top of page

騒乱

 東平府は眠れぬ夜を過ごしている。 

 梁山泊軍が夜っぴて攻撃を繰り返していた。

「ええい、董平。とっとと奴らを討ち果たして来るのだ」

 程万里の命で董平が城門から飛び出した。梁山泊からは林冲と花栄が名乗りを上げる。

「これは豹子頭と小李広か。またもや禁軍教頭、そして神箭将軍とは。こちらの槍はふたつ。二人相手でも文句は言わぬ。かかってこい」

 雄叫びを上げ、董平が駆ける。林冲と花栄、左右からの攻撃を双鎗が受け止める。三人が馬を止めて打ち合いになった。

 董平の槍捌きの凄まじさに、韓滔は度肝を抜かれた。

 まるで右手と左手が別人の物ではないかと思うほど、自在に操っているのだ。あの二人を相手に、一歩も引かないというのか。韓滔は董平に、敵ながら憧憬の念を抱いた。

「おい、急げ」

 彭玘の声で我に返った。退却の鉦が鳴らされていた。

 梁山泊軍が一斉に東平府から離れてゆく。

 林冲と花栄は顔を見合せ頷くと、渾身の一撃を同時に放った。

 董平は槍の根元を両脇にしっかりと挟み、辛うじてそれを受け切った。槍を通じて体に痛痒を感じた。

「くそ、待て」

 すでに林冲と花栄が五馬身以上離れ去っていた。董平は太腿を締め、馬を駆けさせた。

 梁山泊軍は近くの寿春県まで下がり、陣を敷き直した。そこへ董平を先頭に東平府軍が殺到した。

 朱武(しゅぶ)が松明を振る。月のない夜が、明るくなった。

 東平府軍を取り囲むように松明が煌々と灯っていた。

 深追いし過ぎた。董平は自らが殿となって、撤退を命じた。

 四方の松明が狭められてゆく。剣戟の音、そして怒号。駆ける自軍の兵が、徐々に減ってゆく。

 必死に董平は駆けた。松明は減ったが、まだ追って来る。前方に現れた梁山泊軍をかわし、草むらへと逃げた。

 槍で草を薙ぎながら、先へと進む。董平の槍が草ではない、何かを切った。穂先のそれは縄のようであった。

 次の瞬間、馬の足元から何本もの縄が上がってきた。馬の胴の高さまで、前後左右からぴんと張られた絆馬索だ。

 解珍が夕刻、あちこちに仕掛けておいた罠のひとつだった。

「よし、引けい」

 王英が叫ぶ。絆馬索に足を取られ、董平の馬が地面に引き倒される。

 董平は咄嗟に馬から飛び降りた。

 だが着地の寸前、体に縄が巻きついた。もがく董平だったが、両腕が動かせぬほど固く巻きついている。

 その縄の端に扈三娘がいた。

「終わりです。観念なさい」

 草むらから百近い伏兵が姿を見せた。

「わかった、俺の負けだ。好きにしろ」

 董平は肩から力を抜き、夜空を見上げた。

 月は見えなかったが、董平は程小芳の事を思った。

 東平府軍が梁山泊軍を追った後、城門が閉じはじめた。

 その城門に向かって疾駆する者がいた。活閃婆、王定六であった。

「行け、行け行け行けっ」

 それを見守る阮小七が、自分が走っているかのように歯を食いしばる。

 安山鎮と東平府の間、そこに湖がある。

 梁山泊水軍が、そこに船を停泊させていた。

 王定六は、そこから駆けたのだ。王定六の腰から縄が伸びていた。それは長い縄で、一方の端を郁保四の腰に巻き付けてあった。

 王定六が門へ近づく毎に縄が伸び、重さが増す。

 おああああ、と王定六は言葉にならぬ叫びを上げた。、腕を振り、腿を上げ、地面を蹴るように走る。

 城門の門番が異変に気づいた。城門を急いで閉めようとする。

「王定六、もう少しだ」

 阮小五が叫んだ。阮小二が、部下たちを走らせた。孫新もそれに続いた。

 城門が軋(きし)みを上げ、閉じられる。隙間が細くなってゆく。

 王定六が砕けそうなほど奥歯を噛みしめ、力を振り絞る。

 門の隙間が細い線のようになった。

 間に合え。いや、間に合わせる。

 王定六がぐんと体を沈めた。最後の数丈で、さらに王定六が加速した。

 門番も驚きのあまり、口を閉じることができない。

 矢のように、王定六が隙間に飛び込んだ。その刹那、門が閉じられた。

 間に合った。だが、これで終わりではない。

 駆け寄る門番を蹴り倒し、王定六が門の裏側にとりついた。そして腰の縄を解き、閂にしっかりと巻きつけた。

「引けえ、引くんだあ」

 ありったけの大声で、王定六が城外に向けて叫んだ。

 縄の端にいる郁保四が腰を落とし、両の腕に渾身の力を込めた。太い蚯蚓ような血管が、丸太のような腕に走った。郁保四の野太い声が響く。

 湖から城門まで伸びた縄がぴんと、一本の棒のように張られた。

「そのまま突っ込め」

 阮小五が吠え、刀を閃かせた。

 郁保四が右手を前に出し、縄の少し先を掴む。そして雄叫びと共に、一気に引っ張った。

 城門が、みしりと揺らいだ。その音はさらに続き、門や城壁に亀裂が走る音がした。

 応援の門番が色を失った。

 亀裂音があちこちから聞こえ、ついに轟音と共に、閂ごと城門が吹き飛んだ。

 史進が捕まり、顧大嫂も戻って来ない。

 城内に入るため、東平府軍がいなくなったこの一瞬のために、王定六は駆けたのだ。

「よくやった。あとは任せろ」

 勢いあまって湖にひっくり返った郁保四に向けて、阮小五が言う。

 梁山泊水軍が東平府内へと斬りこんだ。兵たちは街の方々に散ってゆく。

「すげえなあ、お前」

 倒れている王定六を引き起こしながら、阮小七が笑った。

 あちこちから火の手が上がりだした。

「市民には手を出すな。襲ってくる兵だけを殺(や)れ」

 門番を切り倒し、阮小二が命令を飛ばす。

 牢城はどちらなのか。探す孫新の前に、顧大嫂が現れた。

「心配で来てくれたのかい。嬉しいねえ」

「馬鹿言うな。無事だってことは、分かってたさ」

「あら、信頼されてるんだね。まあ良いさ。ちょっと会わせたい人がいるんだ」

 誰だ、とは聞かず孫新が頷いた。

 顧大嫂のことを心から信頼している、そんな目だった。

「ぐ、貴様ら。汚い真似を」

 役所の中、程万里が顔を紅潮させていた。目の前には娘の程小芳。そして娘は梁山泊の連中に捕えられていた。

 孫新が低く唸るように詰め寄る。

「娘が可愛かったら、牢城の兵を退かすんだ。さあ、どうする」

「お父さま、わたしはどうなっても構いません。決して兵を退かせないでください」

 後ろ手に縛られた程小芳が、気丈にもそう叫ぶ。

 程万里は辛い顔になる。

「おとなしくするんだ」

 顧大嫂が程小芳の頬を張った。ああっと程万里が駆け寄ろうとするが、孫新が小刀を顔に近づける。

「動くんじゃない、程万里。さあ、早く決めてもらおうか」

「待て、待ってくれ」

 苦渋の決断だった。目を血走らせ、小芳を見る。

 そして言った。

「すまぬ、小芳。わしはこの街を、東平府を守らねばならぬ」

「大した男だ」

 孫新が鞭を振った。首筋に当たり、程万里はそのまま昏倒した。配下の役人たちも恐ろしくて近づきはしない。

「さ、行くよ。まさか街を選ぶとはね」

 顧大嫂に、程小芳が小さく首を振る。

「これで良(い)いんです。父は、東平府の太守ですから、当たり前の選択をしたのです。さあ、行きましょう」

「まさか、あんた。こうなると分かって」

 困ったような顔を、程小芳がした。

 協力をしてくれれば董平と結びつける手助けをする、と顧大嫂が話を持ちかけ、程小芳は人質となった。

 筋書きとはやや違う結果となったが、仕方あるまい。

 史進は力づくで救出するだけだ。

 顧大嫂が再び牢へと急いだ。

 

 夜が明けた。

 寿春県、梁山泊の陣。

 宋江を前に、董平が仁王立ちしている。上体を縛られながらも、まるで立場が逆であるかのように宋江を睨みつける。

「貴様ら梁山泊のせいで、税が重くなったのだ。東昌府が貴様らの倉を襲ったのは、当たり前の事ではないのか。我らとて、遅かれ早かれそうしていただろう」

「まこと、董平どのの申す通り」

 宋江はそう言うと、董平の前で深々と頭を下げた。

「こんな事で、許してもらえるとは思わない。だが今は、こうする事しかできぬ。梁山泊のために、すまない。縄を」

 言葉が出なかった。

 頭を下げた。頭領である男が自らの非を認め、頭を下げた。さらに董平にかけていた縄を外させたのだ。

 宋江は頭を下げ続けている。

 董平が動いた。

 その手に、いつのまにか刀が握られていた。近くにいた梁山泊兵のものだった。

「動くな」

 董平が刀を構え、機先を制した。

 場が張りつめる。

 宋江は董平をじっと見つめた。

「俺は負けた。終わりにしたい」

 董平が自嘲気味に笑い、刀をくるりと反転させた。その切っ先を己の首筋に当てた。

 董平が目を閉じる。

「駄目」

 董平が、目を開けた。

 馬鹿な。程小芳の声が聞こえた。

 いや、己の未練がありもしない声を聞かせたのだ。

「待ってくれ」

 また幻聴だ。今度は史進の声だ。

「俺と、まだ戦っていないだろう、董平どの」

 刀が取り上げられた。董平の前に史進がいた。

 宋江がほっとした表情を見せた。どうやら顧大嫂と水軍たちが上手く救いだせたようだ。

 史進が続ける。

「せっかく連れてきたのに、死んじまったら何にもならないだろうが」

 大柄な女に付き添われるようにして、程小芳がそこにいた。

 董平は目を見開き、口をぽかんと開けた。

 さっきの声は、幻ではなかったのか。

 顧大嫂に肩を押され、程小芳が一歩前に出た。

 そして顔を赤らめ、頭を下げた。

「董平と言ったね。あんた、責任取ってもらうよ。あんたと逢わせるって条件で、この娘は梁山泊に力を貸したんだ。この娘は、故郷を失ったんだ。わかるかい、その意味が」

 俺と逢いたいがために、そんな危険を冒したというのか。その覚悟に、董平は素直に敬服するばかりだった。

 程小芳に目を細めてみせ、董平は宋江へ向き直った。

 次は自分が覚悟を見せるのだ。

「今しがた東平府兵馬都監の董平は死んだ。都合のよい話だと分かっている。だが、この程小芳と共に、ここに置いてはくれぬだろうか。この董平、身を粉にして」

「駄目な訳がないだろう。宋江どの、俺からもお願いします」

 言葉を遮り、史進が横に並んだ。そして宋江に頭を下げた。

「もちろん、断る事などできませんよ」

 嬉しそうに宋江が微笑んだ。

 史進と董平も顔を見合せ、笑った。

 そこへ白勝が駆けこんできた。

 盧俊義と共に、東昌府へと赴いていたはずだった。

 悲愴な顔をした白勝が告げたのは、盧俊義軍苦戦という報せだった。

bottom of page