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恩讐

 燃え盛る曾頭市を、眇めるようにして盧俊義が見ていた。

 曾頭市から伸びる裏道である。

 曾頭市は陥ちた。ついに前線で戦う事はなかった。配下の兵を戻し、今は独りであった。

 だが、それでも盧俊義は満足そうな顔をしていた。いや、むしろ裏道に配置されたことが、盧俊義にとっては幸運だったのだと思った。

 がさり、と草むらが揺れた。

 すうっと影のように何者かが現れた。

 盧俊義も、その目で見なければ気付かなかっただろう。

 それほどまでに、その影は気配を感じさせなかった。

「待っていたぞ」

 ぴくりと影が動きを止めた。そして振り向きながら、消していた気を盧俊義に向けて解放した。

「誰だ。貴様は」

 振り向いた影は、史文恭だった。

 史文恭から発せられる気が、肌をひりつかせるほどだった。

 だが盧俊義は屈しない。

「覚えているだろう。とるに足らない相手だと、忘れてしまったか」

「貴様など知らぬ。まあ誰であろうと殺すまでだがな」

 す、と史文恭が一歩前に出る。

 盧俊義を圧す力が、ぐんと強まる。

「もう、とぼける必要はない。他の者は騙せても、わしの目はごまかせん」

 史文恭が目を細めた。無言のまま腰を落とし、攻撃の態勢をとる。

「姿形が変わっても、その目だけは変わらん」

 盧俊義も半身になり、棒を横たえた。

「すべての決着をつけさせてもらう。晁蓋の仇、そして小燕子の仇を」

 史文恭、いや大哥が蛇のような笑みを浮かべた。

 

 思い出すだけで、顔面に激痛が走る。

 何度その光景を夢に見て、飛び起きただろうか。

 許せん。許せん。許せん。

 晁蓋め、絶対に許さんぞ。

 大哥は、顔を掴むように押さえ、何度も肩で大きく息をした。

 

 小燕子に熱をあげていた盧俊義とかいう男は、すっかり姿を見せなくなった。

 金持ちの子倅などそんなものだ。ちょっと脅しただけで、この様だ。

 その点、俺は別だ。

 俺が一番、小燕子を愛しているのだ。小燕子を傷つける者は、俺がすべて排除してやる。俺が小燕子を守ってやるのだ。

 鄆城を離れる時、小燕子が誰かと会っていた。

 盧俊義ではない。奴と一緒にいた晁蓋とかいう男だ。

 あの男も小燕子に言い寄っているのか。盧俊義が思いを寄せていることを知っているはずなのに、碌な男ではないな。

 一座は鄆城から北上し、いくつかの街に寄ってから北京大名府へと向かう予定だった。

 沈みがちだった小燕子の顔が明るくなったようだ。

 あの連中と離れたおかげだろう。

「あの方が、大名府にいるんです。晁蓋さまが教えてくれました」

 嬉しそうに笑う小燕子に、大哥は愕然とした。

 何という事だ。盧俊義に会いたいというのか。

 どうしてだ、小燕子。お前をさんざん振りまわした揚句、会いにも来なかった男だぞ。どうしてだというのだ。

 奪われる。

 大哥はそう直感した。そしてまた、思った。

 奪われる前に、奪ってやる。

 とある小さな村で興行をした。寒村と言えたが、村人は温かく迎えてくれた。

 ここだ、と大哥は決めた。

 三日目だっただろうか。大哥は村を抜け出した。そして単身、近くの山に居を構える賊を訪れた。山上の古寺を占拠しているようだった。

「なんだあ、手前は」

 朴刀を揺らしながらそう言った男の首が、真後ろを向いた。男は死んだ事さえ気付かずに倒れた。

 大哥は山賊を力でねじ伏せた。頭領らしき男が命乞いするように言った。

「あっしらは、何をすれば良いんで」

「あの村を襲え」

 そして村に血の雨が降った。

 大哥は共に山賊と戦うふりをして、小燕子を気絶させた。

 その服を、死んだ村の若い娘に着せ、大哥と山賊は山へ引き上げた。

 その後、山賊たちが地獄を見た。

 大哥はひとりも残すことなく、拳と蹴りで山賊を殺し尽した。

 これで誰も、俺たちの事を邪魔する者はいない。

 足枷をつけられた小燕子が怯え、震えていた。

「もう、安心しろ。ずっと俺が側にいるからな」

「大哥、あなた何をしたか、わかっているの」

 大哥は冷たい目で、小燕子の頬を張った。

「もう口答えはするんじゃない。いいね、小燕子」

 小燕子の、震えが大きくなった。

 その瞳には、絶望しか見えていなかった。

 

 赤子が産まれ、半年ほど経った。

 くるくると良く動く大きな瞳が、小燕子そっくりな男の子だった。

「こんな所にいたとはな。やっと見つけたぞ」

 そこに晁蓋が立っていた。

 よくぞ見つけられたものだ。

 大哥は少し驚いたが、何も問題はない。この男も殺すだけだ。

 晁蓋の目は、大哥を見ていなかった。すっかり痩せ細り、頬もこけ落ち、虚ろな瞳の小燕子を、すまなそうな目で見ていた。

「辛かったろう。今、助けるからな」

 小燕子の瞳から、縷々と涙が流れ落ちた。

 大哥が風の如き素早さで動いた。晁蓋がその拳に打たれ、一丈ほど吹っ飛んだ。

「俺たちの幸せな暮らしを、邪魔するんじゃあない」

 大哥が吠え、飛んだ。蹴りを晁蓋に打ち込もうとするが、かわされた。晁蓋が横向きに転がり、立ち上がった。

 馬鹿な。確かに手ごたえはあった。並の人間ならば、絶命していてもおかしくないほどの拳だったのだ。

 晁蓋が拳を握り、構えた。

 なるほど、並の人間ではないという事か。

 いいだろう。ならば徹底的に壊してやるだけだ。

 晁蓋が向かってくる。大哥も飛び出そうとした。

 だが、動けなかった。

 大哥の足首を、小燕子が握っていた。その細い枝のような腕で、しっかりと掴んでいた。

 次の瞬間、大哥の顔面に、鉄塊のような晁蓋の拳が襲いかかった。

 手首までめり込んだのではないか、というほどに強烈な拳だった。だが晁蓋はそれで終わらなかった。

 何度も、何度も、鉄の拳を大哥の顔面に打ちつけ続けた。

 大哥の顔の形が変わるほど、晁蓋は殴り続けた。

 ひゅっ、と息を吐き、大哥が倒れた。大哥は大量の血を吐き、呼吸を止めた。

 それを確かめ、やっと小燕子がその手を放した。

「すまない。見つけるのに時がかかってしまった」

 晁蓋がふらつきながら、小燕子の元へ歩いてくる。

 やはり大哥の拳を受け、平気ではなかったのだ。口の端から血の筋が垂れていた。

「晁蓋さま」

 小燕子の瞳からは涙がとめどなく溢れている。

 すまない、と晁蓋は何度も謝った。

 ほどなくして小燕子が事切れた。

 晁蓋は哭いた。雄叫びのような鳴き声を上げた。

 赤ん坊は目の前で起きた事を知らず、晁蓋に向かって笑いかけた。

 晁蓋は赤ん坊を抱き、小燕子の瞼を閉じさせた。

 すまない、ともう一度呟くと、近くの木切れを拾い上げ、それに字を認(したた)めた。

「この子は必ず、盧俊義の元へ届ける。成仏してくれ、小燕子」

 簡素な位牌であるが、晁蓋はそれを供え、山を下りた。

 そして悲しみを抱いたまま、大名府へと足を向けた。

 晁蓋はひとつだけ失敗をしていた。

 大哥の死を、確かめていなかった事だ。

「がふっ」

 と肺腑の奥から血を吐き、大哥は目を覚ました。

 すでにあたりは闇だった。

 目を覚ましたものの、大哥はしばらく動くことができなかった。

 顔が、顔の中から痛みが湧き出してくるようだ。

 目を閉じるたび、大きな拳が眼前に迫ってくる光景が、何度も繰り返し甦ってくる。

 やっと起き上がることができた大哥は知った。小燕子の命の灯火が消え、赤ん坊がいなくなっていることに。

 あいつか。晁蓋の仕業か。

 許せん。許せん。許せん。

 絶対に許すものか。

 大哥は山を下り、ふらふらと北へ向かった。

 晁蓋を殺してやる。どんな手を使っても殺し、我が子を。小燕子との子供を取り返してみせる。

 数年、物乞いじみた生活の中で、過ぎゆく人の言葉を耳にした。

 梁山泊の頭領が、晁蓋という者に代わったそうだ。その晁蓋は、もと東渓村の保正だったという。

 復讐を誓う大哥は、なおも道を求めた。

 やがてひとつの噂を耳にする。

 曾頭市が近ごろ勢いが盛んである。祝家荘と同じく、賊などには負けないと豪語しているのだという。

 これだ、と大哥は思った。

 なにも自分から出向く必要はない。晁蓋の方をおびき寄せれば良いのだ。

 大哥は、曾頭市に入った。元からいた蘇定という男など、足元に及ぶはずもなかった。

 かくして曾頭市の武芸師範、史文恭が誕生した。

 

 盧俊義と大哥が向き合っている。

 両者、一歩も動けずに睨みあっていた。

「あの頃よりも、腕を上げているんじゃないか」

 大哥が揶揄するように言った。

 取り合わない風を装うが盧俊義は、その通りだと思った。

 最期に小燕子に会いに行った時、この男、大哥の気に負けた。

 小燕子への思いはそれしきだったのか。悔しかった。

 大名府に戻った後も、盧俊義はその武芸を研鑽していた。

 河北の三絶、その呼び名は決して誇張などではなかったのだ。

「逃げることは、今でも上手いようだな」

 盧俊義は視線を、大哥から外さない。

 赤子を抱いて現れた晁蓋は、なにも告げなかった。

 赤子は、小燕子の子である。それ以上は言わなかった。それは晁蓋の優しさだったのだろう。

 だが全てが明らかになった。目の前の大哥こそ、憎むべき相手だったのだ。

「史文恭は討ち取られた。これで終わるはずだったのだ」

 ぼそりと大哥が言った。

 大哥は周到に準備をしていた。

 晁蓋を殺しさえすれば良かった。あとは曾頭市などに縛られず、逃げだせば良い。そう考えていた。

 かくして復讐は果たした。己の顔を、元の形が分からなくなるほどにした、晁蓋を殺した。

 仕掛けは施してあった。史文恭の名を刻んだ、矢である。

 晁蓋の仇は史文恭だ。そう印象づけるのに、充分だった。

 そして次の仕掛けだ。

 必ず梁山泊は復讐に来るだろう。それを狙った。

 その時に、曾頭市を負けに導き、混乱に乗じて己は姿を消す。それを果たすのに蘇定を生かしておいた。

 最後の戦の前、蘇定を殺した。その骸を照夜玉獅子に乗せ、走らせた。

 それが史文恭だと、誰もが思うようにである。

 そのために、ことさら照夜玉獅子に乗った姿を見せつけていたのだ。

 史文恭は死ぬ。それで梁山泊の復讐は終わる。

 だが自分は生き延びるというわけだ。また名を変え、生きてゆけば良い。

 そもそも史文恭という男など、初めからいないのだから。

「思ったよりも、小賢(こざか)しい男だったのだな」

「死んでからも、そんな口を叩けるのかな」

 じりっと盧俊義と大哥の間が近づいた。

 大哥が消えた。

 一瞬の後には、盧俊義の眼前に迫っていた。

 棒を胸元に引き上げ、盧俊義は大哥の拳を何とか防いだ。

 飛び退った大哥が、邪悪な笑みを浮かべた。

 盧俊義の頬に汗が伝う。

 得物を持ってしても、徒手の奴に敵わないというのか。

 再び、大哥が跳んだ。抜き手が、盧俊義の首筋を狙う。

 だが、大哥の腕が弾かれた。

 盧俊義の前に、男が立っていた。

「旦那さま、加勢いたします」

 大哥に向かって半身に構えた燕青が、そこに立っていた。

 

 大柄な盧俊義はもちろん、大哥と比べても小柄と言えた。

 だが燕青はそれを苦とする事もなく、むしろその速度を活かし、矢継ぎ早に鋭い拳を放つ。

 拳筋を見極めようとする大哥だったが、目まぐるしく動くその足で、次の一手をも予測することができなかった。

 拳を当てられたのは、晁蓋以来だろうか。

 大哥の目の際(きわ)が切れ、鼻からも血が流れ出た。

 強い。

 そして美しい。

 劣勢に立ちながらも、大哥はそう思ってしまった。

 顎を掠るような一撃を喰らい、意識が少しだけ飛んだ。だが倒れることなく足を踏み込み、燕青の追撃を阻んだ。

 は、と大哥が大きく目を見開いた。

「お前か。お前なのか」

 大哥は両手を広げ、嬉しそうに微笑んだ。まるで我が子を抱きしめるように、その腕を広げた。

 盧俊義は、大哥に向かって棒を突きあげる。

 燕青は知らぬのだ。そして知ってはならぬのだ。

 大哥は棒をかわし、蹴りを放った。蹴りは盧俊義の横っ腹をしたたかに打った。

 血を吐き、よろめくが盧俊義は堪えた。

 守るように前に立ちはだかる燕青に向かって、大哥は悠々と歩を進める。

「ようやく会えたな。大きくなったな。そっくりだ。その目、その顔。本当にそっくりだ」

 燕青は睨むように大哥を見ている。

「俺だ。お前の父は俺なのだ。ああ、立派に育ったなあ。しかもその強さと美しさは、俺と小燕子の血だなあ」

「やめろ、大哥」

 盧俊義が叫ぶ。

 大哥は唸るように言った。

「そう呼んでいいのは小燕子だけだ。大哥ではない。聞け息子よ、俺の名は」

 大哥の言葉が途切れた。

 大哥の口からは、血ばかりが溢れだしていた。

 大哥の喉に、矢が突き立っていた。

 いつの間にか、燕青が弩を手にしていた。

「お前の名は、史文恭だ」

 突き立つ矢に、史文恭という文字が書かれていた。晁蓋の命を奪った、あの矢だった。

 大哥が矢を抜こうともがく。目をこれでもかと大きく見開き、燕青を見ていた。

「私の母は小燕子、そして」

 盧俊義が踏み込み、棒を突いた。

 乾いた音がして大哥の、史文恭の頭が弾け飛んだ。

「私が父と呼ぶのは、盧俊義さまだけだ」

 燕青のその言葉を、大哥は聞くことはなかった。

 盧俊義の頬にひと筋、涙が伝った。

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