挙も呼延灼へと向かう。近づくにつれ、呼延灼の姿が実際よりも大きく見えてきた。
勝てない。段鵬挙は即座にそう悟った。
馬万里に退却を告げようとしたが、それは遅かった。馬万里はすでに、林冲に倒されていた。地面に馬万里の骸が転がっていた。
呼延灼が鞭を振り上げ吼えた。
段鵬挙も叫んだ。大声で恐怖を振りきり、段鵬挙は何とか馬を反転させた。そしてそのまま戦線から離脱していった。
童貫は、鄷美と畢勝に守られながら駆け続けていた。
兵馬都監たちを集める伝令を何度も飛ばしながら、前軍と合流を果たそうとする。
童貫は歯ぎしりをしている。このまま負けるというのか。このわしが。帝に何と報告すればよいというのだ。
またも喚声が上がった。山の裏から歩兵軍が現れた。
「見つけたぞ、童貫。ものども突っ込めい」
歩兵の先頭、巨躯の僧が大喝した。隣には行者姿の男が、両手に刀を握っている。
「何だあいつらは」
覗き込むように、童貫が首を伸ばす。鄷美が反応を示した。
あの熊のような僧は、魯智深だ。二竜山以来か。
戦いたい、鄷美は自分がそう思っていることに気付き、驚いた。
これまで幾多の相手と戦ってきた。だがその相手に何かを感じたことなどなかった。倒すべきただの敵であった。魯智深もそのひとり、そのはずであった。
「お前は鄷美と言ったか。あの時の借りでも返させてもらおうかのう」
魯智深にそう言われ、鄷美は少し嬉しくもあった。だがこの状況ではそうもいかなかった。童貫を守り、まずは安全な場へ脱出しなければならない。
行者が手当たり次第に、兵を斬りまくっている。刃からは血が滴り落ち、まるで刀が血を吸っているかのようだ。いや、あの行者が悪鬼そのものなのか。
童貫軍は恐慌をきたし四分五裂した。
童貫らは何とかこれを突破し、山の向こうへと逃げた。しかしまたも号砲が轟く。
山道からまたも歩兵の一団が飛び出してくる。歩兵たちは皆、猟師のような格好で鉄叉を手にしていた。
その鉄叉に騎兵が倒されてゆく。さらに前方に二人の男が立ちはだかった。虎の毛皮を着た、ひと際体格のいい猟師だった。
「さすが兄貴の言う通り、こっちへ来やがったな」
「さあて、三頭とも仕留めるとするか、宝」
童貫らを獣扱いする解珍と解宝が、叉を構えた。
だが童貫は、馬を左に曲げた。畢勝と鄷美は、突然の動きに戸惑うも、何とか童貫に食らいついてゆく。
「おい、逃げちまったな」
「ああ」
残された解兄弟が茫然としていた。
しばし駆けると、横合いから味方の軍勢が合流してきた。左翼に配されていた、韓天麟と王義の隊であった。
韓天麟が馬を寄せる。
「ご無事でしたか、童枢密。すぐに馳せ参じようとしたのですが、梁山泊の連中があちこちから蠅のように湧いて来まして」
童貫の不服そうな表情を見た鄷美が命じる。
「もう良い。枢密を後方へお送りする。お前たちは、何としても枢密を守るのだ」
ははっ、と韓天麟、王義が応じた。
畢勝が南を示す。小山が見えた。童貫が頷き、山へと向かう。
だがすぐに喚声が沸き起こった。梁山泊軍が山への道を挟むように押し寄せる。
「ここは我らが」
と言うや、王義が右へと駆けた。韓天麟の目が、鄷美と合った。
「おのれ、梁山泊め」
仕方なさそうにそう叫ぶと、韓天麟は左へと駆けた。だが心中で、韓天麟は舌打ちをしていた。
小鬼谷と呼ばれる自分は、どちらかというと交渉事が向いているのだ。並の兵には引けを取らぬ腕は持っている。だが戦よりも、始まる段階で様々な謀をめぐらせて勝ちに導くのが常套手段であった。枢密は己の、その力を買ってくれたのではないのか。
しかし策らしい策を講じるでもなく、梁山泊との戦は始まった。せめて少しでも任せてもらえていたなら、と思うが、それも遅いようだ。
目の前に迫るのは、二本の槍を両手に構えた将だった。韓天麟も名はよく知っている。 双鎗将の董平、つい先日まで東平府の兵馬都監だった男だ。
韓天麟は馬を速め、にやりとした。董平が迫る。配下たちはすでに乱戦となっており、土煙が舞っている。
刀を抜きつつ、董平だけに聞こえるように言った。
「お主は董平だろう。いましばらく待て」
「なにを待てというのだ。戦の最中だぞ」
董平が槍を繰り出した。韓天麟は体を捻り、何とか避けると言葉を続けた。
「待ってくれ。お主にとって、よい話があるのだ」
董平は攻撃を止めない。韓天麟はそれを防ぎながら続けた。
「官軍に戻りたいだろう。私から枢密に話をさせてくれないか。ずっと良い待遇で迎えることを約束しよう。どうだ、悪い話ではなかろう」
槍の雨が止んだ。董平はうつむき加減で、その表情は分からなかった。
鼻から安堵の息を吐き、韓天麟が駄目押しをしようと前に出た。好きで山賊などになった訳ではあるまい。復職できるならば何がなんでもしたいだろうて。
ふいに董平が韓天麟を見据えた。
「風流じゃあないな」
「え」
韓天麟の胸が槍に貫かれていた。信じられぬ、という顔で韓天麟が槍の柄を見ている。そしてもう一本の槍が腹を貫いた。
血の泡を吐きながら、韓天麟が馬からずり落ちた。落ちてなお、その目は董平を見ていた。どうして、と言いたそうな目だった。
「言っただろう。風流じゃないからさ」
董平は憐れむようにそう言った。
右へ駆けた王義の正面には金蘸斧を手にする将、急先鋒の索超が迫る。
おお、と互いが叫ぶ。
得物が届く距離、王義が刀を上段から振り下ろす。索超は金蘸斧を両手で持ち、横にする事でそれを防いだ。
索超の目に光るものが見えた。光はがら空きになった索超の体めがけ、突きあげるようにして来た。
即座に腹に力を込め、索超は体をのけ反らせようとした。光が通り抜けるときに、金属を引っ掻くような耳障りな音がした。
王義と間を取り、索超が甲に手を当てた。三本の傷がつけられていた。
「躱すとはな」
王義がいつの間にか、手甲をはめていた。手甲には三本の長い虎の爪のような刃がつけられていた。王義が玉虎爪と呼ばれる所以だった。
王義の顔に焦りの色が浮かんだ。
「もう、通じんぞ。来るなら正々堂々と来い」
索超が吼えた。王義も吼えた。
王義は槍を捨て、捨て身の態勢だ。だが金蘸斧が容赦なく襲いかかる。王義は脳天をかち割られ、果てた。
乱戦の中、鄷美と畢勝が童貫を守り、駆け続ける。
やがて道を登り、小高い山上へと逃れた。
戦場を見下ろす童貫。官軍は梁山泊軍に押されている。
「韓天麟、王義ともにやられたようです」
「そうか」
鄷美の報告に、童貫は短くそう言った。死んだ兵馬都監の名など覚えてはいなかった。
「他の連中はどこだ」
童貫が叫ぶ。
梁山泊に勝てぬかもしれない。
だが、だからといって死にたくはない。
華々しく散ろう、などと考えた事もない。
遼国との戦いでも、どんな苦しい戦いでも生き延びてきた。
死んでたまるものか。
童貫が宦官とは思えぬ、憤怒の表情を浮かべていた。