108 outlaws
交戦
二
「お待ちしておりました、お役人の皆さま。何もありませんが、お茶でも召し上がってください」
梁山泊にほど近い居酒屋に、黄安の副官たちがいた。黄安隊が阮三兄弟を見つける二刻ほど前のことである。
人の良さそうな店主がそう言って茶を運ばせた。
「湖の中にある寨へはどうやって行けば良いのだ」
「はい、何せここら一帯は丈の高い葦が多く、また水路も複雑で地元の漁師すら迷ってしまう始末で」
そうか、と副官が茶をすする。
「梁山泊の奴らは横暴を極め、この貧乏人からもみかじめ料をぶん捕って行くんです。今日、お役人様方が来てくれたんで、もうひと安心でさ」
店主は手を揉み、懇願するような目で副官を見ている。そしてすっと副官に近づくと声を落として囁きだした。
「実は、あそこへ行く抜け道があるらしいのです」
なに、と副官は湯呑みを卓へ乱暴に置き、店主に顔を寄せる。
「壁に耳ありです、どうかそのままで」
と店主にたしなめられ姿勢を正す副官。何事も無かったかのように湯呑みを手にした。
話によると、梁山泊へは複雑な水路を抜けねばたどり着けないという。店主もその道筋は知らないが、東の入江あたりに、その入口となる場所がある事は確かなのだという。
副官は居酒屋を後にすると、部隊を進発させた。
まだあたりに影は見えない。充分注意しながら副官隊は船を進めていった。
しばらく行くと確かに入口らしき場所を見つける事ができた。明らかに人為的に葦が刈り取られているのだ。
ここか、と先遣隊を何艘か送りだした。
静かだった。
船に当たる波の音と、時おり鳴く鳥の声だけが聞こえていた。
半刻ほどすると先遣隊が戻って来た。思った通り、梁山泊への入口らしい。
水路は奥へと続いていた。号令は控え、なるべく静かに船を進めた。
やがて開けた場所に出ると、前方に船影が見えた。
二艘。それぞれ5人ほどが乗り、舳先には共に大男が立っていた。二人とも手に武器を持っており、こちらを睨みつけている。
「出たな、賊め。やれ」
静寂を破る大声で副官が号令を発した。それに応じ、一斉に部隊が船の速度を上げる。
驚いた水鳥たちが茂みから飛び立ってゆく。
梁山泊の船がくるりと背を向け逃げてゆく。
副官はそれを追ったが、慣れない上に狭い水路では二列並ぶのがやっとで、なかなか距離が縮まらない。
三、四里ほど追った時である。水路の両側から小型の船が八艘ほど現われた。乗員は手に弓矢をつがえていた。
しまった。思った時には遅かった。副官隊めがけて矢の雨が降り注いだ。
船を展開する広さはなく、こちらが矢を準備する暇もない。必死に楯で防ぎながら、隊を進ませ、その場から急いで離れた。
いつの間にか追っていた船は消えていた。
何とか矢の攻撃からは逃れられたようだ。兵を見ると三分の一ほどが減っていた。
くそ、と毒づく副官。
腕に刺さった矢を折ると、それを湖へ投げ捨てた。
負傷者に手当てをさせ、辺りを見渡す。すでに道を見失っていた。一旦、態勢を整えるべく副官隊は岸辺へと船を近づけた。
だが突如、岸辺に大勢の人影が湧いて出た。
岸辺の軍勢が何かを投げて来た。石や目つぶしだ。当たってもどうという事はないが、いかんせん煩わしい。
「子供じみた真似を。やれ」
岸辺の軍勢を排除すべく、船をさらに岸へ寄せる。
わあっ、と石を投げていた連中が下がると、入れ替わりで別の一隊が前へ出て来た。手に弓を持ち、矢がつがえられていた。
またか、副官は急いで矢の準備をさせた。
だが副官は違和感を覚えた。岸辺の敵がつがえている矢がおかしい。見ると矢の先に布のような物が巻かれている。
先ほど後ろに退(ひ)いた敵兵が松明を手に戻って来た。そして弓兵の持つ矢の先に火をともした。
火矢か。
しまった、と思うと同時にそれは副官隊めがけて放たれた。船体にいくつもの火矢が突き刺さる。
「ええい、射ち返せ」
火が簡単に船に燃え移る事はない。火矢の消火作業と同時に反撃しようとした時だった。突如、火の勢いが増した。
何事だ。副官が炎から身をかわしたが、船に投げ込まれていた石を踏みつけ転んでしまった。
くそ、と憎々しげに石を掴んだ。だがそれは石ではなかった。
火矢の近くのそれが音を立てて燃えだした。よく見るとそれは、冷えて固まった油のようなものだった。
船底には本物の石も落ちていた。それに紛れてこの油の固まったものも投げ込んでいたのだ。
「退け、退くのだ」
岸から離れ始めた船団に、今度は本物の矢が襲いかかる。
燃え盛る船は湖面を赤々と染め上げる。兵たちが矢に当たり、次々と倒れてゆく。副官自身が乗る船もすでに火に包まれている。
「飛びこめ」
号令を発し、湖へと逃げ込む。頭上からは矢の雨だ。
必死に潜り、何とかかわそうとする。何本か背をかすめたようだ。
他の兵たちを気遣う余裕すらなく、副官はやっとのことで少し離れた岸へとたどり着いた。水から上がり、四つん這いの姿勢で荒く呼吸をする。
軍服が水を吸い、重かった。
副官は道に迷いながらも、陸で待機させている部隊の元へたどり着いた。
だがそこで待っている者は一人としていなかった。
六百頭余りの軍馬もすべて消え失せていた。
そこで副官が見たのは、近くの沼で骸(むくろ)と化した兵たちの姿だった。
何という事だ。目眩(めまい)を覚えた副官は何濤の事を思い出した。
梁山泊の恐ろしさを知らしめるために両耳を削ぎ落され、あえて生きたまま帰された何濤の事を。
副官は絶望と共に、梁山泊の恐ろしさを今、実感する事になった。
馬が軽く鼻を鳴らした。
「急(せ)くな。私より気が短いな、お前は」
馬上の林冲は愛馬の首をさすり、落ち着かせた。
梁山泊へ来てから出会った馬だ。気性がやや荒いが、よく走り頭も良かった。
王倫がいた頃も馬に乗ってはいたが、戦と呼べるようなものではなかった。
杜遷や宋万が奪った糧食を運ぶ護衛や、金持ちそうな旅人を襲ったくらいだ。
王倫は林冲の実力が疎ましかった。だからなるべく手柄を立てさせない様にしていたのだろう。
頭領が晁蓋に代わり、梁山泊も変わり始めた。
軍師というより参謀的な呉用の指示で強固な組織づくりが始められた。
官軍などの外敵に対抗するため軍備を増強し、林冲は兵の調練を任された。
また更なる増員を想定して宿舎を増設し、糧食までも自給の道をとり始めた。
朱貴の店と連携し、まずは近隣に情報屋を送りこんだ。団練使である黄安出兵の情報をいち早く掴んだのも、その成果だ。
兵数約千。相手にとって不足はない。
王倫の元、煮え湯を飲まされてきた感のある林冲も、蛇矛(だぼう)を持つ手に力が入る。
引き連れて来た軍馬を石碣村に係留して、黄安は湖上へと進発していた。
斥候の報告では、見張りの兵は約百人。こちらは敵の半数にも満たないが精鋭だと、林冲は自負している。禁軍並ではないにしても、このひと月みっちりと仕込んだ者たちだ。
「行くぞ」
馬たちが駆けだした。
すぐに石碣村が見えてきた。
敵の軍馬が見えた。
驚く見張りの兵の顔が見えた。
次の瞬間、その兵の首は宙を舞っていた。
部下たちが敵兵を次々と襲っていく。
軍馬を奪い、敵兵の死体を沼に片づけて、立ち去る。
まさに突風のようだった。
風が吹き抜けると、そこには馬の蹄と地面にしみ込んだ血の跡だけが残されていた。