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亡国

 燕京城に、降伏の旗が翻っている。

 帝の聖旨を携えた勅使が燕京城に入って、しばらくしての事であった。

 ここまで来た梁山泊軍の顔に、戸惑いと疲労の色が濃く浮かんでいる。

「逃げないで、敵の親玉をぶっ殺すんだったな」

 李逵(りき)が憤慨して言った。誰もが同じ思いだったに違いない。

 勅使が城から戻ってきた。手紙を携えている。

 燕京の王、耶律輝の降伏と謝罪の文だった。

 幕屋を張り、そこで勅使と宋江が向き合った。

「危なかったですな、宋江どの。燕京を攻撃していれば、大変なことになっていたところです」

 勅使が開口一番、横柄に言った。

「大変なこととは」

「ふん、思い至らぬとはな。戦だよ、戦。お主らがこの燕京を攻撃していたならば、遼への宣戦布告と見なされていただろう。ここがどこだか分かっているのかね」

 宋江は無言だ。両の拳を膝の上で強く握っている。

「分かるだろう、燕雲の地だ。我らが奪還を悲願としている地だ。宋朝はこの地を取り戻すべく、長い年月をかけて交渉を重ねてきた。いまは遼とも和平を結んでおり、あと一歩というところまで来ているのだ。それをお前たちが、ぶち壊すところだったのだぞ。その時は、梁山泊も賊徒に逆戻りしていただろうがな。運が良かったな」

 何だと。私たちは、国が奪われた金と虐げられた民を救おうとしただけだ。

 宋江は殴りかかりそうな拳を必死に自制していた。

 だが勅使の挑発的な物言いは止まることなく続く。

 ついに宋江の腰が浮きかけた。

 す、と呉用の手が肩に置かれた。

「勅使どの、この度は大命のため、遠路はるばるご苦労様でした。喉も渇きましたでしょう」

 そう言って奥の間にある酒甕を見せる。

 そうだな、と勅使が舌なめずりをした。

 思わず宋江は呉用の顔を見た。普段、表情の読めない呉用が、この時は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 数刻後、勅使は杯を手にしたまま涎を垂らし、白目を剥いて卓に突っ伏していた。

 痺れ薬だ。

 その様子を見て、李逵たちがげらげらと笑っていたところである。

 東の地平から、一団が不意に姿を見せた。

 土煙と共に、どんどん近づいてくる。

 一体、何者か。

 その一団は近づくにつれ、速度を落とした。あくまでも整然と行軍し、やがて梁山泊軍の前で止まった。

 契丹の服装をしていた。その一団は、都である臨潢府から来た、遼の正規軍であった。

 先頭の将が恭しく言う。

「すまぬ、梁山泊の諸君。耶律輝はじめ叛逆者どもが迷惑をかけてしまった。後は我々が始末をつけさせてもらう」

 号令をかけると、兵が燕京へ向けて駆けた。

 躊躇(ためら)うように開いた城門から、燕京の王、耶律輝が出てくるのが見えた。

 戦で見た、堂々たる風格が消え失せていた。

 東京開封府、朝議の場がどよめいた。

 だがすぐに係りの者が静粛を命じ、居並ぶ官僚たちは口を閉じた。

 蔡京の奏上が発端だった。

 梁山泊が遼国に戦を仕掛けているというのだ。本当だとすれば由々しき事態である。

 王黼が声を荒げる。

「我らが苦労して締結させた和平の盟約を、山賊どもの身勝手で破られる訳にはいきません。厳罰を下すべきです」

 まるで自分が和平をもたらした言いぶりではないか。いけしゃあしゃあとよくもぬかすものだ。そんな楊戩の胸の内を見透かすように、王黼が睨んだ。

 ともあれ、緊急事態には変わりない。

 やはり梁山泊を招安したのは間違いだった。という声があちこちから上がりだす。

 帝もどう対処したら良いか、苦悩の色を浮かべている。

 蔡京は初めの発言から黙ったまま、不敵な微笑を湛えている。

 その中で宿元景が静かに言った。

「梁山泊の招安を否定することは、聖旨を否定することと心得よ。軽々に発言することは控えていただこう」

 場が瞬時に凍りついた。

 宿元景は続ける。

「こたびの騒動、元はと言えば、我が朝廷からの贈物が略奪されたことが原因と調べがついております。それを梁山泊が取り戻そうとした結果起きた事。しかも略奪は今回が初めてではなく、これまでに何度もあったようです。ですがその報告はことごとく握りつぶされていました。実際、こたびの王文斌の訴えを宰相は却下したとか、それは本当ですかな」

 宿元景の目が蔡京を捕らえる。

 呆れたような顔を蔡京がした。

「確証もなしに、軍を送れるはずもないだろうて。もちろん調査しておるわ」

「もうひとつ、看過できない問題がございます」

 帝が身を乗り出した。

「なんだ、言ってみよ」

「調べによると、燕京を支配した一団を、裏で手引きした者がいるようです。しかも、それは我らの中にいるようです」

 再びざわめきが起きた。そしてそれは次第にどよめきへと変わる。

「憶測でものを言ってもらっては困りますぞ、宿太尉。もしそれが虚偽であったならば、罰せられるのはそなたの方だ」

 王黼が喚(わめ)く。

 宿元景の視線を、蔡京は受け止めていた。動揺など微塵も感じさせない目だった。何か証拠でもあるのか。そう言いたげな目だった。

 しばし無言の宿元景。

 化け物め。確かに目の前に出せる証拠はない。だが蔡京が裏で糸を引いているのは間違いないのだ。

 帝が唇を噛む。

 宿元景の言葉を信用している。だが今はその内通者を探し出している時間は無い。

「梁山泊に戦をやめるよう命じよ。すぐに使者を送るのだ。梁山泊の処分については後ほど決める。宿太尉、こたびの経緯をまとめて朕に報告せよ」

「ははっ。すぐに」

 帝の言葉に宿元景と一同がひれ伏した。

 良い判断だと、宿元景は思う。

 遼と交戦状態にある事を、まずは収めたい。

 招安により梁山泊はその独自性を勝ち取ったことは事実だが、対外的にそれを公表してはいない。

 遼にとっては梁山泊軍は宋軍と同じなのだ。その梁山泊が燕京を陥落させてしまえば、盟約を一方的に破棄し、燕雲の地を回復させるために宋が戦を起こしたと取られてしまう。

 宿元景がもう一度、蔡京を見た。

 皺に覆われたその目が微かに細められていた。

 一層、妖怪じみてきたようだ。

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