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交戦

 青ざめた顔で報告に来た副官以上に青ざめた顔で黄安は叫んだ。

「船を戻せ、奴らの罠だ」

 だが黄安の前に阮氏の三兄弟が戻って来ていた。

 いつの間にか十艘ほどの敵船が黄安たちをとり囲むようにそこにいた。

 遅かった、だがやるしかない。

 黄安は覚悟を決め、槍先を阮三兄弟に突きつける。兵と船の数では圧倒的にこちらが勝(まさ)っているのだ、臆する事はない。

「迎え討て。何としても奴らを捕えるのだ」

 舳先の阮小二がにやりと笑った。

「さあ、弟たちよ思いきり暴れていいぞ」

「兄貴のお許しが出たぜ、小七」

「へへへ、言われなくてもやってやるさ、兄貴」

 兄弟の乗る船が真っ直ぐ黄安へと向かう。増援の船はゆっくりと包囲網を狭めてゆく。

「たかが十艘ごときで何ができる。怯むな陣形を固めろ」

 黄安を守るように、船は蓮の花のような形になる。

「俺から行くぜ」

 阮小五の乗る船が頭一つ抜けた。手にしているのは船を漕ぐための櫂(かい)だ。

「せっかく忠告してやったのに、わざわざ殺されに来るとはな。もう容赦はしないぜ」

 阮小五が叫んだ。胸に刻まれた黒豹が吼えているかのような錯覚を覚えた。

 小五は軽々と櫂を振り回し襲いかかる。

 ある者は櫂で頭を破壊され、ある者は湖に叩き落とされた。そして水中の兵たちは、梁山泊軍に槍で突き殺されてゆく。

 あっという間に湖面が赤く染まり始めた。

「負けねぇぞ、兄貴」

 阮小七は近くの敵船に飛び移った。足元が湖だとまったく思わせないほどの気軽さだった。

 小七は足を船の片方の縁(へり)に乗せ、体重をかけた。そして逆の足に体重をかけて船を揺らしだした。

 船上の敵兵は立っている事すらおぼつかなくなり、小七を攻撃することなど到底できないありさまだ。

 揺れはどんどん大きくなり、やがて船がほぼ真横を向いてしまった。悲鳴と共に官兵が湖へとなだれ落ちる。落ちた兵たちは、同じように突き殺されてゆく。

 よっ、と小七は自分の船へ戻ると、間をおかず次の獲物めがけて飛び移って行った。

 四百を超える兵たちがたったの五十人あまりに翻弄されている。

 黄安はますます青ざめるしかなかった。

「お前が黄安か、大人しく観念するんだな」

 銛(もり)を手にした阮小二が黄安を見据えた。

「黄安どの、お逃げください」

 副官の船が阮小二めがけて突進してゆく。

「すまぬ。行くぞ」

 無事な何艘かが黄安を守りながら向きを変え、包囲の薄い所を突破してゆく。

 副官は雄叫びをあげ、武器を振り回しながら黄安の退路を守る。

「通さぬぞ、賊め」

 阮小二は銛を肩に担ぎ、叫ぶ副官めがけて投げた。

 銛は深々と胸に突き刺さり、雄叫びは嗚咽に変わった。

 突き抜けた銛が船底に刺さり、副官の体を固定してしまった。

 だが副官の船は速度を落とさず突っ込んで来た。このままでは避けられない。

 血の泡を吐きながら、副官が必死の形相で睨みつけている。

「兄貴、こっちへ」

 阮小七の船が横を駆け抜ける。阮小二らが飛び移った瞬間、ふたつの舟がぶつかり大破した。

 船に縫いつけられた副官はそのまま湖底へと沈んでいった。

 黄安はすでにその場におらず、大破した船の破片だけが波間を漂っていた。

 指揮官を失った官軍たちは武器を捨て、降参の意を示している。阮小五が部下に命じ、官兵に縄をかけ捕虜とした。

「敵ながら見事な死に様だ、名も知らぬ男よ」

 阮小二は副官が沈んだあたりで浮かんでくる泡をしばし見ていたが、やがて部隊をまとめると、その場から離れた。

 ぷくり、と最後の泡が湖面で弾けた。

 

 黄安は全身に汗をかき、船底に両手をついて喘いでいた。

 何という事だ、千人からの軍がほぼ全滅してしまうとは。

 何濤の事が思い出された。この戦の最中、何度思い浮かべた事だろうか。

 両耳から血を流し続ける何濤の姿。黄安は思わず両耳をおさえた。

 梁山泊からの警告は、はったりではなかったのだ。

「隊長、もうすぐ岸です」

 うずくまる黄安を何とか立たせ、部下が岸を指し示す。

 助かった。

 討伐失敗の罰は受けねばならないが、重くて棒打ちに加え流刑か。命を失うよりは今はましだと思えた。

 たどり着いたのはこの一艘のみだった。

 他の船は途中で梁山泊軍に襲われ沈められ、殺された。

 二人の部下が先に岸に上がり警戒する。そして黄安も、部下に両脇を支えられながら岸に上がった。

 地面だ。なんという安心感だろうか。思わず涙がこぼれた。

 長い間、水の上にいた疲労と安心感からか、支えを失った黄安は両膝をついてしまった。

 部下たちが心配の声を上げた。

「隊長」

 次の瞬間、四人の部下たちも地面に膝をつきだした。

 いつの間にか黄安の目の前に、別の男の足が見えていた。

「あんたが黄安とかいう隊長だな」

 見上げるとそこには、赤茶けた髪の凶悪そうな鬼が立っていた。

 肩に担いだ大きめの朴刀から血が滴っている。

 黄安は気付いた。周りの部下たちの首がない事を。

 一閃。

 黄安が膝をついたその時に、この男が部下たちの首を落としたのだ。

 地面に転がる部下の顔は、心配そうな表情をしたままだった。自分の命が失われたことすら気付いていないのだろう。

 黄安は襟首を掴まれて、無理矢理に引き起こされた。黄安の足が地面から離れてしまった。なんという腕力だ。

「お前が黄安か、と聞いているんだ」

 のぞく男の歯が、まるで牙のように見えた。

「そ、そうだが、お前は」

 力なく答える黄安。

 男は凶悪な笑みを浮かべて言った。

「俺は劉唐。赤髪鬼の劉唐だ。よくここまで来られたな、大したもんだ」

「何だと、ここはどこだというのだ」

 劉唐は片手で黄安をぶら下げたまま、振り返った。

 黄安の目に、そびえ立つ山容が飛び込んできた。山腹には巨大な門がいくつかあり、続く山頂に豪奢な建物が見えた。

「ここが金沙灘だ。ようこそ梁山泊へ。たどり着いたのはあんただけだがな」

 黄安は目を見開き、声を発する事もできなかった。

 そしてまるで両耳を失ったかのように、何も聞こえてはいなかった。

 

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