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悲報

 「父が生きているですって」

 宋江は驚きのあまりはずした覆面を、慌てて元に戻し口元を隠した。

 宋家村の入口にある組頭である張(ちょう)社長の居酒屋に、宋江はいた。

「まったく一年半ぶりに顔を見せたと思ったら、宋太公さまが死んだなんて事を言い出して、こっちが驚きますよ、宋江さま」

「しかし、弟からの手紙には確かにそう書いてあったのだよ」

 張が宋江に酒を出す。

「嘘も本当も、さきほど宋太公さまがうちの店に来て飲んで行かれましたよ」

 父が生きているという。

 本当なのか。いや嘘をつく必要も理由も、張社長には無いのだ

 考え込む宋江に、さらに張社長が言った

「それに宋江さま、裁判の件は恩赦が出たようです。お咎めも軽く済みそうで良かったですなぁ。そんな顔を隠さなくっても、この村で宋江さまを捕えようなんて者はいやしませんよ」

 ありがとう、と礼を言い宋江は家へと急いだ。

 下男たちは宋江を見て驚いたが、一様に嬉しそうな顔をしていた。聞くと宋清も、そしてやはり父も家にいるという。

 座敷へ向かうと、そこに宋清が現れた。

「おや兄さん、ご無事でしたか」

「ご無事でしたか、ではないぞ。お前の手紙に父が死んだとあったから、居ても立ってもいられず戻ってきたのだ」

 宋江が掴みかからん勢いで宋清を怒鳴りつけた。

 宋清が口を開こうとした時である。衝立(ついたて)の向こうから声が聞こえた。

「すべてはわしの考えでやった事だ。弟を責めるでない」

 それは確かに宋太公、父であった。別れた時と変わらぬ姿であった。怪我も、病気もしていない様子で矍鑠(かくしゃく)と宋江の元へと歩いて来る。

 一体どうして、という顔をしている宋江に、宋太公が優しく話しだした。

「お前は白虎山にいただろう。あそこは山賊が多く、お前も間違って仲間になってしまわぬかと、わしは心配になったのだ。そこでわしが死んだとなれば、きっとお前の事だ、飛んで帰ってくるに違いないと考えた。そして丁度、訊ねてきた石勇という男に手紙を託したという訳だ」

 そこまで話すと、宋太公は息子たちを座敷に座らせ、下男に茶を用意させた。湯気の立つ茶をすすり、宋江も少し落ち着きを取り戻した。

「そういえば、恩赦が出たと張社長から聞きましたが」

「そうなのだ。この度、天子さまが皇太子をお立てになり恩赦の詔勅が下され、罪一等を減ずるという布告が出されたのだ。これで捕らえられても、せいぜい流罪ですむだろう」

 死罪は免れたという事か。どうやら朱仝と雷横も自分のために奔走してくれたようだ。二人にもこの礼はしなくてはなるまい。

「朱どのと雷どののお二人は公務で鄆城の外へ出ているようです。朱どのは東京へ行っているようですが、雷どのは東昌府です。今は新参の二人が代理で都頭をしております」

 二人の事を聞く前に、宋清がそう教えてくれた。

「まあ、疲れただろう。今日はゆっくりと休むが良い。明日にでも、これからの事を考えるとしよう」

 父は生きていた。

 これ以上嬉しい事があるだろうか。安心するとともに、宋江の体を強い疲労感が襲った。張り詰めていたものが一気に緩んだのだ。

 父は自分のために手紙を書いたのだ。

 いつまでも逃げ続ける訳にも行くまい。

 そう考えながら、宋江は次第にまどろんでいった。

 

 喧噪が聞こえる。

 家の外だろうか。

 目を瞬(しばた)きながら、もそもそと起き上がった。薄目を開けてみる。空はまだ暗いようだが、外に明かりが煌々と灯されている。何事だ。

 宋江は上着を羽織り、廊下へ出た。まだ冷たい空気に震えたが、聞こえてくる言葉に宋江はさらに震えてしまった。

「宋江を出せ。いるのはわかってるんだ、宋江を出せ」

 宋太公の屋敷が百人ほどの捕り手に囲まれていた。めいめい松明を手にし、先頭にいる二人が叫んでいた。朱仝と雷横の代理の都頭、趙能(ちょうのう)と趙得(ちょうとく)の兄弟であった。

「こんな時分に何事だね、まったく騒がしい」

 宋太公が門前で二人の都頭に対峙する。毅然とした態度に趙兄弟も少しひるんだが、この二人はごろつきあがり、虚勢を張るのはお手の物だった。

「何事だねとは、こっちの台詞だ。この屋敷にお尋ね者の宋江がいるのはばれてんだ。とっとと出した方が身のためですぜ、太公さんよ」

 趙能が、ずいと前に出る。胸と胸があたりそうになるが宋太公は一歩も引く事はない。

「前から言っておる。あれはすでに籍を抜いており、宋家の者ではない。いまさら匿うはずなどないだろう」

 趙得がにやつきながら前に出た。

「太公さんの手前、優しく言ってやってるんだぜ。今日の昼間、宋江がこの村に来たのを、俺らの部下が見てるんだ。で、どこへ行くかと思ったら、ここに入ったって言うじゃねぇか」

 宋清が後ろの方で、もしものためにと棒を手にしていた。

「見間違いだろう。あの男は来てはおらんよ」

 趙能が、足元に唾を吐き捨てる。

「じゃあ、あいつは誰なんだよ」

 趙能が宋太公の後ろを指さした。

 宋太公が振り返ると、そこには宋江が立っていた。

「江(こう)、出てくるんじゃない」

「ほら見ろ。おいお前ら、宋江をとっ捕まえろ」

 趙能と趙得が宋太公を押しのけ、屋敷へ入ってこようとする。宋清が棒を構え、足を踏み出す。

「やめなさい。私は逃げも隠れもしませんよ」

 宋太公と宋清が心配そうな表情で宋江を見ている。趙得がからかうように言う。

「おいおい、無理するなよ。手が震えてるぜ」

 宋江は慌てて手を見るが、震えてはいなかった。

 唇を噛みしめ、趙兄弟に近づいてゆく。

 宋清が、兄さん、と囁く。

 大丈夫だ、と宋江が返す。

「今日はもう遅い。お二人とも中で一杯やってください。明日になったら共に出頭いたしましょう」

 趙兄弟が顔を見合わせる。

「騙そうってんじゃねぇだろうな」

「どこにも逃げはいたしませんよ」

 やけに余裕のある態度に趙兄弟はいぶかしんだが、酒が飲めるという事でこの提案を承諾した。宋江は下男に二人を案内させた。

「わしの考えが軽はずみだった。お前の顔を見たいと思ったばかりに」

「私は大丈夫です。恩赦が出ておりますから、刑期が終わればまたここに戻ってこられますよ」

 宋江は優しく父を慰めた。宋清も黙って兄を見つめている。

「さあ、まだ外は寒い。風邪を引きますよ」

 宋江は父の肩を抱き、屋敷へと入った。

 昔より小さくなった父の体に、宋江は涙をこらえていた。

 

 翌早朝である。鄆城知県の時文彬がちょうど登庁してくるところだった。趙能と趙得が得意げな顔で宋江を引きたててきたのだ。

「おお、宋江。今までどこにおったのだ。とにかく無事で良かった」

 時文彬は宋江の顔を見ると破顔した。

「知県さま、いろいろとご迷惑をおかけいたしました。この宋江、もう逃げはいたしません」

 そう言って供述書をしたため、時文彬がそれを受け取った。沙汰を待つ間、宋江は牢へと入ることになった。

 お尋ね者の宋江を捕らえた事で報奨金が出るものと思っていた趙兄弟は不満げな顔をしていた。知県をはじめ役所の誰もが宋江の姿を見て喜び、趙兄弟の事など忘れてしまっているかのようだったからだ。

「なあ、俺たち何にももらえねぇのかい、兄貴」

 趙得が不満そうに言う。

「まったくあいつらおかしいんじゃねぇか。罪人にへこへこしやがって。捕らえたのは俺たちだぜ。よし俺がかけあってやるよ」

 趙能はそう言って、知県の元を訪れた。

 時文彬は仕方なく褒美を出すことにした。都頭として当たり前の事をしたにすぎないのに、金をせびるとは。ごろつきと変わらないではないか。時文彬はため息をつきながら、朱仝と雷横が早く戻って来ないかと願っていた。

 知県からのお達しで趙兄弟に目録が渡された。喜ぶ趙兄弟を、それを渡した張文遠が冷めた目で見ていた。

 元はごろつきだと聞いたが、本当にそのままだな。しかし宋江の奴め、やっと捕まったか。閻(えん)婆さんは半年も前に死んでいるし、もう波風を立てる事もあるまい。ばれる日が来るのでは、と冷や冷やしていたがこれでやっと枕を高くして眠る事ができそうだ。

 張文遠は押司になっていた。かつて宋江が使っていた執務室で文書をしたためる。六十日の拘留を経て、宋江は済州で判決を受ける事になる。

 筆を置き、腕を上げ、背を反らし窓の外を見た。空は晴れており、春の陽気が窓から差し込んでいる。

 仕事が終わったら飲みにでも行こうか。今日は楽しめそうだ。

 そう考えながら張文遠は無意識に左手を擦(さす)っていた。

 そこにはまだ傷跡がうっすらと残っていた。

 

 棒打ち二十のうえ、江州への流刑という判決となった。ここからはるか南、長江と鄱陽湖(はようこ)との間に位置する州だ。

 済州の役人も手心を加え、宋江はひどい目に会うことなく出発の段となった。情報を聞きつけた柴進からの付け届けが効を奏したと聞き、宋江は感謝の念を禁じ得なかった。

 枷をはめられた宋江が二人の護送役人、張千(ちょうせん)と李万(りまん)に両脇を挟まれて歩く。

 州役所の前に父と宋清が待っていた。宋清が二人の役人をもてなす間、父が宋江にそっと告げた。

「遠く離れてしまうが、必ず戻ってこられると信じておる。お前は昔からおせっかい焼きで厄介事に自分から首を突っ込んでしまうから心配だが、ほどほどにしてくれよ」

 宋太公も宋江も涙をこらえながら、無理に明るく振る舞おうとしているようだ。

「江州は豊かな土地だ。魚も米も美味いと聞く。体にだけは気をつけるのだぞ」

 ご建勝で父上、そう言って宋江は宋太公と別れた。これ以上いると別れがより辛いものになってしまう。少しの間見送ってくれた宋清に父の事を託した。自分よりも頼りになる男だ、心配はあるまい。

「無事に帰ってくるのを待ってますよ、兄さん」

 それだけ言って宋清も鄆城へと戻って行った。

 長い道のりだ。しかし無事に帰ってくると約束したのだ。

「大丈夫ですよ、あっしらがついてます」

 張千と李万がそう言ってくれたが、宋江は一抹の不安を拭いきれなかった。

 春の候、旅にはちょうど良い季節かもしれぬな、と宋江は自分を鼓舞するように歩きはじめた。

 

 目の前に刀を持った一団が現れた。どの顔も山賊と呼ぶにふさわしい者ばかりだった。

 南へ向かって三十里ほど歩いた頃であった。張千と李万は悲鳴を上げ地面にうずくまってしまった。

 山賊の頭目らしき者が前に出てきた。宋江はその男に見覚えがあった。

「お久しぶりです、宋江どの」

 それは赤髪鬼の劉唐だった。ぎろりと二人の役人を一瞥すると、その大きな刀を振り上げた。

「お迎えに来ましたよ、宋江どの。さあ、梁山泊へ参りましょう」

「待つのです」

 慌てて宋江が止めた。そして手を差し出すと、こう言った。

「あなたの手を汚す事はありません。刀をください、私がやります」

 劉唐は少し考えたが、宋江に刀を渡した。そして次の瞬間、それが間違いだったと気づいた。

 宋江は膝を地に付け、刀を自分の首にあてたのだ。

「この二人は関係ありません。刑を受ける事は私が決めた事。行かせてくれぬのならば、ここで果てるまでです」

 ぐい、と宋江が手に力をこめた。首筋がうっすらと切れ、血がにじんだ。

 劉唐が宋江の手首をつかんでいた。気付かぬほど素早い動きだった。

「わかりました、宋江どののお気持ちはわかりました。だが、俺の一存では決められない。軍師どのと花栄どのがすぐ近くで待機してるので、呼んできましょう」

 おい、と劉唐が部下を走らせる。首の傷は深くなかった。血が止まる頃、呉用と花栄が馬でやってきた。

 花栄は宋江を見とめるなり、馬を下り駆けつけた。

「心配したぞ。宋太公が生きていた事は嬉しいが、お前が捕まってしまうなんて」

「すまぬ花栄、途中で別れてしまって。無事に梁山泊に入れたのだな」

 遅れて呉用がやってきた。ゆっくりと馬をおり、宋江に拱手する。

「その節は大変お世話になりました。宋江どのの注進がなければ、我らは今頃ここでこうしている事はなかったでしょう。やっと直接お会いできて感慨の至りです」

 智多星の呉用か。名前は聞き及んでいたが、晁蓋の屋敷で一瞥したのみであった。

「宋江どののお気持ちはわかりました。お引き止めはいたしませんので、ぜひ晁蓋どのに一目会っていただけませんか。お時間は取らせませんゆえ」

「そうだ、本当ならばあのままお前も梁山泊に来ていたはずなんだからな」

 呉用と花栄の説得に従う事にした。引き止めないと言っているのだ。それに義兄である晁蓋の気持ちを無碍にすることもできなかった。

 待っていた船に乗り、梁山泊へと向かった。

 これが梁山泊か。張千と李万はもちろん、宋江もその威容に圧倒されていた。

 金沙灘から応接所である断金亭(だんきんてい)で一休みしてから、聚義庁へと向かった。

「おお、無事だったか。命を救ってくれた礼を、ずっとしたいと思っていたのだよ」

 晁蓋が両手を広げて迎えてくれた。

「やめてください兄貴、他人行儀な」

 拱手する宋江に、頭目たちの目が注がれていた。阮小七などはあきらかに、この小男が宋江かよ、といった顔をしている。

 世間に流れている及時雨の評判と、実物を見比べてしまうと誰もが同じような気持ちを抱いてしまうのである。宋江はそういう視線に慣れてきたようだった。

 一同と挨拶をかわし、酒が運ばれてくると宴が始まった。張千と李万もご相伴にあずかっている。

 晁蓋は何度も梁山泊に引き止めようとするのだが、宋江は頑として断り続けた。

 義弟の決意が固いことを理解した晁蓋は、宋江の意思を尊重する事にしたようだった。

 

 あくる日、眠たそうな目をこすりながら張千と李万が宋江と共に歩いていた。

 昨夜はそのまま梁山泊に泊まったのだが、劉唐に襲われた事を思い出すと怖くて眠れなかったのだという。

 それは悪い事をしました、と宋江が苦笑した。

 そして懐にそっと手をあてた。そこには一通の手紙があった。

「江州の牢役人で親しい者がおります。宋江どのの事を世話してくれるようしたためました。ぜひ彼に渡してください」

 呉用がそう言ってくれた物だった。

 何もかも世話になりっぱなしだ。こうして流刑の身ではあるが、自分は恵まれていると宋江は思った。

 黄河に着いた。

 茫漠な流れに圧倒される三人。

 黄砂を大量に巻き込み、黄色く濁った流れの前に、人間などちっぽけなものでしかなかった。

 船さえも、川面に浮かぶ木の葉のようなものでしかなかった。

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