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道標

 朝議の場が騒然とした。

 昨日、衛州の使者から急報があった。

 河北で暴挙を振るっている田虎が蓋州を陥落させ、次に衛州を襲おうとしているという報であった。

 衛州は、東京開封府とは黄河を挟んだ北西に位置している。つまり田虎がすぐそこにまで攻めてきているという事だ。

「どうするのだ」

「すぐにここまで攻め込んでくるぞ」

「軍は何をしているのだ」

 怒号にも似た声が飛ぶ。

 童貫が隠れるように下を向く。河北の窮状を、帝に届く前に握りつぶしていたからである。田虎の叛乱軍は精強であると聞いていた。童貫は勝てない戦に出張る気はないのだ。

 ひとりの官僚が発言を求めた。宿元景である。

 帝が待っていたように、それを許可した。

「おそれながら、河北を平定できる者たちがおります」

「ほう、それは何者か、言ってみよ」

 宿元景は御簾に続く階を見つめ、言った。

「梁山泊にございます」

 再び場がざわついた。

「梁山泊ならば、河北の賊を平定できるでしょう」

「うむ、確かに。宿太尉、よくぞ申した。そなたが勅使となり、すぐに向かうのだ」

「ははっ」

 蔡京が面には出さず、びくりとした。宿元景の目が、一瞬こちらを見ていたような気がしたのだ。

 合図の鐘が鳴り、帝が退出する。蔡京は目を細め、顔を伏せた。

 頭を上げた時、宿元景の姿はすでに無かった。

 まさか、な。蔡京は心中で呟く。

 自分が褚堅の裏で糸を引き、耶律輝(やりつき)をそそのかしていたという事は誰も知らないことだ。褚堅ももう死んだ。

 それに露見したところで問題はない。宋のためにやった事だ、と言い張れば良いのだ。それだけで帝は何も言えなくなる。

 しかし宿元景だ。ここで騒ぎ立てれば、何かを感づかれてしまうかもしれない。梁山泊を消す機会だったが、ここは静観するとしよう。

 何事もなかったように、蔡京は朝議の場を出ていった。

 柱の陰で宿元景がその背を見つめていた。

 横槍を入れられると思っていたが、無かった。

 遼の地に侵攻し、あまつさえ戦を行ったのだ。梁山泊を潰す絶好の大義名分ができたはずだ。だから田虎討伐に尽力することで、遼の一件を不問にできると考えたのだ。

 果たして梁山泊が田虎を倒せるかどうかは、わからないが。

 宿元景は屋敷に戻り、出立の手配を始めた。

 

 独りで危険ではないか、という宋江に、

「ご心配痛み入ります。なに、わしは坊主ですから怪しまれますまい。それに、そう言われると思ったので道連れを考えております」

 と笑った。

 そして道連れに選ばれた武松も不敵に笑んだ。

 宋江は苦笑した。魯智深と武松の二人ならば、襲った相手の心配をしなければならないだろう。

「すぐに済みます。それに梁山泊のために、強そうな者や、才のありそうな者などがおったら、声をかけてきますわい」

 宋江は、魯智深が残した言葉が心に残っていた。

 遼との戦を終え、梁山泊へ帰還した。

 偽の王が相手とはいえ、一応は和議を結んでいる国の中で戦をしてしまったのである。 

 沙汰を待て。梁山泊に戻ると、待ち構えていた使者がそう言った。

 自らの首を差し出す覚悟をしていた。しかしまだその沙汰がない。

 やきもきしていても仕方ない。宋江は気持ちを切り替え、梁山泊のこれからについて考えることにした。

 梁山泊存続のために戦い、文字通り招安を勝ち取った。

 その後である。替天行動などと掲げているが、それを実現できるのか。そのために何をすべきなのか。

 呉用(ごよう)はあえて口を出さないようだ。宋江どの、頭領であるあなたが道を示すのです。どうやって進むのかを考えるのが、私の仕事です。きっとそう言うのだろう。

 宋江は考えた。

 だが答えはすでに出ている。苦しむすべての民を救うのだ。

 奸臣を、賊を、民を苦しめるものを取り除くのだ。しかし軽率に動いてしまうと、梁山泊を陥れるための格好の大義を与えてしまう。

 いかんともしがたい思いに、宋江は腕を組み、唸った。

「やはり宋江どのは、大した運をお持ちのようです。風向きが変わったようです」

 部屋に入ってきた呉用がそう言って羽扇をくゆらせた。

 帝からの沙汰があった。

 使者として現れた宿元景からそれが告げられた。

 遼との戦の件は不問とする。だがその代わり、河北で暴虐をはたらく田虎を討伐せよ、というものだ。

「お主らに相談せずに決めてしまい、申し訳ない。だが蔡京らを黙らせるには、これしかないと思ってな」

「宿太尉の深慮に感謝いたします。首を差し出しても、梁山泊を守る覚悟でしたから」

 真面目な顔で宋江が言った。その目をじっと宿元景が見る。冗談などではないのだ。本気でこの男はそう思っていたのだ。

 もっとも、そうでなくてはならない。

「帝も、期待しております」

「必ず」

 帝が梁山泊に招安を与えたのだ。梁山泊がそれに見合った働きをしなければ、ひいては帝の決断が謝っていたととられてしまう。そうなれば蔡京などを喜ばせることになってしまうのだ。それは避けねばならない。

 帝の権威が弱まれば、領土を狙う異国の侵入を許す結果となってしまう。狭い宮中で政争を繰り返している場合ではないのだ。

「梁山泊の失態を待ち望んでいる連中を喜ばせないように。くれぐれも気をつけて欲しい」

 釘を刺すように最後にそう言って、宿元景が去った。

 替天行動をなす刻だ。

 その想いに、宋江は拳を強く握った。

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