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決着

 楽和の歌声が聞こえた。作戦決行の合図だ。

 何かが燃えるような匂いがした。解珍と解宝が火を放ったのだ。

「いいね、お前ら死んでも義姉さんを守るんだよ」

 顧大嫂が腕まくりをしながら、手下たちに告げた。手下たちは朴刀を手に、楽大娘子を背後に守るようにしていた。

 顧大嫂らが泊まっていた部屋である。そこへ祝家の兵たちが飛び込んできた。だが一瞬にして、顧大嫂が両手に持つ匕首の露と消え果てた。

 兵が、楽大娘子の目の前で血を噴き出しながら倒れてゆく。しかし彼女は袖で口元を押さえ、悲鳴を堪(こら)えた。顔は青ざめてはいたが。

 だが次々に兵たちが襲ってくる。顧大嫂と手下たちも懸命に撃退するのだが、いかんせん数では不利だ。

「しまった」

 顧大嫂が叫んだ。間を抜け、祝家の兵が楽大娘子に襲いかかった。

 鈍い音がした。楽大娘子を襲った兵が、目を白くさせて崩れ落ちた。

 楽大娘子の細腕には、中ぐらいの鉄鍋があった。

「わ、私だって自分の身くらい守れます」

「はは、ずいぶん強くなったじゃないのさ、義姉さん」

「あなたほどじゃないけど、覚悟を決めた女って強いのですよ」

「まったく、頼もしいね」

 顧大嫂がそう言いながら、二人を斬り倒した。するうち、兵が来なくなった。祝家の人間も逃げるのに必死という訳だろう。

「さて、私たちもここからずらかるよ」

 振り向いた顧大嫂は、背筋が凍ったような感触がした。

 そこに欒廷玉が立っていた。片手に鉄鎚、片手には鉄棒を持っている。その両方が赤黒く濡れ光っていた。

 咄嗟に顧大嫂が楽大娘子の前に立った。匕首を構えるが、顧大嫂はそれ以上動けなかった。欒廷玉と向き合っている、それだけで精いっぱいだった。

 その欒廷玉も黙って、そこに立っているだけだった。

「騙された、という訳か」

 びくり、と顧大嫂が半歩下がった。ものすごい威圧感だ。顧大嫂は何とか下がらないように足に力を入れた。

「騙す、騙されるなんて、世の常じゃないのさ。何を今さら」

 顧大嫂の軽口も、今は弱々しい。

 じりっ、と欒廷玉がにじり寄った。

 顧大嫂は半歩下がってしまった。どうしても気圧(けお)されてしまう。

 欒廷玉の右手がぴくりと動いた。

 顧大嫂は覚悟した。

 しかし欒廷玉は体を捻り、後ろに鉄棒を振るった。がちん、と激しい金属音がした。

「あんた、遅いじゃないのさ」

「すまねえな。ちっと手こずってな」

 孫新だった。孫新の鉄鞭と欒廷玉の鉄棒が、ぎりぎりと音を立てて噛みあっていた。

「へへ、さすがだなあ、欒廷玉の旦那。気を殺したつもりだったんだがな」

 欒廷玉は孫新を睨みつけ、鉄棒を振り払うと距離をとった。

「変わっておらんな、小尉遅。あの頃と、何も」

 欒廷玉が軽く両腕を広げた。右手には鉄棒、左手には鉄槌が握られている。

 孫新は思った。

 変わっていないのは、欒廷玉の方だ、と。

 

 孫立が十代半ばの頃、ある武人の下で修業をしていた。そこに欒廷玉がいた。

 入門順では欒廷玉が兄となるのだが、同い年だった二人はその区別なく、互いに切磋琢磨する仲になっていった。

 二人はその武人から二刀流を学んでいた。それは両手が同じ武器ではない、二刀流だった。欒廷玉は鉄棒と鉄鎚、そして孫立は槍と鉄鞭を得意とするようになっていった。

 そんな二人の修練を、縁側で見ている少年がいた。孫立の弟、孫新である。

 孫新は武官を目指す兄と違い、悪友たちと日がな町を走り回っては悪戯をしていた。そしてする事がなくなると、こうして師の家へと遊びに来ていたのだ。

 実のところ、兄に会うというのは口実で、ここに来れば美味い菓子にありつけるから、であったという。

 その日も孫新が来ていた。孫立と欒廷玉の打ち合い稽古を、菓子を頬張りながら見ていた。やがて休憩の合図がかかり、二人は汗を拭き、涼むために木陰へと移った。

 所在なげにしていた孫新が、ひょいと庭に下りた。そして近くに落ちていた手頃な長さの木の枝を二本拾うと、両手で武器のように振り回しだした。

 欒廷玉が、孫立が、そして師が、その姿に目を見張った。

 その動きは、まるで何年も教わったかのような動きだったのだ。

 孫新は演武を続けた。時折、思い出すように首を傾(かし)げはしたが、その手に鉄鞭を握っているのが見えるようだった。

 孫立は信じられない様子で見ていた。まさか、たまにここへ来て見ていただけでできるようになったというのか。

 まさに小尉遅だな、と師がつぶやいた。その言葉に孫立の頭が真っ白になった。

 その日から孫新も修練に加わるようになった。

 見ただけであれほどの腕を見せたのだ。本式に習いだしてからは、めきめきと腕を上げていった。孫立と欒廷玉にもすぐに追いつくのではないかという早さだった。

 孫立は、孫新が飽きてやめてくれることを願った。しかしそんな考えを持ってしまった自分を恥じた。

 ある時、師が言った。生まれた順で優劣が決まるのではない、と。決定的だった。自分は弟より弱いと言われたも同然だったからだ。

 それから少したった日の事である。

 欒廷玉が捕らえられたのだ。孫立と孫新は急ぎ、牢に向かったが会う事は叶わなかった。牢番頭は賄賂を受け取るだけ受け取って、結局駄目だった、とにべもない態度だった。孫新は悪態をついていたが、牢役人たちに追い払われてしまうのであった。

 原因は、欒廷玉が町の人間に重傷を負わせた事だという。 

 ばかな、と孫立は思った。自分もそうだが、欒廷玉も武芸を修める身、素人に怪我をさせる事などするはずがない。しかもあの男はいつも冷静で、激昂する事など見た事もないのだ。

「分かったゼ、兄貴。本当の事がな」

 孫新が悪友たちに情報を集めさせたのだ。かねてから孫新の交友関係を良く思っていなかった孫立であったが、この時ばかりは弟に感心した。

 真相はこうだ。欒廷玉は、その怪我をさせた男と肩がぶつかっただけらしい。丁寧に謝った欒廷玉だったが、男はしつこく蛇のように絡んだのだという。そしていつの間にか欒廷玉を、男の手下のような連中が取り囲んでいた。

「やめておけ、怪我をしたくなければな」

 欒廷玉は低くそう言った。男がけしかけるが手下たちは動けなかった。素手の欒廷玉の放つ気に、怖じ気づいてしまったのだ。

 ふざけやがって、と男が懐刀を取り出した。斬りつけてきた男を、欒廷玉は難なくかわすと腕を捻りあげた。そのまま男は地面に転がされた。

 手下たちに助け起こされた男は、顔を真っ赤にして何か叫びながら消えていった。

 その翌日である。欒廷玉の家に捕り手役人が押し寄せたのだ。

 その男は、登州の実力者である毛太公の息子、毛仲義の友人だったのだ。男は毛仲義に頼み、役人を動かしたのだ。

 そして欒廷玉に刑が下された。

 青州を越えてはるか南、黄河が海に流れ込むあたり、楚州までの流刑だという。傷害の罪にしては、本当は怪我などさせていないのに、異例の判決である。

 孫立はその日、友を見送る事しかできなかった。師から預かった銭と旅の必需品を渡し、護送役人には、無駄だとは思ったが賄賂をたんまりと渡した。

 そしてその日、ついに孫新は姿を見せなかった。

「欒廷玉は大丈夫だ。心配いらないぜ、兄貴」

 二日後に顔を見せた孫新はそれだけ言うと、二度と師の屋敷に来ることはなかった。

 何事にも熱くなりすぎず、飄々としているように見える弟だが、義には人一倍厚かった。

 欒廷玉の情報を孫新の友が調べてくれたのは、すべて孫新の義がなせる事だったのだ。そして欒廷玉も、おそらく何らかの方法で護送役人の手から逃したのだろう。

 孫立はそれ以上聞かなかった。その後、孫新が新しい友とつるんでいると知った。噂では登雲山で山賊家業をやっているとかいないとか。答えはそれで充分だった。

 やがて孫立は師から皆伝を受け、堤轄となった。

 鉄鞭と槍を縦横に振るうさまを見て登州の人々は、尉遅敬徳の再来だと騒ぎたて、病尉遅ともてはやした。

 欒廷玉を遠流の刑と裁いたのが、毛太公の女婿である王正という孔目の仕業だと知ったのは、それからだいぶ後の事であった。

 

 祝家荘の裏門手前に、欒廷玉がいた。

 それに向かい合って、孫立が立っていた。

 祝家の屋敷が音をたてて燃えている。二人の上にも火の粉が舞い落ちてきている。

 孫新は顧大嫂らを連れ、とうに避難していた。

 奥の間で欒廷玉と対峙していた孫新は、殺気をすっかり消すとにやりと笑った。

「やめたやめた。旦那に勝てるわけねぇもんな。旦那も早くしねぇと、屋敷と一緒に燃えちまうぜ」

 と、欒廷玉を置いて本当に去ってしまったのだ。

 孫新らしい、と欒廷玉は思った。

 勝てるわけがない、だと。まだ十代のころ、自分はすでに孫新に負けていた。戦わなくてもそれは分かった。しかも流罪に処された時、孫新が仲間と護送役人を倒し、解放してくれたのだ。

 欒廷玉は孫新らが消えた方に黙礼すると、外へと駆けだした。

 そこに孫立がいた。

「小尉遅に会った」

「相変わらずだろ」

「ああ、変わらんな、あいつは」

「俺たちは、どうだろうな」

「変わらんよ。変われぬさ。人はそれほど簡単に、変われぬさ」

「そうだな」

 火の勢いが強くなった。

「すまなかった、欒廷玉。登州を追われ梁山泊へ入るため、だったのだ」

「仕方あるまい。お前にはお前の考えがあったのだから」

 孫立は軽く唇を噛んだ。

「お前も、来ないか。梁山泊は実力のある者ならば歓迎してくれる。実際、過去に敵だった者たちも仲間として迎えられているという」

「私は、この祝家荘に恩がある。行く当てのない私を拾ってくれたのだ」

「そうか」

 屋敷の柱が燃え、崩れ始めたようだ。祝家荘の人間たちは逃げるのに必死で、二人の事など目に入らない。

「俺を討たなくてよいのか、孫立」

 孫立は答えずに、唇を噛みしめた。

 二人が同時に武器を構えた。孫立の手には竹節虎眼の鞭と鉄槍、欒廷玉は鉄棒と鉄鎚である。

 二人は嬉しそうに笑っていた。互いの姿が、あの時の十代の若い頃に見えていた。

 駆けた。しかし同時に大きな音がした。炎に包まれた屋敷の壁や柱がこちらに倒れて来たのだ。

 炎が二人を隔てた。

 腕で顔をかばい、欒廷玉の名を叫ぶ孫立。しかし返事は聞こえない。

「おい、大丈夫か。返事をしろ、欒廷玉」

 俺はまた友を失うのか。その思いが孫立を突き動かした。

 孫立は炎の中へと足を踏み出した。だがそれ以上は進めなかった。解珍と解宝が孫立を羽交い絞めにし、止めたのだ。

「よせ、孫立どのまで死ぬぞ」

「放せ、欒廷玉が中にいるのだ」

「だめだ、もう無理だ」

 孫立は歯を食いしばるが、二人の力には敵わない。そのまま炎と共に崩れゆく屋敷を見つめることしかできなかった。

 翌日、火の消えた屋敷跡に孫立と孫新がいた。

「だから言ったろう。あいつは大丈夫なんだ、兄貴。俺たちが思うよりずっとな」

「かもしれんな。生きていれば、いずれどこかで会えると、俺は信じる事にするよ」

 二人は登雲山の手下と共に焼け跡を探した。

 しかし欒廷玉の鉄棒と鉄鎚は、ついに見つかることはなかった。

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