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決着

「そんな馬鹿な」

 杜興が示された書面を見て憤慨していた。鬼のような顔だった。李応も腕を組み、難しい顔をしていた。

「何かの間違いでは、知府さま」

「見ての通りだ、李応どの。その訴状になにかご不満でもおありか」

 知府と共に来た孔目が言った。それは祝家荘から出された訴状であった。

 李家荘が、梁山泊と結託して軍勢を手引きし、祝家荘を襲って財産を強奪したというものだった。さらに以前から梁山泊とは親しくしており、金銀などの贈り物をしていたというのだ。

「そのような事、まったくのでたらめでございます。現に、李応さまは怪我をしておられ、ここのところずっと家から出てもおらぬのです」

「しかし、実際このように」

 ううむ、と杜興は唸った。確かに訴状を見る限り本物である。李家荘が梁山泊との戦に参加しないので、祝家の兄弟が腹いせに提出したのだろうか。それもあり得ない話ではなかった。

 李応は深く閉じていた目を開け、低く言った。

「わかりました。知府さまが直々においでくださったのです、役所まで出向き、身の潔白を証明いたしましょう。杜興、準備を」

 李応さま、と杜興は少し心配そうな顔をしたが、すぐに出立の手配を整え始めた。

 屋敷を出て数十里行った時である。一行の前に物々しい一団が、道を遮るように現れた。

 三十人ぐらいの武装した男たちであった。知府ら四人はそれを見るなり悲鳴を上げ、飛ぶように逃げて行ってしまった。

 残された李応と杜興の前に、中央の小男がにこりと微笑みかけた。

「そなたらは、何者だ」

 そう言う李応に、杜興が何が言いたげな視線を送った。

「はい、私たちは梁山泊の者、私が宋江と申します」

 李応が楊雄に聞いていた通りの男だったと、宋江は嬉しくなった。これほどの者に囲まれて、眉ひとつ動かさぬとは。

「そなたが宋江どのか。この度は大変な事をしでかしてくれたものだな」

「大変申し訳なく思っております。しかし祝家荘にも原因はあるのです。まあ互いに否があったと言う事でしょうか」

 梁山泊の頭領が刺客に狙われたという。その刺客は祝家荘から放たれたものだった。

 李応は口元を引き締めた。祝家荘の連中め、勝手な事を仕出かしたものだ。それではこちらから戦を仕掛けたようなものではないか。

「して、私に何用かな宋江どの」

「はい。この度は楊雄と石秀という者が、大変世話になったと聞き、ぜひご挨拶したいと思いやって来た次第。先日は断られてしまいましたが」

「それだけではあるまい」

「ははは、鋭いお方だ。実は、撲天鵰と呼ばれる李応どのをお誘いに来たのです。もちろん、杜興どのもご一緒に」

 す、と杜興が李応の前に出る。手にした棒をやや横向きに構える。

「私が素直に応じるとでも」

 杜興が爪先に力を入れた。李応を守る者は自分しかいない。それでもやるしかないだろう。杜興は、静かに機をうかがっている。

「宋江さま、見てください」

 兵のひとりが叫んだ。兵が遠くを指さしている。李家荘の方角だった。なにやら煙のようなものが見える。

「貴様ら、まさか李家荘を」

「違います、我らではありません。林冲、花栄」

 宋江がそう叫ぶと二騎が弾かれたように飛び出した。林冲と花栄は風のように駆け、あっという間に丘の向こうに消えた。

「妻が、家族がいるのだ」

「我らも戻りましょう」

 宋江が兵に命じ、李応らに馬を与えた。李応は気が急(せ)いていた。前に落ちるのではないかというほどの姿勢で馬を駆っている。

 やはり李家荘であった。火は消えていたが、ところどころ燻っているようだ。

 あたりに数十人が転がっていた。李応は目を疑った。地に倒れている者たちは、祝家荘の兵たちだったのだ。

 杜興が馬を飛び降り、屋敷へと入っていく。

「何という事だ、祝家荘が」

 裏切ったのか。李応は暗澹たる気持ちに襲われたが、やはり、という気持ちも浮かぶのであった。

 しかし、と李応は思う。李応たちが追いつくこの短時間で片付けたというのか。林冲と花栄は疲れた様子もなく、兵たちに指示を飛ばしていた。林冲と言えば元禁軍教頭で蛇矛(だぼう)の腕は天下一だという。花栄も元青州(せいしゅう)の軍人で弓の腕は国では一番の呼び声も高い。

「奥方さまどころか、誰もおりません」

 杜興が顔を煤けさせて戻ってきた。

「誰もいないだと。まさか祝家荘の連中に」

 殺されたのではない、さらわれたのか。そう考えていた時である。別の一団が現れた。先頭の者たちが宋江らと声を交わしている、梁山泊の連中だろう。

 宋江に呼ばれた。怪訝そうにしながらも李応は杜興を伴い、そちらへ向かった。

 そこに妻や家人たちがいた。妻が心配そうな顔で駆け寄ってきた。李応は人目をはばからず抱きとめた。怪我もなく、無事なようだ。李応も力が抜けるのが分かった。

「これは、どうして」

 宋江に促され、とりあえず李家荘を離れて陣を張った。

 妻や家人たちを休ませ、李応と宋江らが向かい合った。そこへ知府たちが戻ってきた。李応は思わず立ち上がっていた。

 宋江が頭を下げる。この知府たちは梁山泊の変装だったのだ、と。知府は蕭譲という男だった。あの訴状は蕭譲が書き、虞侯に扮していた金大堅が印章を彫ったのだという。二人は蔡得章にも見抜けぬほどの贋作を作ったという腕前だった。

 もうひとりの虞候は侯健で、裁縫の名人である彼が衣裳を設(しつら)えた。さらに孔目役の裴宣は、実際に孔目を務めていたという。これでは李応や杜興などが見抜けるはずもなかった。

 李応らを屋敷から連れ出すために偽訴状を作った。そして宋江らが李応たちを説得する手はずだったのだという。もちろん家族が、と言い出すのは想定内だった。戴宗と楊林らが巡検になり済まし、李応の妻をはじめ家人たちを、家財の没収だと言って連れだした。後ほど梁山泊で、李応らと引き合わせる予定だったのだが、折悪(あ)しくか折良くなのか、連れだした直後に祝家荘の兵たちが李家荘を襲ったという訳だ。

 説明を聞き、李応は冷や汗を流した。偶然とはいえ、助けられたという事か。梁山泊がいなければ自分も杜興も妻たちも、みな祝家荘に襲われていたのだ。

 独竜岡を見渡した。祝家荘が壊滅し、李家荘も燃えてしまった。もはや行く当てもない。

「申し訳ありません、私たちのせいでこんなことに。しかし時遷を救う事ができました。この度の恩は返しても返しきれぬほどです」

 楊雄と石秀だった。二人が李応の前で深々と頭を下げた。李応は何も言わず、二人を見ている。宋江も口を挟まず、見守っていた。

 長い沈黙の後、李応が重い口を開いた。

「礼など良い、わしがやりたくてやった事だ。で、宋江どの。良いのか、わしはもはや何も持たない何もできない、ただの老いぼれですぞ」

 宋江が明るい顔になった。

 やむを得まい。いまさら起きた事を悔やんでも仕方あるまい。

 財産や家など惜しくはないし、この身一つならばどうにでもできただろう。しかし妻が、長く世話になった家人たちがいる。彼らを放っておく事が、李応にはできなかった。

 宋江も頭を下げ、李応は深々と息を吐いた。

 杜興と目が合った。

 鬼のような顔だったが、目はいつもより優しい気がした。

 

 祝家荘が破れた。

 にわかには、扈三娘には信じる事ができなかった。しかしすぐにそれが真実であると知る事になる。

 兄の声が聞こえた。兄が来ているのか。

 幕屋から飛び出しそうになった扈三娘だったが、すんでのところで足を止めた。そして幕屋の入り口に顔を近づけ、耳をそばだてた。

「よう、色男。縛られても、良(い)い男だなぁ、おい」

 誰の声だ。確か自分に飛びかかって来た、背の低い男だったか。

 扈成が祝彪に縄をかけ、梁山泊に連行してきた。扈三娘と引き換えるためだ。

 そこに祝家荘から脱出してきた王英がかち合った。祝彪は王英を睨みつけたまま無言だった。

「へへ、牢では好きなだけ痛めつけてくれたな。ここで会ったが百年目だぜ」

「よせ、梁山泊の者よ。こ奴は宋江どのに引き渡さねばならんのだ」

 やはり兄だ。扈成が誰かを捕えているようだ。

「わかってるよ。いたぶられた事は恨んじゃいねぇよ。戦だもんな、覚悟はしてるさ。だがね、俺が許せねぇのはもっと別の事なんだよ」

 王英が指を突きつけて叫んだ。扈成も、殴られるとばかり思っていた祝彪も、不思議そうな顔をした。

「何の事だ。何を許さんというのだ」

 祝彪だ。扈三娘はじっと耳を傾けた。

「屋敷で言った言葉を覚えているか、祝彪」

「だから何の事だと言っているのだ」

「あの娘の事だ。あんたの許婚の娘の事だ」

 扈三娘がぴくりと目を大きくした。

「あの娘をけなした事が許せねぇんだよ。あんなべっぴんを嫁に貰える果報者が、何様のつもりだってんだ」

 きょとんとした祝彪だったが、すぐに大笑しだした。目に涙まで浮かべている。

「わはは、お前、本気で言っているのか。王英といったか、そんなに扈三娘が気に入ったのか。これは面白い。どんなに思いを寄せたとしても、ちびで不細工なお前と扈三娘が釣り合う訳がなかろうが」

 祝彪は笑い続けている。縛られていなければ、地面を転がっていそうな勢いだった。しかし王英の顔は真剣そのものだった。

「気に入ったとかじゃねぇ、そりゃべっぴんだけどよ。とにかく、俺は女を馬鹿にする奴が許せねぇだけだ」

 扈成は王英を眩(まぶ)しそうに見つめていた。

「あの娘を、扈家荘を手に入れるために嫁にすると言っていた事を、まるで道具みたいに言っていた事を謝ってもらおうか」

「本当に面白い男だな、王英。なぜ謝らねばならん。俺の妻となれるのだ、むしろ喜ぶべきことではないか」

「だから、そういう、女を物みたいに扱うのが許せねぇって言ってんだよ」

 祝彪と王英のやり取りを聞いて、扈成は心中で微笑んでいた。

 この王英という男の気持ちが分かるのだ。祝彪は扈三娘の事を、己を引き立たせるための飾り程度にしか考えていないのだ。そして先ほど聞いた祝彪の言葉を思い出し、扈成も腹が立ってきた。掴んでいる縄を引き上げるようにした。

「王英と申したか。わたしもお主の考えと同じだ。祝彪などではなくお前のような男に、妹が出会えていればな」

 嘘でもありがとよ、と王英が鼻をこすった。

「え、ちょっと待てよ、あんた。今、妹って言ったのか。じゃ、あんたは」

 その問いに答える前に、王英が扈成に向かって飛んできた。

「あぶねぇ、伏せろ」

 王英が頭をおさえるようにして、扈成の体勢を無理やり下げさせた。

 次の瞬間、頭上を風のようなものが走り抜けた。そして、ごろりと何かが地面に落ちた。

 扈成が見たそれは、祝彪の首だった。

「どうだ、祝家荘の敵将の首をおいらが獲ってやったぜ」

 そこには両手に斧を持った李逵がいた。扈成は、嬉しそうに笑っている李逵と目が合った。思わず全身が震えた。

「なんだ、お前もか」

 李逵は扈成に向かって斧を振り下ろしたが、間一髪のところで王英に弾かれた。斧が、ごうという音を立てて空を切る。

「やめろ、李逵。この人は違うんだ」

 王英が必死に止めようとするが、李逵は聞くものではない。ひたすら扈成を狙い、斧を振り回してくる。

「駄目だ、こうなったらこいつは誰も止められねぇ。逃げるんだ」

「し、しかし扈三娘が。私は妹を」

「そんな事言ってる場合じゃねぇんだよ。きっとなんとかするから、ここは逃げるんだ」

 暴れまわる李逵を見ると、扈成もそうするしかない事が理解できた。

「わ、わかった。すまない、王英」

 頭をかばいつつ李逵の斧をかわし、扈成はその場を脱した。

「兄さん」

 扈三娘が幕屋から飛び出して、叫んだ。その声に扈成が振り向いた。扈成と扈三娘の視線が交差した。

 扈成の口が動いていたが、その声は扈三娘には届かなかった。そして扈成はそのまま見えなくなってしまった。

 何と言っていたのだろうか。だが細かい事は、どうでも良かった。兄は、確かに微笑んでいた。だから、良い事を言っていたに違いないのだ。

 今の騒ぎで幕屋の番兵も逃げてしまったようだ。李逵も、暴れながらどこかへ行ったようだった。まさに旋風が吹き荒れたように、いくつかの幕屋が破壊されていた。

 祝家荘は敗れ、祝彪も死んだ。兄が助けに来てくれたが、結局自分は捕虜のままだ。このまま梁山泊に捕らわれたままなのだろうか。

 父や祝彪らは、梁山泊は女子供でも平気で殺す、悪鬼のような連中の集まりだと言っていたし、扈三娘もそう思っていた。

 しかし宋江と話し、おどろくほど穏やかな男だと思った。また林冲という男に会い、ただの山賊ではない何かを感じた。梁山泊は思っていた連中とは、どうも違うようだと扈三娘は思った。

 見ると、李逵から逃げ回り、疲れ果てた王英が地面に大の字になっていた。

 この男も敵であったのだ。祝家荘が滅んだ今でも、それは変わらない。

 扈三娘は王英の顔を覗き込むようにした。汗を流しだらしなく舌を出している王英を見て、くすりと口元をほころばせた。

 戦いの中で見せた凛とした美しさとは別の、可憐な花のような感じがした。

 すぐに扈三娘は牢代わりの幕屋へと戻って行った。

 飛び起きた王英が、顔を真っ赤にして何やら叫んでいるようだった。

 

 石秀が老人と若者を見送っていた。石秀は二人が見えなくなるまで、手を振っていた。

「かれらは誰だい、石秀」

「私を匿ってくれた鐘離老人です。祝家荘を出るから、とわざわざ挨拶に来てくたのです」

「そうか、あれが鐘離老人か」

 石秀は、祝家荘で家に匿ってくれ、迷路の秘密を教えてくれた老人が気にかかっていた。祝家荘は敵とはいえ、鐘離老人は何の罪もないどころか石秀を助けてくれたのだ。梁山泊が勝利したならば、祝家荘の人間はすべて掃討という事もあり得た。

 だから、石秀は孫立との戦いの前に、宋江に嘆願していた。もしこの戦に勝っても一般人には手を出さないで欲しい、と。

 それに宋江はにっこりと微笑んで、梁山泊はそんな非道をしはしないと約束してくれた。

「これは甥でな、進(しん)という。こいつを連れて南にでも移り住むとするよ。お前さんの事は忘れないよ。あんたと梁山泊との事は代々語りがせてもらうよ」

「そんな大げさなものじゃありませんよ」

 礼をする鐘離老人の甥は真っ直ぐな目で石秀を見ていた。そしてやがて彼らは南へと出立した。石秀は、嬉しそうに遠ざかる二人を見つめ続けていた。

「まったく、拚命三郎のくせに他人の命は助けたがるんだな」

 そう言う楊雄も嬉しそうな顔をしていた。

「良い義弟(おとうと)で本当によかったよ」

「よしてくれよ、兄貴」

 その時、遠くから二人を呼ぶ声がした。梁山泊へ帰るのだ。

 幽閉されていた時遷も、助けだされていた。傷は大したことがないようだが衰弱しており、おなじく重症の欧鵬と一緒に医務班が運んで行った。

 それでも口だけは達者で、

「俺も梁山泊に行くとするかね。喰いっぱぐれなさそうだしな」

 などと不敵に笑っていた。

 自分たちが引き起こしてしまったとも言える、祝家荘との戦いが終わった。

 これからは梁山泊の一員として生きるのだ。

 楊雄と石秀は確かめるように頷くと、どちらからともなく歩き出した。

 

 父が、身罷った。

 扈成は誰もいなくなった屋敷を見つめていた。

 下男によれば、祝彪を梁山泊に連行した後、すぐに胸の痛みを訴え、倒れたのだという。そして扈成が戻った時には、その呼吸を止めていたのだ。

 父には耐えられなかったのかもしれない。扈成はそう思った。

 父たちが結んでいた盟約を破棄し、目の前で祝彪を捕らえたのだ。父にとっては信じ難い光景だったに違いない。

 扈三娘も連れ帰る事ができなかった。

 俺は何をやっているのだ。妹を守るために、家同士の盟約を破ったというのに。

 しかし悔やんでいる暇はない。これからは自分ひとりでやっていかなくてはならないのだ。祝家荘がなくなった今、頼るものは何もないまま、父に代わって扈家荘を背負っていかなければならないのだ。

 梁山泊の陣で扈三娘を見た。妹は、宋江が約束した通り無事だった。こうなれば宋江を信じるしかあるまい。

 すべて一からやり直しだ。

 さて、まずは何から手をつけようか。

 天を仰ぎ見た扈成の顔は、背負っていた重い荷を降ろしたかのように、ほんの少し涼やかだった。

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