top of page

騒乱

 東平府太守、程万里が頭を抱えていた。

 今年は、直轄地もさほど収穫が見込めないというのに、税を上げるだと。もちろん開封府に意義は申し立てた。

 ちらりと、手にした文書を見る。蔡京の字で、それもこれも梁山泊のせいである云々と書かれている。すでに決定事項であり、覆すことはできないと。

 梁山泊め。ついに東平府にしわ寄せが来たか。

 程万里はため息をつき、ひとりの男を呼んだ。

 董平という、兵馬都監を務めている男だ。

 住民が梁山泊を恨むならまだしも、太守である自分や役人たちを逆恨みしてはたまらない。なので治安の維持に努めるように、と厳命をした。

「お任せください」

 と董平は笑顔で辞した。だが程万里にとって、この董平も頭痛の種なのであった。

 帰り道、董平はとある屋敷を通りかかり、二階に目をやった。ひとつだけ窓が少し開いており、明かりが漏れていた。

 董平はその窓の下で歩みを緩めた。するとまるで分かっていたように、窓から何かが飛んできた。董平はそれを掴みとり、懐へとしまった。そして今度は、董平が何かを窓に向かって放り入れた。

 そして何事もなかったかのように、通りを歩きはじめた。

「む」

 董平の目つきが変わり、身構えた。

 董平の目の前に、若い男がいた。若い男からは、とてつもない強さを感じる。

「貴様、何者だ」

「もしかしてあんた、双鎗将かい」

「む、まあ、そう呼ばれてはいるが」

「やっぱり、双鎗将だ。いやあ、会いたかったんだ」

 董平が訝しむ中、目の前にいる若い男、史進が笑った。

 二人は居酒屋に向かった。

 あまりにも嬉しそうに会いたかったというので、董平も悪い気はしなかったのだ。それにこの男、かなり腕が立つようだ。やはり董平も、強い男は好きだったのだ。

「で、名は何という」

「俺か、俺は、史斌だ」

 と思わず名乗ってしまった。史進と名乗っては、別に思いあがる訳ではないが、梁山泊の者だとばれてしまう恐れがあったからだ。

 史進が東平府にいた理由、それは情報収集だった。

 楊戩の目論見通り、梁山泊に対する民衆の怒りや恨みが噴出した。梁山泊の畑はおろか、陶宗旺の下で働く者たちをも、襲いそうな勢いであった。。

 宋江はやむなく、耕作地の警備を増やさざるを得なかった。あまりこういった措置は取りたくはなかったのだが。

 特に、東平府と東昌府で騒ぎが大きいようで、実情を調べる必要があると考えた。

 そこで史進は、自ら願い出たのだ。

 朱武(しゅぶ)や陳達は、例の夢中になった芸妓に会いに行くのだろうと思っているようだった。だがその芸妓への想いは、とうに絶えて久しい。逆に、その女から情報を得てやろうと考えたのだ。

 以前、東平府に来た時に双鎗将の勇名を聞いていた。史進はひと目会いと思っていたが、結局叶わずじまいだった。

「ほう、華州から来たのか」

 史斌と名乗った史進は、華州で父を亡くし、叔父を頼って東平府に来たと語った。

「そうか、ここで会ったのも何かの縁だ。困ったことがあったら、俺を頼るが良い、史斌」

 史進は、嬉しいような困ったような顔をした。

 酒が進み、史進は先ほど見たことを聞いてみた。

「む、あれは、手紙なのだ」

 董平は酒のせいか、少し顔を赤らめてはにかんだ。

 

 董平が東平府へ赴任したころである。梅の咲き始める季節だった。

 朝早めに街を見物していた董平の耳に、通りの向こうからの短い悲鳴が聞こえてきた。

 急いで駆けつけると、大の男数人で二人の女性を囲んでいた。男たちは明らかに人相も、柄も悪かった。

 初老の小さな女性が、背中に若い女性をかばって男たちと揉めている。遠巻きに数人が見ていたが、止めようとする者はいないようだ。

「ああ、すみませんお嬢さん。この街に来たばかりでして、宜しければ案内などしていただけると助かるのですが」

 董平は男たちを無視するように、近づいた。

「なんだあ、手前」

「道案内なら、俺たちがしてやるよ」

 などと絡んでくるが、董平は男たちを見もしない。

 馬鹿にしてんのか、と男のひとりが董平に掴みかかった。

 董平は苦もなくその手を避けると、傍らに立っていた木の枝に手を伸ばした。梅の木だった。

 董平は枝を折り、再び襲いかかってきた男の手の甲を、ぴしゃりと叩いた。

 男が悲鳴を上げると、他の男たちが一斉に襲いかかってきた。

 董平は円を描くように回り、男たちの鼻っ柱の辺りを枝で、びしびしと打った。枝の梅がその拍子に、ひらひらと董平の周りに舞った。

 ひいい、と涙と鼻血をまき散らしながら、男たちは逃げ去った。

「お嬢さま」

 初老の女性が言うそばから、そのお嬢さまがこちらへ近づいてきた。董平にぺこりと頭を下げる。

「ありがとうございました。困っていたのです」

 お嬢さまの袖を引きながら初老の女性が、早く行きますよと、急(せ)かした。お嬢さまは、分かりましたと言い、董平に向きなおる。

「すみません、急ぎの用があって。もしどこかでお会いしましたら、ぜひ街を案内させてくださいまし」

 もう一度頭を下げ微笑むと、二人は去っていった。

 董平はその微笑みの虜となっていた。

 梅の花のようだと思った。

 手にした枝には梅の蕾が、ひとつ残っていた。

「いかん、いかん、いかんぞ。絶対にいかんぞ。軍人だけは駄目なんだ」

 程万里は千切れるのではないかというほど、首を振った。

 娘が街に出た時にごろつきどもに囲まれた。そこを通りがかりの男に救われたのだという。

 両の手を胸の前で合わせ、飛び跳ねるように話す娘は、恋をする女の顔だった。

 最近にしては珍しい男もいたものだと、程万里も感心していた。

 だがそれが先日赴任してきた兵馬都監のことだと知ると、程万里は掌を返したのだ。

 程万里は決めていた。娘が生まれた時から決めていたのだ。嫁がせるのならば役人でなければならない、と。しかも高官と呼ばれる者である。

 程万里はかつて童貫の下で家庭教師をしていた。そこでさんざん見てきたのだ、軍人という奴を。すぐに力を鼓舞しようとする彼らを、程万里は理解することができなかった。

 なにより戦に出たならば死ぬことだってあるではないか。残された娘はどうなる。だからそう決めていたのだ。

 だが娘が惚れた相手が軍人だとは。

「分かっておくれ、小芳。お前のためを思って、私は言っているのだ」

「嘘。その人が軍人だから言っているんだわ」

「いや、それは」

「ほら、やっぱりそうじゃない。お父さまなんて、大嫌いよ」

 程小芳が頬を膨らませて、自室へと行ってしまった。

 参ったな、と頭を抱える程万里であった。

 しかし逢えないとなると、燃え上がる。そして許されぬ間柄だからこそ、より結ばれたいと思うのが恋であった。

 かくして董平と程小芳は、窓辺の逢瀬をするに至ったという訳だ。

 史進が、良く分かるというような顔つきになっていた。

「まあ太守どのも、俺が大功を立てた暁には、きっと認めてくれるだろうさ」

「なるほどな。で、その大功とは」

「そうだな。さしずめ梁山泊を撃退する、とかな」

 ほう、と史進が杯にそっと口をつけ、にやりとした。

「俺がその梁山泊だぜ、董平どの」

 一瞬のうちに董平の顔色が平素のものになり、目が殺気を帯びた。だが、それと同じくらい瞬時に、酒を飲んでいる時の表情に戻った。

「ふふふ、お前がそうだとしたら嬉しいかもな。実に戦ってみたい男だからな、史斌」

「はは、嬉しいことを言ってくれる」

「嘘じゃない。本当だ」

 二人はもうしばらく飲み、別れた。

 風はまだ涼しい。

 酔いを醒ますように歩く史進は、月を見上げた。

 どうして、梁山泊の者だ、などと言ってしまったのだろう。これで捕まえられては、またしくじってしまう。

 だが何となく、董平には言ってみたくなったのだ。

 史斌と名乗ってしまったことを、史進は少し悔いた。

 

「何さ、いまさらのこのこやってきたりなんかしてさ」

 怒ってはいない。からかう様な口調で、李瑞蘭が史進に言った。

「もう来ないと決めていたのだ。だが、久しぶりに来たらやはり顔を見たくなってしまってな」

「あら、もう酔ってるのかい。まだ宵の口じゃないのさ」

 ふふ、と史進が笑う。

 自分でも言ったが、来てしまった。

 王進に会うために少華山を飛び出したが、結局会うことは叶わなかった。だが、すぐに戻るのも気が引けて、見聞を広めようと各地を旅することにした。

 そして山東地方、東平府で会ったこの李瑞蘭という芸妓に入れ込んでしまったのだ。

 少華山に戻ってからも何度か、朱武に隠れて会いに来ていた。

 だがそのうち思い出す事も少なくなり、ついにはもう会う事もあるまいと思っていた。

 ついさっきまでは、だ。

 昔の気持ちは、もう無い。なんだか古馴染みと会ったような思いだった。

「お酒を持ってくるわね」

 李瑞蘭が部屋を出て行った。

 厨房に行き、店主と目が合った。

「おい、あの男」

「ええ、分かってる。史進って言やあ、梁山泊の一味じゃないか。しばらく顔を見せないと思ったら、まさかねえ」

「あまり関わるんじゃないぞ。連中に目をつけられたら、街ごと焼き払われるって話だ。曾頭市しかり、北京大名府だってやられたんだ」

 そこへ女将の婆さんが出てきた。

「おい、お前たち。なに生ぬるいこと言ってるんだい。その男をとっととふん縛って、お上に突き出すんだよ」

 いや、だが、と災難を避けようとする店主だったが、婆さんは気炎を吐く。

 その剣幕に、李瑞蘭も覚悟を決めた。

 史進が、新しい酒をちびりとやった。

「どうした。暑いのか」

 李瑞蘭の額に汗が浮かんでいた。

「あたしは、止めようとしたんだ」

 李瑞蘭がそう言うと同時に、十人ほどの捕り手が飛び込んできた。

 座ったまま史進は、目だけを動かす。

 捕り手の持つ棒が、史進の背や肩に襲いかかる。李瑞蘭は、短い悲鳴を上げ、体を固くした。

 史進は動かなかった。十本近い棒の打撃を、その身ひとつで受けた。

 嗚咽を漏らしたのは捕り手たちだった。打った者の手がびりびりと痺れ、棒もまともに握れない。

 邪魔したな、と史進がすっくと立った。

「おい、待て」

 と捕り手たちが口々に叫ぶが、近づくことができない。

 去ろうとする史進。だが階下に応援の者たちが駆けつけたようだ。

 ふいに史進の意識が飛びそうになった。辛うじて柱をしっかと掴み、膝をつく事だけは防いだ。薬か。

 ぼんやりと李瑞蘭の姿が見える。かつての見なれた視線ではない、山賊を見るような目つきだった。

「残念だ」

 抗(あらが)い難い眠気に、史進が倒れた。

 翌朝、董平が牢へと駆けつけた。梁山泊の頭目を捕らえたと聞いたからだ。

 董平は何と言って良いのか分からなかった。

 縄できつく縛られているにもかかわらず、その男は笑っていた。

「また会っちまったな」

「史斌、お前、本当に」

「いや、すまん。本当は、史進というのだ」

 そして史進は、悪戯をして叱られた少年のような顔をした。

bottom of page