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交戦

 済州の城内を呉用が歩いていた。

 いつもの書生姿ではなく、どこにでもいる庶民の着物であった。肌身離さぬ羽扇まで、今は持っていなかった。

 その少し後ろに公孫勝がおり、二人の後ろで杜遷と宋万が並んで歩いていた。

 三人とも呉用と同じような姿だった。ただ白髪が目立たぬよう、公孫勝は頭巾をかぶっていた。

 杜遷と宋万は、副官を水路に誘い込むと急いでこの済州までやって来た。そして小さな宿屋で呉用、公孫勝と合流した。

 四人が着いた場所は牢獄だった。

 呉用が目で合図をし、宋万と共に扉の陰に隠れる。

 公孫勝は杜遷の背後に隠れるようにしていた。

「いつもご苦労さまです」

 応対に現われた牢番にさりげなく金を渡す杜遷。

「ちょっと昔世話になった知り合いに頼まれて来たんですが。そいつの友人がいると聞きまして、代わりに恩返しを、と」

「誰だ、そいつは。もう閉めなくてはならぬ時間なのだ、明日出直してくるんだな」

「いやいやわしは明日にはここを発(た)つ身なんです。どうかお慈悲を」

 そう言って懐からさらに金を出した。

 ごくりと喉を鳴らし、牢番は他の者には見えない様に、それを懐へしまい込んだ。

「まあ、そういう事なら仕方あるまい。お前の義理深さに免じて面会をさせてやろう。で、何という名なのだ」

 へへぇ、とありがたがってみせる杜遷。

 長年、王倫の元で手下たちの不満をなだめすかしてきたこの杜遷という男、大きな体躯に似合わず、実に如才ない。

 公孫勝が右の掌を上にして、口元へ近づける。

 そっと杜遷の背から現われ、ふっ、と息を吹き出した。

 その息は小さなつむじ風となり、砂埃を舞い上げた。

「うわっ、痛てて」

 悲鳴と共に牢番が目をおさえる。

「大丈夫ですか旦那」

 杜遷がすかさず牢番の背から手を回して肩を抱くと、さりげなく入口から引き離した。

 その隙に扉の陰にいた呉用と宋万、そして公孫勝が中へと滑りこんでゆく。

 目をこすりながら涙目で牢番が言う。

「目に砂が入ったようだ、すまんな、もう大丈夫だ。それでそいつは何という名だ」

「ええと、何と言いましたかな。そうだ劉(りゅう)だったかな、李(り)だったかな。ええと、そうだ李なにがしとかいったかな」

「李などという男は山ほどおるわ。名は思い出せんのか、名は」

 ええと、とありもしない名前を杜遷は言い続けていた。

 

 宋万が前に立ち、呉用がそれに続いた。

 薄暗い牢の中、二人が目指すのは一番奥の牢だ。

 壁に隠れ、見張りの隙をついては先へ進む。

 敵陣に裸で忍び込むなど正気の沙汰ではない。

 だが宋万は皮膚がひりつくのを感じながらも、胸躍る思いでもあった。

 数年前、一旗あげてやろうと息巻いて家を飛び出した宋万だったが、やがて行くあても無くなり途方に暮れていた。

 茶をすすりながら、路銀を確かめる。数日の内に尽きてしまうだろう。

 深い溜め息をつき、茶店を出ようとした時、客の話し声が聞こえてきた。

 梁山泊という所が、近ごろ勢いを増してきており、官軍さえも容易に近寄る事ができないという。

 梁山泊か。幸いここからそう遠くない所にあるらしい。

 宋万は荷物を肩に担ぐと、一路梁山泊を目指した。

 朱貴の店から金沙灘へ、そして梁山泊に渡った。

 はじめは一般の兵卒をしていた。もっと大きな仕事がしたいと思ったが、しばらくは糧食の強奪などが続いていた。

 そしてある日、王倫の提案で勝ち抜きの試合が行われる事になった。

 力を持て余していた宋万は奮起した。

 もともと武芸にも多少の心得はあり、その長身から繰り出される技に古参の兵たちも舌を巻くほどだった。

 十人ほど勝ち抜いたところで王倫から中断の声がかかった。

 勝ち抜き試合はそこで終わり、杜遷が試合場へと降りてきた。杜遷と試合(しあ)え、という事なのだ。

 いつも王倫の側に控えているのを見ていたが、こうして目の前にするとやはりでかい、と感じる。

 体格では負けているものの、宋万の方が頭ひとつと少し上だ。やるしかあるまい。

 宋万は手にした棒を、ぐっと握りしめた。

 一同が見守る中、試合が始まった。

 いつも自分より小さな相手しかいなかった宋万は戸惑った。同じくらいの相手で、しかも筋力は杜遷の方が上だ。やはり踏んだ場数も杜遷が上で、戦い慣れている。

 しかし宋万も並ではなかった。すぐにこつを掴み、宋万の手数が増えてくる。

 何十合打ち合ったのだろうか、杜遷と宋万はほぼ互角だった。

さらに打ち合った時、この勝負は王倫に止められた。

 棒を手に呼吸を整えながら宋万は王倫を見た。

「見事な腕前だ、宋万。まさに雲(うん)裏(り)金剛(こんごう)と呼ぶにふさわしい」

 王倫は鷹揚な態度で宋万に渾名を付けると、杜遷と共に自らの側近に指名した。

 気分が良かった。一旗あげる、その目標が叶った気がしていた。

 だが宋万はただ王倫の側に控えるだけの日々が続き、それが間違っていた事に気がついた。

 二人の巨漢、摸着天の杜遷と雲裏金剛の宋万、を横に侍らせる頭領の図。

 王倫はそれが欲しかっただけだったのだ。

 そして王倫がいなくなり、晁蓋が新しい頭領となった。

 軍師となった呉用は、杜遷と自分にも任務を与えた。もうお飾りの頭目ではないのだ。

 宋万は敵陣のただ中で、込み上げる嬉しさを噛み殺していた。

 

 牢獄の一番奥にその鉄の扉があった。

 呉用が気を引き、宋万が牢番を一撃で気絶させた。そして牢番を縛り上げると、奪った鍵で扉を開けた。

 二人の顔にすえた匂いが押し寄せた。血と汗と糞尿の混じり合った匂いだ。

 部屋の中央に男が吊り下げられていた。

 全身傷だらけで、こびりついた血はすでに乾いていた。

 既に死んでいるのではないか、と宋万は思った。

 宋万が外を見張り、呉用が男に近づく。

「助けに来ましたよ、白勝」

 死体のようだった男がぴくりと動いた。

 弱々しく目を開けるが、焦点が定まらないようだ。

「もう大丈夫です。ここを出ますよ」

 白勝は呉用の言葉を理解したのか、軽く頷いたようだ。そしてかすれる声で呉用に言った。

「にょ、女房を、俺の女房を」

「わかっています。そちらは公孫勝が上手くやっているはずです」

「すまねぇ、先生。あんたたちの事、しゃべっちまった」

 聞きながら縄を解く。傷が膿みはじめている、急がなくては。

「わかりました。とにかくここを出る事が先決です。謝罪は生きて帰れたらしてください」

「すまねぇ、先生」

 気絶させた牢番を代わりに牢へ放り込み、鍵をかける。

 途中で白勝の女房を連れた公孫勝と合流した。彼女はまだ歩けるほどの傷のようだった。

 杜遷はまだ入り口の牢番と揉めていた。

「ええい、俺を馬鹿にしているのか。今日しかないというから会わせてやろうと言っているのに、この木偶の坊め」

 杜遷が、牢の奥から出てきた一行を見とめた。

「ああ、もう大丈夫です。そいつの方から出てきましたから」

 え、と牢番が振り向いた。

 牢番の首に杜遷の太い腕が絡みついた。瞬時に牢番は血の気を失い、白目をむくとその場に崩れ落ちた。

「お待たせしました、杜遷。行きましょう」

 そろそろ城門も閉ざされる刻限だ。

 荷車に白勝を隠し、城門の兵に驚くほどの大金を渡し、黙らせた。

 数里行ったところで早馬に乗りかえる。

 意識を失いながらも白勝は、すまねぇすまねぇ、と何度も繰り返していた。

 

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