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交戦

 角笛の音が響き渡った。

 風に乗り、それは湖の端々まで届いているようだった。

 団練使(だんれんし)の黄安(こうあん)は船上で、ごくりと唾を飲んだ。だが喉はからからに乾いており、なかなか飲みこめずに顔をしかめた。

 船を進ませながら、黄安は何濤の事を思い出した。晁蓋一味捕縛の任を負ったが、返り討ちにあい両耳を落とされたという。

 賊め、と黄安は吐き捨てるように言った。

 こちらは約一千の兵に、五百の船団だ。対する梁山泊は多くて八百ほどだろう。

地の理があるとはいえ、負けるはずがない。いや負けてはならないのだ。楊戩ひいては宰相の蔡京からの命令なのだ。

 角笛の残響を聞きながら黄安は、行くぞ、と自らを鼓舞するように号令を発した。

 五百もの船団がゆっくりと動き出した。

 

 晁蓋が頭領となってひと月余り、やっと新しい体制が整い始めた頃だった。

 朱貴の配下から危急の報があった。

 官軍の攻撃が始まる。その兵数は約一千だという。

 軍議の中、呉用はしばし目を瞑り、羽扇をくゆらせる。

 晁蓋らが見守る中、すっと目を開けた呉用はまず阮三兄弟と林冲、劉唐に指示を与えた。

「俺たちは」

 身を乗り出す宋万に呉用は告げる。

「慌てないでください、宋万どの。あなた方にはこの戦はもちろんですが、別の仕事をしてもらいたいのです」

 杜遷、宋万そして公孫勝に作戦を伝え、彼らはそれぞれの持ち場へと出動した。

「先生、いや軍師どの、わしはどこで戦えば良いのかね」

「晁蓋どの、あなたは頭領です。あなたの戦場(いくさば)はここです。どんな大群が攻めて来ても梁山泊は揺るがない、という士気の要(かなめ)となってください」

「それだけか」

「はい、それがもっとも重要な事なのです」

 うむ、と晁蓋は床几に座りなおした。尻をむず痒そうにし、落ち着かない様子だ。

 それを横目に呉用は再び目を閉じた。

 何濤の時は今回の半数の兵力だった。しかもこちらが先手をとる事が出来たため、圧勝することができた。

 だが今回は向こうも充分な準備をしてくるはずだ。それでも呉用には勝算があった。

 丈高い葦に覆われた複雑な水路を持つこの梁山泊は天然の要害である。水上戦ならば阮三兄弟の右に出る者はいない。

 杜遷、宋万も人並み以上の腕だが、なによりこの梁山泊一帯を熟知している。

 公孫勝の道術は切り札になり、劉唐もああ見えて力だけではなく意外に器用な男だ。

 そして何より林冲の存在が大きかった。

 元禁軍教頭の名は伊達ではなかった。兵に訓練をつけているところを見たが、格が違うと感じた。武芸などには門外漢の呉用だが、素人目にもそれが分かるほどだったという事だ。

 騎馬に乗った林冲はまさに一騎当千。この広い国の中でも一、二を争う豪傑だろう。

 呉用は、不遜な考えだと自覚はしたが、嬉しかった。

 若い時分より孫子、呉子の兵法を読みかじった。天才軍師と言われた諸葛亮に憧れ、気付けば羽扇を持つようになっていた。

 村塾の教師でしかなかった自分が、実際に戦の指揮をとる事になろうとは。

 だがこれは実戦なのだ。命対命の戦いなのだ。己の作戦一つで命が生きもし、死にもするのだ。

 梁山泊の見取り図を晁蓋と共に見ながら、細かい指示を加え、伝令を走らせる。

 軍師となった、その喜びを胸の内にひた隠し、呉用はじっと地図を睨みつけていた。

 その表情は羽扇に隠されて、はっきりとは見る事ができなかった。

 

 黄安は石碣湖から進発し、軍勢を二手に分けた。もう一隊は副官が率いており東の入江へ、黄安の部隊は西の入江から金沙灘を目指した。

 葦の茂みに難渋しながらも進んでいくと角笛の音が聞こえて来たのだ。

 気付くと三艘の船が近くに見えていた。それぞれ五人ずつ乗り込んでいるようだ。

 土地に詳しい者が、阮三兄弟だと叫んだ。

 来たな。

 追え、と叫ぶ黄安を尻目に阮氏の兄弟たちは背を向け、その場から離れてゆく。

「奴らを捕えるのだ、逃してはならん」

 黄安は手にした槍を振り回して兵たちを鼓舞する。

 矢が放たれた。しかし黒狐の皮で防がれてしまった。

 獲物がすぐそこにいるというのに、思うように進まない船に苛立ちを覚える黄安。

 湖面を走りだしたい気持ちを何とかこらえ、号令をかけ続けた。

 黄安は背後に船の気配を感じた。

 挟撃か。

 だがそれは味方の船だった。

「お待ちください、黄安隊長」

 船上でそう叫んでいたのは、東の入江へと向かったはずの副官だった。

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