108 outlaws
道標
二
実に後味の悪い戦だった。
燕京の王も、梁山泊も敗者だ。どちらも勝者とはならなかった。
もし勝者がいるとするならば、おそらく蔡京なのだろう。
盧俊義はそう言った。そして燕青もそう思う。
風が冷たい。だが身も気も引き締まるようで、燕青は苦ではなかった。
双林鎮という土地である。大きくはない、住民の多くが農民だ。
「やあ、また会えたね、燕青」
入口に座っていた男が顔を上げた。
燕青が男をみとめ、微笑んだ。
「会いに来たのです、許貫忠どの」
許貫忠は人好きのする笑顔を見せ、腰を上げた。町の奥へは行かず、燕青が来た道を共に戻ってゆく。
燕青と許貫忠は馬を並べ、双林鎮から西北へ向かった。次第に民家も減り、やがてなくなった。ふたりは時おり言葉を交わすだけだったが、それでも十分に通じ合っているようだった。
林を抜け、丘を越え、人が住むのかという辺鄙な地になってきた。
許貫忠は迷わずに、手綱を操っている。
三十里も行ったところだろうか、許貫忠が山を示した。
「あそこだ。あの大伾山のあばら家に住んでいるんだ」
さらに十里あまり。山は峻厳だったが、谷川は澄みきっていた。
喉が渇いていた燕青は、勧められるまま口をつけた。
「美味い」
思わず口に出るほどだった。
「なるほど、禹帝が水を引いたのだったか」
「はは、その通りだ。さすが薄学だな、燕青」
いや、と燕青は口を拭った。
盧俊義から読むように言われていた書経の記述だ。伝説上の禹帝が黄河の治水を行い、大伾に至るとあったのを思い出したのだ。
許貫忠が革袋を水で満たし、再び馬に乗った。
山道を登り、やがて開けた場所へ出た。そこに草庵が建っていた。
本当にこんな所に住んでいるとは。燕青は、何度か許貫忠と会ってはいたが、家までは知らなかった。いつも双林鎮で用を済ませていたのだ。
馬をつなぎ、草庵へと招かれる。
許貫忠が奥へ声をかけた。すると品の良い老婆が現れた。許貫忠の母だという。
「すみませんね、こんなむさ苦しいところへ」
「いえ、空気も奇麗で、水も澄んでいます。そして見渡せる風景も見事で、飽くことがありません」
許貫忠が、酒と料理を運んできた。
山菜ばかりだが、と言って燕青に酌をする。
二人はしばし飲み、語った。
肴がなくなる頃、許貫忠の母は床へついた。
二人は草庵を出て、その裏にある小屋へと入った。そして燕青が荷物から紙の束を取り出した。
「また助けられました。いつもありがとうございます」
許貫忠はその紙を広げ、椅子に腰かけた。広げられた紙には、地図が描かれていた。
座った許貫忠の後ろにある棚に、崩れ落ちんばかりに紙の束が積まれていた。
そしてその膨大な紙も、すべて地図だった。
始めて許貫忠と出会ったのは、まだ北京大名府、盧俊義の元にいた頃だ。
数月ぶりに楊林が訊ねてきた。仕入れてきた竜骨を売るためである。
いつも取引をする店へ燕青が顔を出した。
「やあ、元気そうだな。すまない、間が開いてしまって。その代わり数はいつもより多めだから勘弁してくれ」
楊林が朗らかにそう言った。
確かに期日はやや過ぎたが、楊林を責める気にはならない。そうさせないのは楊林の人柄なのだろう。商売相手には厳しい盧俊義さぇ、楊林にはやや甘い顔をするのだ。
杯に酒を満たす。楊林の、各地の話に耳を傾ける。大名府から離れられない燕青にとって、楊林の話は楽しみの一つでもあった。
話の流れで、楊林が一枚の紙を取り出して見せた。それは地図だった。訪れた土地の説明のためだったのだが、燕青はその地図に興味を持った。
実に精緻なのだ。
山や川はもちろん、どんな土地なのか、まるで目の前に広がるかのように克明に描かれている。
楊林が自慢げな顔をした。
「こいつは凄いだろう。分かるかい」
「ええ、素晴らしいと思います。誰が描いたのですか」
一瞬、楊林が考える素振りをした。
「地図は武器だ。戦にはもちろん、商売にとってもだ。こいつのおかげで、俺は他よりも有利に商売ができているんだ」
だから、と楊林が声をひそめる。
「ひとつ、約束があるのだ」
「なんですか」
「そいつを守って欲しいのだ。見た通り、この地図の精度は格別だ」
「良くない連中に利用されかねない、と」
「そうだ。そいつは地図さえ描けりゃ良いって奴でな。悪い連中に利用されかねねえ。あんたの旦那さまなら信用できるって訳だ」
にこりと燕青が微笑んだ。
「な、なんだよ」
「その人が、楊林どのと出会えて良かったな、と思いまして」
「へっ、からかうなよ」
当然、盧俊義はその地図に価値を見出した。そして楊林との約束を果たした。
燕青を接近させ、許貫忠をそれと分からぬように庇護したのだ。
許貫忠は、楊林が言った通りの男だった。
時おり、地図のためにふらりと出掛けようとする。あまりにも突然のため、燕青は気付かぬことがままあったほどだ。
共に旅をし、燕青は驚いた。許貫忠は、訪れた土地で地図を描かなかった。紙を取り出しさえしない、どころか紙さえ持ってきていないのだ。
不思議そうな燕青の顔に気付いたのだろう、
「この景色を見ないなんて、勿体ないだろう」
許貫忠はそう言って微笑むのだった。
そして大名府に戻り、燕青はまたも驚く。
まるで目の前で見ているかのように、許貫忠が地図をすらすらと描いてゆくのだ。
燕青の驚きを、許貫忠は理解できない。許貫忠にとっては当たり前の事だからだ。
今も許貫忠は変わらない。そこに燕青は何だか安心するのだ。
許貫忠は、燕青が返した遼の地図を開いた。
「おや、これは」
「青石峪というところです。解兄弟が地元の猟師から聞いたものです」
遼との戦で、盧俊義が捕らわれてしまった場所だ。さすがの許貫忠の地図にも記されていなかったのだ。
「ああ、知らなかったなあ。急いで回ったから、抜けてしまったようだ。ありがとう、燕青」
などと笑った。
燕青が少し神妙になる。そして、例の物をと言った。
「ああ、出来ているよ。これだ。これはちゃんとしているよ」
許貫忠が迷わずに棚から取り出した。
やはり地図だった。
「でも、本当に行くのかい」
心配そうに許貫忠が訊ねる。
毅然とした態度で、燕青が地図を受け取った。
「どんな様子でしたか」
「荒れている」
治安が、という事だ。
「いまは、もっとだろうね」
燕青は静かに地図を広げた。
それは河北一帯が克明に描かれていた。
「田虎、か」
燕青が遠い目をした。