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異心

 侯健が顔も上げずに叫ぶ。

 長い手を忙しく動かし、その度に針が生き物のように布を縫い付けてゆく。

「もう少しだから、待ってくれ。もう少しでできるから」

「もう何度も聞いたよ。分かった、だから急いでくれよ」

「突然、使うなんてどういう事だ。他の仕事を差し置いてやってるんだ。こっちの身にもなってくれよ」

「分かったよ。できたら教えてくれ、すぐに出発する」

 侯健は掌を揺らし、あっちへ行けという仕草をする。

 追いだされるように工房を出た戴宗がため息をついた。

 気付くと足元で、女の子が戴宗を見上げていた。 

「どうしたの、おじさん」

「あ、ああ、何でもないよ」

 たしか、蕭譲の娘だったか。針仕事を気に入って、侯健に懐いていると聞いていた。

 おや。

 娘の手に旗が握られていた。替天行動と縫いつけられた、小さな旗だ。

「侯健にもらったのかい」

 娘が首を横に振る。

「やっぱりここにいたのか。おや、戴宗どのまで」

 蕭譲がすまなさそうに頭を下げた。

「ほら、侯健どのは忙しいのだ。私の仕事場に行こう。ご本がたくさんあるぞ」

「ええ、つまんないもん。ここがいいの」

 蕭譲が苦笑いを浮かべる。戴宗も口を歪めた。

 子供は正直だ。だから時に大人を傷つけたりもするものだ。

 何とか説得し、蕭譲が娘を抱きかかえた。

「蕭譲どの、この旗は侯健が作ったのではないのか」

「ええ、実はこの子が作ったのです。まあ侯健どのが手伝ったのでしょうがね」

 これは驚いた。

 小さいが造りはしっかりしていて、装飾まで凝っている。大きさが違うだけの本物のようだ。

 褒められたのが嬉しいらしく、娘が旗を振った。

 そして、

「みて、みて。きれいでしょ、このもじ。おとうさんのもじなんだよ」

 と言って、にっこりと笑った。

「まだ文字も読めないくせに、生意気でしょう」

 そう言った蕭譲は、目が潤んでいた。

 子供は正直だ。

 

「こっちは準備できたぜ。あとは積みこむだけだ」

「すまんな急がせて、二人とも」

 戴宗が頭を下げる。

 湯隆の鍛冶場である。

 朱武が、かねてから依頼していた武具一式を取りに来ていた。

 手伝いに駆り出されていた雷横が汗を拭いている。

「いよいよ、こいつらを使うのかい」

「いや、まだ分からん。使うかもしれないし、使わんかもしれん」

 鍛冶場の人夫たちが武具を積み込むのを、湯隆が見ていた。

「梁山泊ってのは、鈎鎌鎗だとか、今回のだとか、変わったもんばかり造らされるな」

「嫌なのか」

「いや。面白い」

 湯隆が真顔で言ったので、戴宗と雷横が弾けるように笑った。

 翌日、侯健から荷物を受け取った。

 侯健は二、三日は何にもしないからな、と言って戻って行った。

 杜興が怒鳴るように、積み込みを指揮している。凌振隊の砲を何台か運ぶのだ。

 出発の数刻前、李応が現れた。

「雪がないと聞いて少し安心したよ」

「少し遠いですが、頼みます」

「遼の地か。実は初めてでね」

「意外です」

「若い頃は別として、李家荘からほとんど出ることはなかったからな」

 ふふ、と李応が自嘲気味に笑った。

「しかし、連中は何と言うかな」

 帝や蔡京の事だ。遼と同盟を結んでいる宋としては、梁山泊の行動は好もしくない。どう見ても軍事行動だ。

 いや、そもそも本当に戦に行くのだ。

「相手は本当の国王ではない。むしろ遼にとっての敵と戦うのだと言っても、信じてはくれませんよね」

「だろうな。まあ、その辺りは呉用どのが上手く考えるだろうさ」

「そう願いたいですがね」

 戴宗は呉用のしたり顔を思い浮かべた。

 準備ができたようだ。

 呼延灼、孫立、秦明、黄信ら騎兵が先頭に立つ。

 魯智深、武松、樊瑞ら歩兵がそれに続く。

 李応が手を上げ、荷駄部隊が進みだす。

「では、先に戻っております。お気をつけて」

 李応が首肯した。

 甲馬を足に付けた戴宗が、神行法を使った。梁山泊を振り返る。

 替天行動の旗が、一瞬だけ見えた。

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