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決着

 助っ人の力など借りなくとも、梁山泊を討ち取ってくれる。

 祝彪は、敵襲の報を聞くと槍を掴み、飛び出した。

「筋は、兄弟の中でも一番良いのだが、いかんせん我(が)を張り過ぎるところがあってな」

「まだ若い。それも仕方あるまいよ」

 欒廷玉が祝彪をそう評し、孫立がそう答えた。

 奴に、あの孫立とかいう男に、自分の実力を見せつけてやる。欒廷玉の同輩だから屋敷に迎え入れたが、大きな顔をしてもらっては困るのだ。主(あるじ)は我ら、祝家なのだから。

 百余りの兵をつれ祝彪が梁山泊軍と対峙した。敵の軍勢は五百ほど。先頭にいるのは目元が涼しく、銀の槍を手にした将だった。

「我らの仲間を返してもらおう。そうすれば我らは黙って引き上げる。これ以上争って、余計な血を流す事もあるまい」

 花栄が馬上で堂々と呼ばった。

「なにをぬかす、この山賊め。今日こそ返り討ちにして、我ら祝家荘を相手にした事を後悔させてやるわ」

 はっ、と祝彪が手綱を引く。花栄も同時に馬を駆けさせた。

 槍と槍が交差する。祝彪が気合と共に槍を突き、花栄もそれに応じる。十数合ほど渡りあうが勝負はつかない。

 祝彪は一旦離れ、体勢を整えた。花栄の肩越しに梁山泊の本隊が目に入った。その中央にいる宋江の姿が見えた。

「いかん、急ぎ過ぎだ。落ち着くんだ」

 欒廷玉が城壁から叫ぶが、祝彪には届かなかった。

 俺が宋江を獲(と)る。祝彪にはその思いしかなかった。

 おお、とさらに吼え、祝彪は必殺の技を繰り出した。気は急(せ)いているが、それが上手い具合に攻撃に勢いを与えた。

 五度の突きがまるで一度に放たれたかのように、花栄には見えた。これは花栄も防ぎきれなかった。四発は凌いだ、しかし最後の一撃が軍装の脇を切り裂いた。

 花栄は脇腹をかばうようにすると馬を旋回させ、駆けた。好機と見た祝彪は、馬を走らせこれを追った。

「そいつは花栄という者です。それは誘いの手です。深追いはやめてください、祝彪さま」

 配下の誰かがそう叫んでいた。祝彪は急ぎ、手綱を引いた。馬が危うく転倒しそうになるも、何とか堪えた。

 見ると花栄が弓を構えて、こちらを狙っていた。慌てて祝彪が祝家荘へと馬を走らせた。 花栄は矢を放たずにそれをしまうと、自陣へと戻って行った。

「お見事な戦いでした、祝彪どの」

 孫立が拱手で迎えたが祝彪は、ああ、と返事をするだけだった。

 祝家の兵たちが祝彪に喝采を送っていた。

 欒廷玉だけが、何か言いたげに、祝彪の背を見つめていた。

 

 その翌日は三騎であった。

「しつこい奴らだ。我ら兄弟の力を見せてやろうぞ」

 祝竜がそう吼え、祝虎と祝彪がそれに続いた。

 梁山泊の将は林冲、穆弘そして楊雄であった。欒廷玉は眉間に深く皺を刻んだ。三将とも数日前の戦いでその力のほどを見ていた。宋江をもう少しで捕らえられた所だったのだが、救援に現れた彼らの力でそれは叶わなかったのだ。

 しかも中央にいる林冲とかいう男は扈三娘を捕らえたという。馬上の姿を見るだけで、欒廷玉にはその強さのほどが伝わってきた。

 祝家の兄弟では勝てぬ。欒廷玉は鎧を着こみ、すぐに出陣できる準備を整え始めた。

 六騎がぶつかった。林冲と祝竜、穆弘と祝虎、楊雄と祝彪であった。

 祝竜の槍が唸り林冲を襲う。だが林冲は難なくそれを弾くと蛇矛を繰り出してゆく。当たりはしなかったものの、祝竜はそれをかわすので精いっぱいであった。

 祝虎と穆弘の刀が何度もぶつかり合い、その度に火花が弾け飛んだ。祝虎は欒廷玉直伝の刀技を見せつける。祝虎が優勢に見えたが、穆弘の一撃一撃が重かった。刀で防ごうにも、そのまま刀身を叩き斬られてしまうかのような、重い一撃を繰り出してくるのだ。段々と祝虎の腕が痺れてきた。また、これを喰らうと思うとどうしても及び腰になってしまうのであった。

 兄ふたりの劣勢には目もくれず、祝彪は楊雄を見据えていた。

「ほう、よくも顔を出せたものだ。お前が梁山泊を連れてきたという訳か。なるほど、こそ泥はこそ泥たちと仲が良いのだな、やはり」

「あの時、時遷を返してさえいれば、ここまで大事(おおごと)にはならなかったものを」

「祝家荘にとってはいずれ倒すべき相手だった。こちらから出向く手間がはぶけたというものだ」

 楊雄が槍を握り、にじり寄る。祝彪も間合いを測り、互いの騎馬が円を描いた。

「時遷が待っているぞ」

 先に仕掛けたのは祝彪だった。数瞬遅れて楊雄も駆けた。馬が馳せ違い、二人は再び距離を置いた。

 楊雄の戦袍(せんぽう)の肩口が裂けていた。無傷の祝彪が、にやりと不敵に笑う。

 昨日、花栄と引き分けた事で自信がついたのだろう。いつになく技が冴えていた。だが欒廷玉は鉄棒を握る手に力を入れた。

 確かに祝彪は強い。しかし強さゆえ、相手をどこか軽んじる所があるのだ。欒廷玉は幾度もそれを指摘するのだが、いつも祝彪は生返事をするばかりだった。

 次第に楊雄の手数が増えてきた。祝彪は苛立ってきた。楊雄は馬鹿のひとつ覚えのように同じ箇所を狙ってくるのだ。

 首だった。

 祝彪の突きをかわし、楊雄が槍を突く。祝彪の薙ぎを上手く避け、前に出る勢いで突きを放つ。祝彪の連激を防ぎ切り、楊雄が槍を大きく薙ぐ。

 それらの全てが、祝彪の首を狙っていた。

「気持ちの悪い奴だ」

 祝彪は唾を吐き、楊雄と距離をとった。

 欒廷玉が立ち上がった。

「門を開けろ。私が出る」

 しかしそう言って進み出たのは、いつの間にか軍装になっていた孫立だった。

 手には竹節虎眼の鉄鞭。

 雄々しいその様は、まさに尉遅敬徳と呼ぶにふさわしい姿だった。

 

 馬上の宋江は身を乗り出し、件(くだん)の将を見た。あれが病尉遅の孫立か。

 宋江たちの苦戦を聞き、応援に駆け付けた呉用からその名を聞いた。

 登州で堤轄をしていたのだが、あらぬ罪に陥れられた親類を救うために牢破りを決行。さらにその元凶であった毛親子に復讐をすると屋敷に火を放ち、登州から出奔したのだという。

 彼らの仲間である登雲山の山賊が楊林と顔見知りだったため、梁山泊に向かう途中で石勇の店に寄ったという訳だ。

 そして石勇からの連絡で孫立らに会った呉用は、祝家荘攻略の鍵となる情報を聞く事になる。祝家荘の武芸師範である欒廷玉と孫立が、なんと同じ師の下で修業していた義兄弟だというのだ。

 かつての義兄弟を頼るふりを装って、頃合いを見計らい、内から祝家荘を攻める。

 宋江は、この策を考え付いた時の呉用の顔を想像してしまい、苦笑した。

 ともあれあの孫立とその家族たちに、この作戦の鍵は握られているのだ。

 もし欒廷玉と会い、昔日の情が甦ったならば。宋江はその考えを払うかのように、首を振った。手綱を握る手には汗が滲んでいた。

 孫立は実に堂々と馬を進めた。

 祝竜と戦っていた林冲が、ほうと感嘆の声を漏らすほどだった。

「どっちを見てやがる。相手はこの俺だぜ」

 憤る祝竜だったが、強がるだけで精いっぱいだった。

「俺が相手だ。覚悟しやがれ」

 梁山泊軍から一騎が飛び出した。馬にまたがるのは石秀。命知らずの三男坊、拚命三郎の渾名を持つ石秀だった。

 おお、と気合と共に槍をしごく石秀。

 対する孫立は慌てず、鉄鞭を了事環に据えると槍を構えた。

 石秀の強靭な膂力から放たれる突きはまさに目にもとまらぬほどだった。だが孫立は目を細めて、それを槍の柄で弾くようにして受けた。

「やるじゃねぇか。俺は石秀ってんだ、あんたも名乗ったらどうだい」

「本来ならば山賊ごときに名乗る名など持ち合わせてはおらんのだが、冥土の土産だ。この孫立の名、しっかり覚えてあの世へ行くがよい」

 孫立が槍を頭上で旋回させた。充分に勢いのついた槍を横薙ぎに何度も繰り出してゆく。石秀は機を見計らうが、とても付け入る隙はなかった。

 しかしそこは石秀である。命などいらぬとばかり、槍の隙間に飛び込んだ。

 石秀は鞍に伏せるようにして襲い来る槍の穂先をかわした。すかさず上体を起こし、その反動で槍を突きこむ。それを孫立は体をひねって避けると、そのまま了事環の鉄鞭に手を伸ばした。

 突風が吹いた、と石秀は感じた。それは孫立の放った鉄鞭だった。

 石秀は反射的に体を槍でかばっていた。しかし鈍い衝撃が脇腹を突き抜けた。

 石秀はそのまま馬から落ちると、槍を杖に立ちあがろうとした。だがそれは叶わず、地面に転がってしまった。石秀の持つ槍は、鉄鞭によって叩き折られていたのだ。

「へへ、まだまだだぜ」

 石秀はなんとか立ち上がるものの、地面に大量の血を吐きだし、膝を折ってしまった。

 足に力が入らない。槍がなければ、死んでいたかもしれない。

 石秀はそれでも地面から、馬上の孫立を睨みつけていた。

「おい、もう終わりか、孫立とやら。来ないなら、こっちからいくぞ」

「ほう、敵ながら見事な好漢ぶりよ。どうだ梁山泊など抜けて、祝家荘に来てはみないか」

 石秀が、その言葉を聞くや駆けた。手には短くなった槍、その目はしっかと孫立を見据えていた。

 孫立は知らなかったのだ。石秀は、時遷が捕らえられた時にそこにいた男だという事を。

 孫立は石秀の気迫に驚いたものの、すぐに冷静になった。決死の一撃を放つ石秀の横に馬を走らせ、伸びきったその体を抱きかかえるように掬いあげてしまった。

 離せ、と暴れる石秀。しかし孫立が体を締め付けると、先ほど鞭を受けた場所に激痛が走った。気を失いそうになるほどの痛みに耐え、石秀はそれでも抵抗をやめなかった。

 祝家の門前に、石秀が転がされた。兵たちが駆けだしてきたが、孫立はそれを一喝した。

「決して手荒な真似はするでないぞ。傷の手当てをし、牢に入れておけ」

 祝朝奉が喝采で迎えた。

「さすがは欒先生のご同輩ですな。尉遅敬徳がこの世に甦ったのかと思いましたわい」

 孫立は軽く礼をすると顔を背(そむ)けた。祝朝奉の後ろで、孫新が鼻をつまんでいたのだ。

 そこへ祝竜たちが帰還してきた。石秀が捕らえられ、梁山泊が撤退の合図を出したのだ。

 三人とも汗に濡れ、肩で息をしていた。祝朝奉も、息子たちが劣勢で心配だったのだろう。口には出さぬものの、はっきりと安堵の色を浮かべていた。

「皆さまが戦われていた相手もそれぞれ相当の手練(てだれ)。よくぞ互角に戦いました」

 孫立が祝家の兄弟をねぎらったが、誰も礼はおろか返答すらせずに、兜を脱ぎすて奥へと行ってしまった。

 欒廷玉が後ろで囁いた。

「すまない。私の教育が足りないのだ」

「いや、お前は良くやっている。もし私だったら、とっくに投げ出しているさ」

 眉間に皺を寄せた欒廷玉へかけた言葉は、孫立の本当の気持ちだった。

 孫立も軍装を解きに奥へと消えた。

 欒廷玉が孫新を見た。

 祝家荘に来て、初めての事であった。

 欒廷玉は何か言いたそうにしていたが、やがて同じく奥へと消えた。

 

 まだ誰か捕らえられたようだ。

 錆びついた音をたて、扉が開かれる。

 楊林はやっと腫れのひいた瞼をゆっくりと開けた。

 楊林は驚いた。それは石秀だったのだ。しかし驚いたのは、石秀を連れてきた二人の男の顔を見たからでもあった。

「久しぶりだな、楊林の旦那」

「もうちょっとだけ辛抱してくれよな」

 それは登雲山の山賊、鄒淵と鄒潤であった。

「はは、こんな所で会うなんて奇遇だなあ」

 楊林はまるで道端で再会したかのように明るく笑った。

「おい、誰だよそいつら、楊林。祝家荘の奴らじゃないのかよ」

 王英が不思議そうな顔をしていた。

 それには鄒淵が説明をした。彼らが起こした登州での復讐劇と逃亡劇を。そして梁山泊に協力するために、祝家荘に入りこんだ事を。

「なるほど、こいつらが前に言ってた登雲山の連中かい」

 鄧飛が嬉しそうにしていた。

 秦明と黄信は感心していた。

「なるほど、登州の孫堤轄の名は青州にも聞こえていたな。曰(いわ)く、尉遅敬徳の生まれ変わりのような男だと。お前たちも大したものだな」

「そうだろう、そうだろう。ただの山賊じゃねぇんだぜ」

「こら、調子に乗り過ぎだぞ、潤。俺たちの仕事はこれからなのだ」

「へへ、すまねぇ、叔父さん」

 このやり取りに一同が破顔した。

 楊林も、王英も鄧飛も枷をはめられ、動く事すらできないのにである。黄信も秦明も傷だらけで、まだ血も乾いていないのにである。どの顔も、本当にここが牢の中なのか、と思わせるほどだった。

 これが梁山泊の男たちなのか。

 鄒淵は心から嬉しそうに笑った。

 

「あんた、誰だい。普通の男じゃあないみたいだが」

「普通って、どういうのだい。で、あんたが時遷だな」

「どういうのって言われてもなあ、ええと」

 孫新、と男は名乗った。

「孫新、あんたみたいな奴は普通じゃないのさ。俺には分かるんだ」

 時遷は独房に入って来た男、孫新にそう言った。それは嘘でも何でもなく、その道で生きてきた経験から言えることだった。

「まあ、どっちでもいいじゃねぇか」

「そうだな」

 互いに初めて顔を合わせてから数瞬。まるで二人は昔からの知り合いのように見えた。

「で、いつ出られるんだい、孫新」

「慌てるな。だがもうすぐだ」

 にやり、として孫新が言った。孫新はまだ何も話してはいなかった。しかし、時遷はすぐにそれと悟ったのだ。

 もう少しだけ頑張っていてくれ。孫新はそれだけ告げると、独房の戸からすり抜けるようにして出て行った。

 しかし、ひょいっと孫新が顔だけ覗かせて言った。

「お前こそ、普通じゃねぇだろうが、時遷よ」

 独房が再び闇に閉ざされた。

 孫新の笑い声が耳に残っていた。

 時遷は考える。あの男、孫新がこの警戒が厳重なはずの独房に、どうやって独りで来ることができたのか。しかし、そんな事はどうでもよいと思った。

 孫新が来たこと、その事実だけがあれば良いのだ。

 時遷は目を閉じ、体を休ませる事にした。

 その独房にはまるで誰もいないかのように、時遷の気配が丸ごと消えていた。

 

「殺すなら、さっさと殺せ。いつまでこうしておくつもりなのだ」

 宋江の顔を見るなり扈三娘が噛みついた。

 扈三娘が捕らえられている小さな幕屋である。牢に入れられもせず、枷どころか縄も掛けられてはいなかった。もちろん、武器は取り上げられていたが。

 困ったような宋江の前には呂方と郭盛が、それ以上近づかないように画戟を扈三娘に向けていた。

「あなたは死にたいのですか、扈三娘」

 う、と扈三娘は言葉に詰まった。死にたい訳では、もちろんない。ただ、敵に捕らえられて、殺されぬはずがないと思ったのだ。

「私はあなたのお兄さん、扈成どのと約束をしました。だからあなたには生きてもらいます」

「兄と、会ったというのですか」

「はい。敵陣であるここまで、たった独りで来られました。危険を、命を顧みず、あなたの命の嘆願をするためだけに」

 兄が、わたしのために。扈三娘は困惑していた。いつも兄は、自分のする事に何かと口を出してくるのだ。この梁山泊との戦に加わると決めた時もそうだった。兄は戦には反対だった。

 自分の弱さゆえに負け、捕えられた。ならば残るは死のみだ、と扈三娘は考えていた。

「良い兄を持ちましたね」

 宋江は人好きのする笑顔を見せた。これが捕虜に見せる顔なのか。

 扈三娘は出てゆく宋江の背を見つめていた。武芸ができそうな男ではない。小柄で何の特徴もないような男だった。

 幕屋の隙間からあの男が見えた。自分を負かした男、林冲という男だ。

 扈三娘は幕屋から出ようとしたが、入口の兵に止められた。それに気付いたのか、林冲がこちらを見た。

「どうして、殺さなかったのですか。あなたほどの技量があれば、簡単にできたでしょう」

「なんだ、死にたかったのか、お前は」

 林冲の目は戦場で見たものと違い、どこか物憂(ものう)げだった。

「宋江どのも、同じ事を言いました」

「そうか。あの人も、近しい女性(ひと)を失ったと聞いた。だからかもしれんな」

 宋江も、と言った。という事は林冲も、なのだろうか。

「ここは戦場(いくさば)だ。入ったばかりの新兵が無傷で生き残り、無敗の将軍が小石ひとつにつまづいて命を落とす。そんな場だ。素直に命を拾った事を喜べば良い」

「答えになっていません」

 林冲は少しだけ目を瞑った。

「お前が女だから、だったのかもしれんな」

 林冲はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。しかし数歩行ったところで、肩越しに目だけを扈三娘に向けた。

「それに、簡単ではなかった」

 扈三娘は去りゆく林冲の背を見つめていた。

 父も、兄も、そして林冲も同じだ。自分が女だから、だ。

 どんなに刀の腕を上げても、どんなに勝利を重ねようと、女としか見られないのだ。

 扈三娘は、やはり素直に喜ぶ事などできそうになかった。

 

 李応が左腕を擦っていた。

 傷はまだ癒えていないが、少しむず痒かった。治ってきている証拠だろう。

 すぐ側で杜興が茶を淹れていた。

「どうだね、杜興」

 祝家荘対梁山泊の戦況は、という事だ。

 杜興は湯呑みを盆で運び、李応のも手元に置いた。見た目に反して以外にきめ細かい男だ、といつも李応は思う。

「南方の白石(はくせき)島という所から取り寄せた薬草入りです。少し苦いかもしれませんが」

 うむ、と李応は湯呑みに口をつけた。暑すぎず、飲みやすい温度だった。

「苦いな」

「でしょう。でも滋養には効果があるとか」

「良薬は何とやら、か」

「はい。今回の薬、祝家荘には苦すぎるでしょうな」

 李応は黙って湯呑みを持ったまま促した。

「劇薬となるかもしれませんな」

 杜興は、神妙な面持ちだった。

 李応は複雑だった。元来、祝家荘とは扈家荘と共に盟約を結んでいた。独竜岡(どくりゅうこう)に敵が攻めてきたら、協力して戦うという盟訳だ。

 しかし祝家荘で楊雄と石秀、時遷が襲われた。梁山泊の者だと勘違いされたからだ。そしてこの楊雄という男は杜興の恩人であった。

 李応は杜興のためにも、この濡れ衣を晴らそうと祝家荘を訪ねた。しかし、である。祝家の兄弟たちは、楊雄をかばう李応すらも梁山泊の仲間だと罵り、あまつさえ攻撃さえしてきたのだ。

 これにより負傷した李応は怒り、盟訳の不履行を決意した。嘴(くちばし)の黄色いひよこ共め、と憤慨していたが、落ち着いてくると李応は少し後悔もしたのだ。

 男たるもの約束を反故(ほご)にしてよいものだろうか。しかし李応とて李家荘主としての矜持(きょうじ)もあるのだ。

 杜興もそうなのだろう。李家荘に仕える者として、独竜岡の均衡を、結果的に破る遠因となってしまったのだ。心苦しくないはずもない。

 しかし祝家荘は、己の主である李応を傷つけたのだ。楊雄や石秀ら梁山泊と共に戦いたい思いもあるのかもしれない。

「梁山泊が総攻撃に出ました。今朝の事です。決着をつける気でしょう」

 杜興が茶道具を片づけながらそう告げた。

 李応は、そうかと言うのみだった。

 そこへ下男が、客人の来訪を知らせにやって来た。妙に慌てふためいている様子だ。

「一体誰が来たというのだ」

 杜興が聞くと、その下男は怯えたような顔になった。いつまでたっても鬼瞼児(きれんじ)の顔には慣れないらしい。

「それが、知府さまでして。知府さまは孔目と二人の虞候(ぐこう)を連れております」

「知府さまだと」

 いかに李応が富豪だとはいえ、知府など会った事もない。

 その知府が一体、何の用だというのだ。しかも今の独竜岡の危険な状況を知っていて来たのだろうか。

 李応は口の中で舌を動かしていた。

 先ほどの茶の苦味が、まだ残っているようだった。

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